先日、亀戸天神社で恒例の「梅まつり」をやっていたので、久しぶりに観にいってきた。菅公の亀戸天神は、江戸期の1663年(寛文3)建立なので、江戸東京では相対的に新しい「名所」だ。でも、幕末にはかなり人気があった地域とみえ、安東広重の『名所江戸百景』には、第30景「亀戸梅屋敷」と第65景「亀戸天神境内」の2景が取り上げられている。
この2景は、画家であるモネとゴッホが模倣したことであまりにも有名だけれど、ゴッホの描いた「梅屋敷」は明治期の水害で消滅し、モネが描いた亀井戸天神の風景は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で跡形もなくなってしまった。ただし、関東大震災Click!にも東京大空襲Click!にも焼け残った建物がある。天神社境内の北西部、神輿蔵の並びに建っている大きな蔵だ。
亀戸は、当初はB29の爆撃目標にされていなかった・・・という話を、いつか親父から聞いたことがある。米軍は、隅田川の東側沿岸である本所・深川・向島界隈、そして西側沿岸の日本橋・神田・浅草界隈を爆撃の主目標にしていたというのだ。隅田川の東側は、横十間堀(川)つまり錦糸町あたりまでが爆撃エリアであり、さらに東を爆撃する予定ではなかったらしい。
大川の両岸は繁華街も多く住宅が密集し、また工場も多かったので爆撃の最優先エリアだったようだが、実際にB29による爆撃が開始されると、ナパーム焼夷弾の威力が想定以上だったため、その周辺域にも余剰の焼夷弾で爆撃を加えていった・・・という経緯なのだろう。事実、亀戸への爆撃は本所・深川地区に比べ、かなりの時間的なズレがある。だからこそ、本所・深川地区で被爆した人たちは、いまだ火災が見えない亀戸方面をめざし、横十間堀(川)を渡っていったのだ。ところが、避難した先にも焼夷弾Click!が霰のように降りそそぐことになった。空襲の猛火をくぐり抜けた亀戸天神社の蔵は、あちこちに焼け焦げを残しながら現在でも往時のままの姿で建っている。
話は変わり、千葉県南房総で青木繁が1904年(明治37)に描いた、『海の幸』の仕事場である古民家保存の活動をされている、「NPO法人安房文化遺産フォーラム」Click!の池田様より、映画『赤い鯨と白い蛇』(せんぼんよしこ監督)上映会へのお誘いを受けた。青木繁が滞在した古民家の近くには、中村彝Click!が滞在して1910年(明治43)に制作した『海辺の村(白壁の家)』Click!の描画ポイントもある。映画は、高円寺で上映されるということなので、さっそく出かけてみた。
せんぼんよしこの作品は、わたしも過去にTVドラマを何本か観ているけれど、特に印象に残っているのは1988年(昭和63)にNTVで放映された、井上光晴Click!原作の『明日-1945年8月8日・長崎-』だろうか。彼女のドラマはよく観ているが、映画作品は初めてだった。(初監督作品ということだ) 会場となった「セシオン杉並」のロビーには、東京大空襲の被爆直後の写真が10数点展示されていた。大空襲の資料類で、わたしにも見憶えのある写真ばかりだ。
『赤い鯨と白い蛇』は、このサイトでも先年記事にしたことがある、米軍による首都攻略の「コロネット作戦」Click!に備えていた敗戦まぎわ、千葉の館山で防衛任務(特殊潜航艇「海龍」基地の特攻任務)についていた海軍士官と、士官を宿泊させていた民家の女学生との淡い恋物語・・・なのだけれど、映画のほとんど全編が当時ではなく現代の館山を舞台に描かれている。わたしの義父が、ちょうど九十九里浜で塹壕堀りをしていたころを起点とする物語だ。
館山は、戦前から海軍の聨合艦隊が集結する海であり、横須賀で建造された軍艦が公試運転を行なう海域でもあった。1940年(昭和15)に「紀元2600年」の観艦式に集まった、館山沖の聨合艦隊の姿をとらえた空中写真が現存している。また、敗戦が濃厚になり突貫工事で造られたため、非常に象徴的で皮肉な運命をたどった、横須賀海軍工廠の大和型戦艦の3番艦「信濃」(途中で航空母艦に改装)が、工事をつづける造船所の技術者や作業員たちを大勢乗せたまま、最後の公試運転を行なった海でもある。(その姿もB29の偵察機によって撮影されている) 湘南海岸や鎌倉ではほとんど壊され消えてしまったけれど、館山には湘南と同じように海岸のあちこちに、「コロネット作戦」に備えて造られたコンクリートのトーチカや地下施設が、そのままの姿で現存している。
ネタばれになるので詳しくは書かないけれど、戦時中のシーンをほとんど挿入せず、現代に生きる女性たちの姿を描くだけで、これほど「あの戦争」を強く感じさせる作品もめずらしいだろう。直接、「戦争は悲惨だ」という描写はほとんどなく、70代から20代までの4世代(小学生まで入れれば5世代)にわたる女性の生き方を通して、「教科書」に載る歴史としての出来事ではなく、消すことのできない痕跡をいまに残すもの・・・として、連綿と今日まで継続して繋いでみせた。むしろ、そこここで笑ってしまうシーンが多いのは、向田邦子Click!ドラマ(『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』など)のコンビで懐かしい、樹木希林と浅田美代子の絶妙な“かけあい”や“間”があるからだが、香川京子のリアリティあふれる演技がひときわ光っていた。
映画は感動的で、また「楽しく」鑑賞できたのだけれど、気になったのは「セシオン杉並」の会場のほうだ。主催したのが「杉並女性団体連絡会」だったせいか、男性があまり・・・というかほとんどいなかった。気がつけば、570席ある座席のほとんどが女性で占められていた。それにしても、「戦争」へ敏感に反応するのは、現在でも“産む性”たる女性のほうが多いのだろうか? それを象徴するかのように、映画のラストシーンには出産したばかりの母子が登場している。
『赤い鯨と白い蛇』では、妊娠から出産を決意する20代前半の女性がひとり描かれているけれど、同じせんぼんよしこの『明日』では、難産でようやく出産したにもかかわらず、明日へ生きられなかった母子が描かれている。B29の爆音が響くなか、投下されたパラシュート付きの原爆を見上げ、本能的な戦慄からスイカを取り落としてしまう助産婦(妊婦の母?)も、樹木希林が演じていた。
■写真上:亀戸天神の境内に残る、関東大震災と東京大空襲とをくぐり抜けてきた蔵。
■写真中上:上は、亀戸天神の「梅まつり」の様子。下は、1947年(昭和22)の亀戸天神上空。
■写真中下・下:せんぼんよしこ監督の映画『赤い鯨と白い蛇』より。
この記事へのコメント
漢
ChinchikoPapa
お褒めにあずかるほどの内容ではありません。3/10でなにか書かなければ・・・との想いだけで、最近の出来事をツギハギで無理やりくっつけた駄文です。
「青年」は、競馬場で賞金をすべてすってしまったのでしょうか? 気になります。^^;
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>shinさん
ponpocopon
空襲の話は生前の父からよく聞きました。
多くの遺体を祖父と一緒に片付けた話などなんでもないように飄々と話す父が不思議でした。家が日本特殊鋼という軍需工場の近くであり、平和島には捕虜収容所があったのでピンポイントで爆撃をしてくるので低空飛行の爆撃機の操縦士の顔まで見えたという話も叔母から聞きました。その怖さたるやちょっと想像がつきません。
sig
3/10について、上記の映画もそうですし、ChinchikoPapaさんたちの世代がこのような形で語り継ごうとされていることをうれしく思います。
ちなみに年は違いますが3/10は私の誕生日。東京大空襲の話は忘れようとて忘れられません。ちなみに今日で68歳です。ああ!
ChinchikoPapa
想像を絶する体験だと思うのですが、その壮絶な体験からか、あまり話したがらない方も多いですね。わたしの祖父の世代は、関東大震災の話はよくしてくれましたけれど、戦争の話はあまりしたがりませんでした。敗戦のとき、いまだ10代の終わりぐらいで大学生だった親父の世代の人たちは、けっこう詳しく話して聞かせてくれたと思います。
ただ、召集や学徒動員で実際に戦場へ送りこまれた方と、親父のように理工系で戦場には行かずに、国内で空襲から逃げまわっていた人たちとでは、またずいぶん「戦争体験」の内容が異なりますね。太平洋戦争前から戦場にいた義父は、あまり戦争のことを話したがりませんでしたが、敗戦まで学生だった親父は、かなり克明に詳しく話してくれたと思います。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
ChinchikoPapa
東京大空襲はさておいて、sigさん、お誕生日おめでとうございます。^^/
いえいえ、驚くほどの精力的なご活躍といい、たくさんの映像作品を創作しつづけるポジティブな生き方をされているその姿勢といい、いまの40代よりもはるかにお元気です。なにかを創造(想像)しつづける人間は、なかなか歳を取らないといいますけれど、sigさんはそのお手本のような方です。
わたしは、やや不精でいい加減な性格ですので、追いつけるかどうかわかりませんが、ぜひお手本とさせていただきます。^^
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ぐっとれさん
ChinchikoPapa
それから、「信濃ってなに?」というメールをいただいたので、右に写真を掲載しました。1944年(昭和19)に、横須賀港を出て千葉の館山沖で公試運転中の空母『信濃』です。この写真は、同艦を海上からとらえた唯一現存するものです。艤装工事中のまま海軍に引き渡され、わずか10日で米潜水艦の攻撃を受け、多くの乗組員とともに紀伊半島沖で沈没しました。敗戦間近の突貫工事から、造船では必須の気密試験を大幅に省略したため、浸水が止まらなかったのが沈没の主因といわれています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa