画家たちが見た二二六事件。

雪の相馬坂.jpg
 以前、わたしの祖母が二二六事件Click!の朝、まだ小学生だった親父を連れ「東京が火の海になっちまう。見納めだよ!」と、円タク(1円タクシー)をやとって東京じゅうを“市内見物”Click!してまわった話を書いた。まったく同様に、円タクをやとって市内見物をしていた人たちがいる。下町で泊りがけの仕事をしていて、二二六事件に遭遇した画家たちだ。
 当日の朝、どうして大勢の人たちが事件のあらましをほとんど同時に知りえたのか、いまだに謎だ。「公式」記録では、ラジオは放送されておらず沈黙していたことになっている。でも、わが家の場合は、親父の話によればラジオは事件を伝えていたことになっている。もっとも、2月26日ではなく27日の記憶の齟齬なのかもしれないが・・・。あるいは、早朝(事件直後)には臨時ニュースを流していたものが、途中から沈黙したのだろうか。まるで、広島原爆のときに流れた、広島放送局の「幻の声」のような放送があったのだろうか? 広島の「幻の声」は、被爆直後に広島放送局は壊滅していたはずなのだが、大勢の人々がラジオから救援を求める悲痛な女性アナの声を聞いている。
 さて、下町で仕事をしていた画家とは、洋画家・野田英夫と寺田竹雄のふたりだ。新橋にあった米国風の高級バー「コットンクラブ」で、店内の壁画を描く仕事だった。「コットンクラブ」は、当時ダンスホールで有名な「フロリダ」と同一の経営者で、フランスではなく米国仕込みのふたりの洋画家へ店内装飾をまかせたらしい。余談だけれど、東京の乃手が“ヨーロピアンナイズ”されていたのに対し、下町は圧倒的に“アメリカナイズ”されていた点も、ふたつの街を特徴づける大きな違いだ。小林信彦もあちこちで書いているし、親父もしばしば口にしていたけれど、太平洋戦争が始まったとき「米国の最新映画(特にディズニー映画)が、これで観(ら)れなくなったじゃないか!」と、怒ったり不満をぶちまけた「非国民」がたくさんいたのが、昔からの下町Click!だった。
山王ホテル.jpg 半蔵門.jpg
 1936年(昭和11)2月26日、大雪の新橋で朝を迎えた野田と寺田は、円タクをやとって東京市内をめぐることになる。1990年(平成2)出版の宇佐美承『池袋モンパルナス』(集英社)に収録された、寺田竹雄の証言から引用してみよう。
  
 ぼくは杉並に住んでたんだけれど、壁画の制作がはじまると、野田とふたりでクラブのちかくの下駄屋の二階を借りて寝泊りしはじめたんだよ。クラブは夜の商売だから、閉店後の真夜中に仕事にとりかかって一段落すると朝になるんだ。その日仕事がおわってタクシーで家へかえろうと思ってそとへ出たら、もう雪がつもって、まだ降りつづいていたんだ。タクシーの運転手が、ゆうべは大変でした、というんだよ。岡田首相や高橋蔵相が殺されて、東京中に反乱軍があふれてるっていうんだよ。野田がさっそくみにいこうといって、タクシーをとばして宮城前へいったんだ。銃剣をつけた兵隊が横なぐりの雪のなかにならんでたよ。こりゃ大変だということで土橋にもどると鉄条網を張って機関銃がならんでたよ。本拠は溜池の山王ホテルにあるというんでそこへもいったよ。いま防衛庁のある麻布三連隊へいったら、埼玉からきていた兵隊が青い顔して立ってたよ。 (同書「第七話 祖国と異国」より)
  
野田英夫帰路1935.jpg 野田英夫.jpg
 野田と寺田のふたりは、祖母とはほぼ逆まわりに東京市内を走っている。やはり途中で、何度も停車を命じられて誰何(すいか)されたのだろう。興味深いのは、麻布三連隊の近辺を埼玉から派遣されてきた兵士が警備していたことだ。つまり、事件を起こした「信用」できない地元の第1師団や近衛師団の連隊兵士を街へ展開・警備させていたのではなく、隣県からわざわざ警備兵を連れてきて東京市内に配置していたようだ。野田と寺田は誰何されたときに、おそらく兵士がどこから来たのかを訊ねたものだろう。事件の翌日、危うく難を逃れた岡田啓介首相Click!は下落合の佐々木久二邸へ逃げてくることになる。また、この事件があってからすぐあと、六本木に住んでいた義父のもとへ“赤紙”Click!がとどき、第1師団第1連隊(麻布1連隊Click!)へ入営している。
 サンフランシスコ帰りの寺田竹雄はともかく、米国籍だった野田英夫のほうは米国共産党の党員だったといわれており、日本へもどったのは情報収集が目的だったとみられている。親友の寺田にも、ひそかに「使命をおびてやってきた」と打ち明けていたようだ。だから、事件に敏感に反応し、タクシーをとばしては市内の情報をいち早く集めていたのだろう。祖母と親父の市内見物とは異なり、少なくとも野田のそれは非常に意識的だったと思われる。
乃木希典邸.JPG 勝海舟邸跡.JPG
 野田英夫は二二六事件のわずか3年後、1939年(昭和14)に30歳の若さで病死しているが、その表現が松本竣介Click!へ多大な影響を与えたのは有名だ。東京近美には、野田が1935年(昭和10)に描いた『帰路』と並んで、松本作品が架けられている。また、油絵作品の少ない野田だけれど、寺田とともに壁画制作の仕事にも大きな足跡を残している。

■写真上:雪の下落合は、御留山に隣接した相馬坂。
■写真中上は、事件の拠点となった山王ホテル前の「反乱」兵士。は、半蔵門あたりで女性(僧侶?)に誰何する兵士。背後には、カバーをかけた機関銃が設置されているのが見える。
■写真中下は、1935年(昭和10)制作の野田英夫『帰路』。は、野田英夫のポートレート。
■写真下は、麻布1連隊に近接して建つ乃木希典邸。は、同じく近くの勝海舟邸跡。
警視庁.JPG 法務省.JPG

この記事へのコメント

  • アヨアン・イゴカー

    >米国籍だった野田英夫のほうは米国共産党の党員
    言われて見れば、どこかプロレタリア芸術的なところが感じられます。象徴的であり尚且つ抽象に走らない、この絵画表現は、1930年代の匂いがします。
    2009年02月26日 00:45
  • ChinchikoPapa

    アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    おっしゃるとおり1930年代の匂いとともに、ロシア構成主義の雰囲気もただよっていますね。先日、銀座のフィルムセンターでロシア・アヴァンギャルドの映画ポスター展を見てきたのですが、中には今へとつながる斬新な表現が見られて面白かったです。
    2009年02月26日 12:29
  • ChinchikoPapa

    そういえば、サードが飲んでいるようなウィスキーの茶色いポケット瓶に、しばらくお目にかかっていないです。あれだけは缶でも紙パックでもなく、茶色のガラス瓶でいてほしいですね。nice!をありがとうございました。>漢さん
    2009年02月26日 12:36
  • ChinchikoPapa

    『アルフィー』のテーマは大好きですが、かんじんの元映画を観損なってますね。メッセンジャーズやマイルスの映画は、マメに観ているのですが・・・。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2009年02月26日 16:29
  • ChinchikoPapa

    わたしも仕事の付き合いや接待から、銀座のクラブへ何度か行くハメになったことがありますけれど、ぜんぜん酒が美味しくないですね。ホステスさんたちはビジネスをしているのだ・・・という意識がありますから、そもそも落ち着きません。それに地元東京なのだから、野暮ったいハデハデ着物やドレスに白塗りの化粧じゃなく、もう少し地域の美的センスを磨いてほしいものです。nice!をありがとうございました。>sigさん
    2009年02月26日 16:39
  • sig

    こんにちは。
    本文とは外れますが、私の地元に二二六事件ゆかりの像と碑があることを2年前に知りました。
    像は日蓮。碑は栗原中尉の父・栗原勇大佐が日蓮像建設委員長として建立したもので、元は駒場・松見坂の庚申堂構内にあったものだそうです。
    建立協力者として熱心な日蓮宗信者である松谷磐少佐がおり、その関係で日蓮宗となったものらしいです。寺の名は日本山妙法寺です。
    2009年02月26日 16:58
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントをありがとうございます。
    横浜の権現山(港北区)近くに、栗原勇が建立した「愛国寺」というのがあったそうです。ニニ六事件が起きる前から建っていたようで、栗原勇は事件後に出家して僧になりますね。もともと熱心な日蓮宗門徒の家庭だったようですが、それが息子にどのような影響を与えたものでしょうか。
    先週末、学生時代のゼミのひとつで歴史学を教えてくれた恩師が88歳で亡くなりましたが、先生のライフワークが「ニニ六事件」でした。著作は膨大な量におよびますけれど、ひょっとすると栗原家の様子や日蓮宗との関係も書かれているかもしれません。機会がありましたら、調べてみたいと思います。貴重な情報をありがとうございました。
    2009年02月26日 17:28
  • sig

    実は稲城市の日本山妙法寺は写真的に興味を持って、境内の四季の移り変わりなどをビデオで撮らせてもらって、ご住職(と呼ぶかどうか)から聞いた話なのです。新人物往来社「語りつぐ昭和叢書/駒場の二・二六事件」(小池泰子著 H5)という本も頂きました。ご住職は事件の精神的な部分に日蓮宗の影響が大である。歴史はそれに触れようとしない」とのご感想で、事件についてはこの本が一番良く書けている、と評価されていました。私はこの寺をビデオにするには荷が重くなったので、1年間撮影を続けたのですが、休止しています。
    篠田正浩監督のゾルゲの映画で二二六のシーンがありますが、その頃の中国で日本山妙法寺の行脚僧が弾圧されるシーンがありますね。
    2009年02月27日 00:31
  • ChinchikoPapa

    ぜひ、ドキュメンタリービデオを制作してください。>sigさん^^
    二二六事件の思想的なバックポーンは、北一輝の「国家改造法案大綱」に負うところが大きいといわれていますけれど、実は二二六事件が起きたころの彼の思想には、すでに「天皇」の文字さえなく、ちょうど60年代におけるサルトルの「神」のように、もはや「天皇」はあってもなくてもいい存在で、日本型の「社会主義」を実現するにはどうするべきか?・・・という領域にまで踏み込んでいたことは、あまり知られていません。
    つまり、彼が「天皇」に名を借りた「原理主義」的な側面さえ、1936年の時点では思想から捨象され、いつの間にか左翼思想の社会主義革命とみまがうばかりに変質していたわけですけれど、そのあたりと日蓮の思想とがどのように重なるのか興味深いです。
    『スパイ・ゾルゲ』に描かれた、中国の日蓮宗門徒が路上で中国人たちに暴行を受けるシーンですが、今日では陸軍の特務が上海での日本軍の跳梁を支援するための謀略だったというのが大方の見方になっていますね。
    2009年02月27日 00:52
  • ChinchikoPapa

    もうひとつ、「落合の二二六事件」というくくりも、また異なった歴史を垣間見せてくれそうです。命からがら、下落合まで逃げ延びた岡田首相の物語もそうですが、二二六事件で決起した青年将校のひとりが、上落合に住んでいました。つまり、岡田首相が隠れた佐々木久二邸のすぐ近くに、襲撃した側の青年将校の自宅があったわけです。
    これまで、それがどの将校の自宅なのかエンエンと調べているのですが、いまだに特定できないでいます。もし判明しましたら、またこちらでご報告したいと考えています。殺害したと思った首相が、実は自宅の目の前に隠れていた・・・ということになり、とても皮肉な歴史物語になりそうですね。
    2009年02月27日 01:02
  • ももなーお

    初歩的な質問で恐縮ですが、相馬坂ってどの辺にありましたっけ? なんか通ったことのあるような無いような微妙な感じですけど。

    それにあの雪の写真、とても素敵ですね、いつ頃撮ったものなのでしょうか?
    2009年02月27日 11:55
  • ChinchikoPapa

    ももなーおさん、コメントをありがとうございます。
    相馬坂は、落合小学校とおとめ山公園との間にある坂道です。このところコメントが絶えない、下落合ドラマの舞台になったところでもありますね。^^ 写真は、雪が積もった一昨年に撮影しておいたものです。
    偶然ですが、きょうも雪になりましたので、先ほど仕事のついでに二二六事件の現場のひとつを撮影してきました。あとで、記事末に掲載します。
    2009年02月27日 13:18
  • ChinchikoPapa

    訂正と補足です、ももなーおさん。
    「落合小学校」と書いてしまいましたが、落合第四小学校です。
    ちょうど、相馬篤胤邸の西側に接した坂道になります。
    2009年02月27日 13:27
  • ChinchikoPapa

    本日(2/27)、仕事の打ち合わせで霞ヶ関に出かけたので、ついでに二二六事件の襲撃現場となった桜田門外を撮影してきました。きょうは朝から雪が降りつづいており、73年前の出来事をなんとなく彷彿とさせてくれる空模様です。記事末の写真、左が野中四郎大尉の部隊が襲撃した警視庁、右が法務省です。
    ボタン雪が降りしきっているのですが、写真を縮小するとよく見えませんね。午後1時半現在、「雪降リ止マズ」・・・の東京です。
    2009年02月27日 13:43
  • NO NAME

    >相馬坂は、落合小学校とおとめ山公園との間にある坂道です

    そうでしたそうでした、通ったことあるなんてものじゃないです、ハイ(笑)
    雪だと、感じが変わるんですね。写真、期待しております。
    2009年02月27日 16:42
  • ももなーお

    ↑↑ 名前書き忘れました。
    2009年02月27日 16:43
  • ChinchikoPapa

    そうなんです。雪が降ると、まったく感じが変わって風景が見えてしまうから不思議ですね。わたしも、雪の下落合を歩くのは好きです。なぜかといいますと、景観に合いそうもないカラーリングの建物やマンション、アスファルトの道路などが風景の中に溶け込んでしまい、まるで昔の下落合を歩いているような気分を味わえるからなんです。「抜け道」として、住宅街の道路を利用するクルマもなくなりますので、道のまん中をゆっくり歩けるのもいいんですよね。^^
    2009年02月27日 19:11
  • ChinchikoPapa

    名古屋の事例と下落合のケースとでは、現象化しているテーマは微妙に違いますけれど、本質的にはまったく同根の課題ですね。そこに、公務員の腐敗が絡んでいそうなのも同様です。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2009年02月28日 11:23
  • ChinchikoPapa

    こちらも、街でさまざまな匂いを感じるようになりました。春がすぐそこまで・・・という感じがします。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2009年02月28日 19:06
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>くらいふさん
    2009年03月01日 23:42
  • ChinchikoPapa

    トラックバックをありがとうございます。素敵なサイトですね、たいへん面白く拝読しました。nice!をありがとうございました。>深野一朗さん
    2011年10月26日 14:37
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2011年11月22日 10:47
  • YOKO

    山王ホテルの画像をサーチしていたら、またまたここにたどりつきました。こんにちは。画家の視点とか、アメリカ帰りとか興味深い話ばかりです。埼玉県出身だったのは、麻布歩兵3は東京の下町出身と埼玉や八王子出身が多く徴兵され、元気な下町っ子ふうの舞台だったそうです。教官の秩父宮はもう転属されていましたが、誉れとされていたし、安藤中尉も部下から尊敬されてて、他の部隊にはない結束力があり、山王ホテルで最後は涙涙涙だったとか。スパイゾルゲの映画も見ました。日蓮宗の方を襲ったのは田中隆吉の本によると、彼が川島芳子に命じ、彼女が中国人を買収してやらせたとのことですが、田中は東京裁判でもウソばかりついているので、真相の藪の中です。先日は母と久しぶりに東京めぐりをして、このあたりを散策させていただきました。幼稚園のときの同窓のママさんが住んでいらして、おじいさんが実はA級戦犯で、父も元総理大臣だったから危なかった、なんて話になりましたよ。
    2014年12月08日 09:17
  • ChinchikoPapa

    YOKOさん、コメントをありがとうございます。
    「埼玉」のワードは、ちょっと微妙ですね。事件発生後、関東各地の連隊に「首都警備」の指令がいっていたはずで、小日向の六天町にあった徳川邸には、宇都宮の李王が指揮する歩兵第59連隊がいち早く到着して、市内に展開しています。地元の麻布三連隊の兵士が、わざわざ自身の出身地である「埼玉(からきている)」などとは答えるとは思えません。
    日蓮門徒が襲われたのは、謀略だといわれて久しいですが、その可能性は高いと思います。ただし、団扇太鼓の音は非常にやかましく、下落合にありました学習院昭和寮の高等科学生たちが、万灯会で東京じゅうから太鼓を叩きながら雑司ヶ谷(鬼子母神境内)へ集まってくる膨大な数の信徒行列に、学習をさまたげられて相当な反感をもっていたことを考えますと、あまりに「うるさい」のでついに堪忍袋が切れた人たちが太鼓の行列を黙らせた……という可能性も、0.1%ぐらいはあるでしょうか。w
    2014年12月08日 11:13
  • YOKO

    たしかに埼玉は微妙なところですね。
     歩三といえば、いきのいい江戸っ子部隊、それと営庭の桜が美しいことで、知られていたようです。
     柳家小さんも浅草から1月10日に入隊していたそうですし。
     生き残った池田俊彦さんの本には、八王子が当時はものすごく田舎で、(私も大学はそちらだったので、わかるような気がします)農家が冷害で東北と似た状態になっていて、安藤中尉は自分の給料の半分を部下や元部下にあげていたそうです。八王子と埼玉はかなり近いので、ほんとに微妙ですね。
    2014年12月08日 18:07
  • YOKO

    ディズニーが見れなくなる!・・・は笑ってはいけないのでしょうが、めちゃくちゃ笑ってしまいました。
    2014年12月08日 18:08
  • ChinchikoPapa

    YOKOさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
    「ディズニーアニメが見られなくなる」レベルの問題じゃないだろ!……と突っこみを入れる前に、親父は笑っていましたので半分は本気で半分は冗談だったと思いますが。w
    こちらでは、二二六事件についてはけっこう記事にしてまして、目白駅の近くに住んだ柳家小さん師匠や、上落合に実家があった蹶起将校のひとり竹嶌継夫中尉、岡田首相が隠れた下落合の佐々木久二邸など、関係者が近くに多いせいか事件がらみの文章が、結果的に増えてしまいました。
    いまの麻布三連隊の敷地跡は、美術館や大学もありますが、星条旗新聞社を中心に米国文化の臭いがプンプンしますね。
    2014年12月08日 18:40

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