落合ゆかりの人たちアルバム。(上)

川島芳子.jpg
 下落合に関連した昔の資料を集めていると、かつてこの地に住んでいた、あるいは落合界隈にゆかりのある人々の写真がたくさん見つかる。きょうから2回に分けて、あまり書籍や図録などでも紹介されることのない、そんなめずらしい写真の一部をご紹介したいと思う。
 まず、上掲のイガグリ頭で犬と遊ぶ田舎少年の写真から・・・ではない。これ、少年ではなく頭を丸坊主にした少女の姿なのだ。中国名を愛新覚羅顕紓といい、旧・下落合538番地(目白通り北側の現・下落合3丁目)に住んでいた川島浪速の養女となり、近くの池袋にあった豊島師範付属豊島小学校へ男子然として通っていた、もちろん少女時代の川島芳子Click!だ。1926年(大正15)に発行された『臨時増刊・アサヒグラフ』の、1月15日号に掲載されたもので当時はまだ18歳だった。キャプションには、「あらぬ噂に憤慨して断髪した粛親王の遺児川島芳子さん」とあるので、きっとまた頭にくることがあってキレたのだろう。撮影場所は、もちろん下落合ではなく、遠景に田畑や農村風景が拡がっていることから、転居した先の信州松本の情景だと思われる。
 次は、その川島邸から40~50mしか離れていないところに住んでいた、洋画家・大久保作次郎Click!の家族写真だ。1927年(昭和2)に発行された『主婦之友』11月号に掲載された写真で、このころの大久保はすでに帝展の審査員となっていた。キャプションから引用してみよう。
大久保作次郎.jpg
  
 現代的な美人画を描いて、最近めきめきと名声を揚げられた帝展審査員大久保作次郎氏は、今日では押しも押されもせぬ帝展の中堅作家として、その将来を嘱望されてをります。最近フランスから帰朝せられたばかりの氏は毎日アトリエに籠つて、製作に精進してゐられます。今年の帝展には、定めし大力作を寄せらるゝことでありませう。写真は右より満喜子夫人、令嬢曙美さん、大久保氏であります。東京郊外下落合の氏のお宅にて。 (同誌「画家の家庭めぐり」より)
  
 次は、1930年協会の理論的な支柱として活躍した、美学者で詩人で哲学者の外山卯三郎Click!夫妻だ。1930年(昭和5)の『婦人画報』1月号に掲載された新婚写真。佐伯祐三Click!が死んだ直後、1929年(昭和4)の暮れあたりに撮影された写真とみられ、建築家F.L.ライトの弟子だったという友人の建築家が建てた、真っ白い西洋館の「スヰトハウス」に住みはじめたころだ。家具やカーテンなどの調度も、すべて注文でこしらえたオリジナルデザインの凝ったものだったらしい。この時期、外山は実家である旧・下落合1146番地の外山秋作邸からはとうに転居し、新婚の「スヰトハウス」は井荻にあった。一時期、落合尋常小学校(現・落合第一小学校)もほど近い、目白文化村の第四文化村Click!あたりにも住んでいたようだが、詳細はわからない。
  
 恋愛は天上のもの、結婚は地上のもの、今はこの二つが融合してゐるところでせうか。ハーモニーのあるところ落ちつけますよ、・・・・・・ですがこの二つがお互ひに極地に向つて進む時危険期が来るんですね」外山さんは帝大の哲学科御出身丈に述べられる恋愛観は哲学的なものです。
  
 ・・・と、またしても小むずかしいことを言っているのだけれど、この時期の外山の文章をいくつか読んできたわたしが翻訳すると、「結婚できて、いまマジに幸せっす」と言っているようだ。
外山卯三郎.jpg 山口淑子.JPG
 つづいて、目白文化村Click!は第二文化村の南に家を持っていたと思われる、李香蘭こと山口淑子Click!のカラー写真だ。もちろん戦後もかなりたってから撮られたもので、1973年(昭和48)のテレビ司会者をしていた53歳のときの姿。隣りに座ってニッコリしている髪の長い女性は、日本赤軍の重信房子だ。このとき、山口は日本で初めて彼女への単独インタビューに成功している。
 次は、1931年(昭和6)の『主婦之友』4月号に掲載された、杉並の和田堀にある九条武子Click!の墓だ。この写真が撮影された年は、ちょうど彼女の3回忌にあたる。築地本願寺の別院として和田堀廟所が造成されたのは3年後の1934年(昭和9)なので、それ以前から九条武子の墓はこの地にあったことになる。同誌のキャプションから引用してみよう。
  
 大いなるものゝ力にひかれゆく 我あしあとのおぼつかなしや
 詩操豊かな歌人として仰がれた、九條武子夫人が逝かれてから早や三年―――このほど婦人の墓所が武蔵野の一隅に奠められました。そして二月七日の御命日には、近親者がお集りになつて、碑の建立式を行はれました。/正面に見える自然石は、京都百花園の庭石を取り寄せたもの、その下に、花崗石の石櫃にお骨を納めて安置してあります。左手の柳は、葬儀の当日、畏きあたりから御下賜のもの、右手には遺愛の紅梅が、早春に蕾もかたく、夫人の端麗な御容姿を見るやうに、真に簡素な墓域です。/写真は、生前夫人から尊い御教を受けられた尾上菊枝さんが、雪をわけてお詣りしてをられるところ。
  
九条武子墓.jpg 九条武子.jpg
 つまり、1934年(昭和9)に和田堀廟所が完成するとともに、築地本願寺にあった彼女の墓を同地へ改葬した・・・とする証言や記述は、なにかの勘違いか明らかな誤りだ。築地に仮墓があったのは、わずか2年ほどの期間ということになる。1931年(昭和6)の早春に、彼女の墓は早くも築地から杉並へと移され、改葬後に改めて多くの参詣者を集めていた。築地本願寺の和田堀廟所が開廟するのは、それから3年のちのことだ。                               <つづく>

■写真上:なにか頭にくることがあって髪を剃ってしまったらしい、18歳の川島芳子。
■写真中上:洋画家なのに、床の軸画を前にした大久保作次郎の写真はめずらしい。
■写真中下は、新婚早々の外山卯三郎(左)と外山ひふみ夫妻。は、李香蘭こと山口淑子(右)と重信房子(左)で、ヨーロッパでのTVインタビュー直後の写真らしい。
■写真下は、杉並の和田堀にある九条武子の墓所。は、晩年と思われるポートレート。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    『Destination Out!』のころのマクリーンは、いかにもヌーベルバーグの影響を受けた映画のBGMにでも流れそうな演奏として印象に残っています。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年11月24日 13:03
  • ChinchikoPapa

    後楽園の茅葺茶屋で、園内で弁当を売り歩いている和装のお姐さんから、手作り弁当を買って食べるのが好きです。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年11月24日 13:07
  • ChinchikoPapa

    きのうは海岸を歩いて汗ばみそうだったのですが、きょうは一転して底冷えのする曇り空です。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2008年11月24日 13:11
  • mwainfo

    精力的に歴史を発掘するブログに感心します。
    最近の産経新聞に、「東洋のマタ・ハリ」生きていた?と題する、川島芳子
    の小さな記事(北京 野口東秀のサイン入り) が載りました。Chinchiko Papalogさんなら、この記事の真偽が調べられるのではないかと思います。
    2008年11月24日 17:42
  • ChinchikoPapa

    mwainfoさん、コメントとnice!をありがとうございました。
    同じ日に、他の新聞でも報道されていましたね。朝日新聞では、ほぼ一面を使って報道していました。中国の長春市や瀋陽市で、次々と証言者が出てきてるようですね。晩年に描かれた肖像画も記者たちへ公開されたと聞きます。藤山愛一郎が中国入りしたとき、周恩来が日本語で「○(マル)です(生きています)」と答えた吉薗資料も、妙にリアリティを感じてしまいます。
    わたしも以前から興味津々なのですが、仕事をやめない限り休日しか動けませんので(汗)、中国へ取材に出かけるわけにもいかず、下落合界隈とその周辺の東京地方をカバーするだけで限界・・・という感じです。^^;
    2008年11月24日 22:33
  • ChinchikoPapa

    なんとなく乗りなれた鉄道沿いに引っ越してしまう・・・という感覚は、わたしもよくわかります。nice!をありがとうございました。>sigさん
    2008年11月24日 22:36
  • まるまる

    約3か月ぶりにブログ再開しました。ゆっくり拝見させて戴きたいと思っております。よろしくお願いします。
    2008年11月25日 19:31
  • ChinchikoPapa

    まるまるさん、コメントとnice!をありがとうございました。
    はい、またぜひ面白いお話を聞かせてください。^^ わたしも、一度ゆっくりと秩父の山々を歩いてみたいと思っているのですが、いまだ果たせないでいます。特に、大神神社と大神(ニホンオオカミ)の伝承を取材したく、いろいろな資料は集めているのですが、まとまった時間が取れずにそのままになってしまっています。
    2008年11月25日 19:56
  • 髙橋

    こんにちは、こちらに載っている山口さんと重信さんの写真は、だれが所有している物でしょうか。
    出所が分かればと思いご連絡致しました。
    2014年10月19日 15:01
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2014年10月19日 17:24
  • ChinchikoPapa

    高橋さん、コメントをありがとうございます。
    この画像は、2008年当時にYouTubeに登録されていた、昭和史のTVドキュメンタリー動画からキャプチャーした画像だったと思います。TV番組でも静止画でしたので、キャプチャーが容易だったわけですが、その番組名は残念ながら放送局とともに失念してしまいました。おそらく、山口淑子が司会をつとめていた局の、後年につくられた昭和史番組で紹介された、パレスチナ訪問時の記念写真だと思うのですが……。
    2014年10月19日 17:32

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