わたしは下落合界隈はもちろんのことだが、ことに東京の下町Click!には恋しているので、昔からの♪広い東京恋すりゃせまい~・・・のたとえ通り、不精なわたしでも休日になるとあちこちに出かけて行っては、好きな街並みを歩いたり地元の人と話しこんだりしている。ことに、ふるさとである旧・日本橋区や、先祖代々の墓がある旧・深川区あるいは小日向・小石川あたりを散策する機会が多いけれど、ほかの街並みも大好きなので頻繁に歩くことになる。
先日、京橋をはさんで日本橋の隣り街・銀座を歩いていたら、懐かしい校舎に行き当たって足をとめた。関東大震災Click!の教訓から耐火復興建築となった、数寄屋橋のすぐ近くにある泰明小学校だ。思わず見とれてしまったのは、親父がさんざん連れ歩いてくれた、東日本橋の千代田小学校Click!の校舎を髣髴とさせてくれたからだ。耐火復興建築については、このサイトでも早稲田大学の市民向け大学校舎として使われている八丁堀の旧・京華小学校Click!、また十思スクェアとして保存されている日本橋小伝馬町の旧・十思小学校Click!などの建物をご紹介してきた。千代田小学校は、わたしが子供のころまではそのままの姿をしていたのだが、1974年(昭和49)に日本橋中学校Click!となって、耐火復興建築の校舎は解体され新校舎となってしまった。
下町の思い出として、親父からいちばん多く聞かされた話は、やはり小学校時代のエピソードだ。中でもきわめつけは、千代田小学校で学年が1年上の「田沼くん」(のちの俳優・三木のり平Click!)とつるんで、薬研堀界隈や浜町を歩きながら女の子を物色することだった。別に、ナンパをしようというのではない。当時、山手とは異なり下町の女の子は、洋装よりも和装のほうがまだ多かった。そこで、着物を着た女の子を物色して、ツンとすましたキレイな子が通りかかると、あらかじめ見つけてポケットに入れておいたガマガエルを取り出し、やにわすれ違いざま駆け寄って振袖の中にそれを放りこむのだ。彼女が、死にそうな声をあげるのはいうまでもない。
重たくなってしまった振袖の中から、ガマガエルを取り出すには、ソレを手でつかまなければならない。そんな悲鳴を背後に聞いて、「田沼くん」と親父たちは大笑いしながら逃げていくのだ。女の子から予想どおりの反応が得られれば楽しいけれど、中には平然と袂からそれを取り出して、「こら~っ、このバカ!」と追いかけられたこともあったようだ。山手の女性なら、そんなことをされたら泣き崩れてしまうかもしれないが、そこは長谷川時雨Click!のような女性も多かった下町のこと、たまにしくじると家まで怒鳴りこまれたこともあったらしい。余談だけれど、ヘビが平気という女性が、実際にヘビがたくさん棲息して身近にいる山手よりも、下町のほうが多そうだというのも意外な現象だ。
さて、つい千代田小学校に眠るエピソードを思い出してしまった、銀座に残る泰明小学校の懐かしい校舎の意匠。先日、銀座通(つう)の方から銀座の柳の枝葉で染めた、「銀座染め」のハンカチをプレゼントにいただいた。とてもしぶい染めで、わたし好みClick!の色合いだ。柳の枝葉で布地が染められるとは、また銀座にそんな草木染めがあるとはまったく知らなかった。銀座は日本橋に近接しているにもかかわらず、その動向や情報には昔から疎い。これは親父も同様で、どうやら京橋を境界に同じ下町といっても、銀座は日枝権現の圏内の氏子町、日本橋は神田明神の氏子町であることに、歴史的な経緯も含めた深い関わりがあるように思う。旧・江戸市街を大きく東西に分けて、「天下祭り」を催した氏子町の境界線が、ちょうど京橋あたりにあったのだ。
毎年、銀座の柳は伸びると手入れをされるのだが、そこで刈り取られた枝葉を区役所からゆずってもらい、着物などの染めに利用する「銀座染め」は、つい最近スタートした地元の草木染めらしい。泰明小学校には、♪昔恋しい銀座の柳~・・・と唄われた銀座の柳(1世)が、いまでもそのまま残っている。そして、「銀座染め」の講習会も泰明小学校で開かれているようだ。
最近、銀座に並ぶビルの屋上でミツバチを飼って、「銀座ハチミツ」を売り出したニュースを聞いた。ミツバチの数はなんと10万匹にもおよぶそうで、千代田城や浜御殿へ飛んでいっては膨大なハチミツを集めてくるらしい。このハチミツが、地元商店街の多彩な商品に応用され、街の話題性を高めているようだ。地元にあるものを改めて見直し、新しい切り口や従来とは異なった視座からなにかを育み産み出していく・・・、いまの東京でいちばん必要なのは、やたらカンフル剤的にゼネコンによる再開発や高層ビルを建てることでも、一発花火的に大型イベントを招致することでもなく、各地域に根ざした創造や生産の発想を試み、それを持続していくことではないか。
よく「街おこし」という言葉がつかわれるけれど、わたしはこの言葉があまり好きではない。街は何百年も前からとっくの昔に「おこ」っているのであり、多種多様なヒントはすでにその地域に存在し、気づかれずにただ眠っているだけかもしれない。それを改めて「発見」し、もう一度地域や街を新鮮な角度から見つめなおすことこそが、多彩な「街おこし」の第一歩だと考えるのだ。それには、街自体をより広く、より深く知らなければならない。
■写真上:愛用している、銀座の柳で染められた「銀座染めハンカチ」。
■写真中上:思わず目を惹く、数寄屋橋近くに残る耐火復興建築の泰明小学校。
■写真中下:左は、大きくなった銀座の柳で背後はマリオン(旧・南町奉行所跡)。右は、1935年(昭和10)ごろの柳並木と4丁目の服部時計店。
■写真下:左は、銀座ハチミツを使って作られた銀座文明堂の「銀座はちみつカステラ」。右は、銀座染めで作られたしぶい紬の反物。
この記事へのコメント
sig
まちおこし、ひいては国興しにも通じるお話、その通りだと思います。
それから、前半の文章を呼んで気づかされたのですが、田舎出の私にはChinchikoPapaさんのように、現在の住処からちょっと出掛けて昔の記憶のあとを辿る、ということはできないのです。今の場所に40年以上も住んでいるということは、もうここで生まれてそのまま動かないことと同じなんですね。いなかも現在の場所も大きな変化はないのですが、これはちょっとしたショックでした。でも、今居るところもこれから大きく変わろうとしていますから、あと何十年かしたらChinchikoPapaさんのような楽しみが生まれるかもしれません。生きていればの話ですけれど。(爆)
かもめ
校舎の雰囲気、旧:東華小学校にも似てます。人形町の町並みは変わってしまったようですが、裏通りにはまだ昔の民家もあるんでしょうか。枝垂れ柳は浜町公園近くにあったような気がしますけど。
アヨアン・イゴカー
全面的に同感であります。
銀座、日本橋、深川など、仕事の途中「市場調査を兼ねて」歩きますが、
たまに古い家屋や雰囲気が残っていると、足を止めて眺めて、生き延びるように念じています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしも、東京という大きなくくりではなく、下落合という地域に住みはじめてから、せいぜい30年ほどしかたっていません。親父や義父の記憶は別にして、わたしは18歳まではまったく馴染みのなかった街なのですね。でも、そこで暮らしているうちに、なんとなく街の空気に染まるというか、街の姿やかたちが薄っすらとながら見えてきている気がします。それは、町史の蓄積などという大げさなものではなく、“場”が備えている風情や雰囲気といったものなのかもしれません。現在起きている街のいろいろな出来事が、そのまま積み重ねられて街の「基盤」や「地層」になっていくのだな・・・というような、漠然とした感覚です。
おそらく、これは日本のどの街にもある感覚じゃないかと想像しているのですが、けっこうていねいにその「地層」を観察していきますと、多かれ少なかれ人が住んでいる(住んできた)場所には、魅力のある面白い物語が眠っているものだ・・・と感じます。それが、たとえばわたしにとっては故郷ではない、子ども時代をすごしただけの鎌倉や湘南地方などへ、ことさら惹かれる要因なのかもしれませんね。
ChinchikoPapa
はい、白い部分はおっしゃるとおり絞りで、絞り染めのハンカチです。ほんとうに品がよくてしぶい、わたし好みの色合いです。^^ オリーブに近いカラーですので、媒染材は銅かもしれません。昔から、日本橋界隈では「スズメ色」が美しいといわれますが、黒・白・濃茶・薄茶・鼠の各色、または他色と掛け合わせた近似色の着物を女性が「いき」に着こなしますと、ホレボレするほど美しく感じます。きっと、女性そのものの美しさを殺さず、ひときわ際立たせて見せる色合いなのでしょうね。
浜町公園から大川端、そして東日本橋界隈にも柳がたくさんあり、どうやらあのあたりの街路樹は、中央区が柳と決めているらしいのです。幼いころ、両国橋の東詰め、本所側にある「ももんじ屋」の2階から、柳の揺れる隅田川を見ながらイノシシのすき焼きを食べた記憶が、うっすらと残っています。そのとき、タヌキ汁もいっしょに食べたのですが、下落合ではあまり大きな声では言えません。^^;
ChinchikoPapa
エネルギーをたくさん消費して、NOxやCOxをごまんと吐き出しそうな前世紀型の「街おこし」は、いまの時代にまったく不釣合いで似合いませんね。無理を重ねたあとのリバウンドこそ、怖れなければならない時代にもはや突入していると思います。現在、手元(地元)にあるものを、どう活かして生産的な事業や地域の活性化に結びつけるのか?・・・という課題が浮上していると思うのですが、なかなか箱物(ハードウェア)の発想から抜けられないでいる現状が残念です。
「これからはハードウェアの時代ではなくソフトウェアの時代だ」・・・と言われたのは、もう20年以上も前のことですね。
ももなーお
>一発花火的に大型イベントを招致することでもなく、各地域に根ざした創造や生産の発想を試み、それを持続していくことではないか
僕も同感ですね。つい何日か前、NHKで芝田山親方(元横綱大乃国)が、銀座のスイーツを紹介する番組をやっていて、自家製造の大福のお店があったのですが、結局3代目の自分の代で店じまいするのだとかで、見ていてとても残念に思いました。
やっぱり、良い物は何世代にもわたって続けていかなければなりません。そのためには地域ぐるみで色々な創意工夫を考えていかなければなりませんね。
ChinchikoPapa
「地域ぐるみ」という言葉が、下町でも難しくなってきた昨今です。同じ地域の人たちでも、自分の足元にある地域に帰属している・・・という意識が希薄で、「観客」化あるいは「他所事」のようにとらえている方が大勢いますね。
別に、価値観やイデオロギーを統一しようとしているわけでも、あるいは戦前からつづく「町会」的なヒエラルキーに参加するよう呼びかけてるわけでもないのに、妙に冷めた眼差しをされてる方たちです。それでも、街でなにかが産み出されたり催されたりすると、デジカメ片手にうれしそうにやってくるから困っちゃう・・・という話をあちこちで聞くんですよね。^^; きっと、人間関係や近所付き合いをわずらわしいと感じている方々なのかもしれません。
誰かの言葉ではありませんけれど、街が自分になにをしてくれるかじゃなく、自分の街なんだから基本的に、自分が街になにをすることができるか・・・だと思うんですけどね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa