安打で大量得点の佐伯祐三1916年。

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 1916年(大正5)8月4日から、大阪朝日新聞社主催による第2回全国中等学校野球大会(現・全国高等学校野球大会)の大阪大会(地区予選)が、大阪高等商業学校の主催により豊中運動場で開催された。この年から、大阪地区は前年の和歌山・奈良・大阪の連合地区予選から独立し、大阪独自のチーム選抜戦を行なっている。でも、北野中学校Click!が全国中学野球大会の予選に参加するのは、佐伯祐三Click!が主将をつとめたと思われるこの年が初めてだった。
 前年の北野中学野球部は、京都三高が主催したトーナメント戦ではない「御大礼奉祝記念中等学校連合野球大会」へ参加Click!しており、第1回全国中等学校(連合)野球大会のチーム選抜戦には参加していない。1916年(大正5)の大阪大会(地区予選)が大阪高等商業学校が主催したのに対し、前年1915年(大正4)の1回目の和歌山・奈良・大阪連合地区予選が民間企業のスポーツ用品メーカー「美津濃」が主催したことが、公立である北野中学の参加をためらわせた要因だろうか? のちに、佐伯が死去したあと大阪で「佐伯祐三・追悼展」Click!が開かれるのだが、そのスポンサーが「美津濃」だったのも面白い。北野中学を卒業したあと、同校野球部と「美津濃」あるいは野球好きだった佐伯と「美津濃」とで、なんらかの関係がつづいていたものだろうか?
 さて、1916年(大正5)8月4日に行なわれた大阪大会(地区予選)の初日、午後4時35分からスタートする第3試合に出場した佐伯の北野中学は、大阪市立工業学校と対戦し22対5で圧勝している。9回まで試合をせず、7回で終了の一方的なコールドゲームだった。中でも佐伯の活躍が目立ったものか、試合の様子を伝える同年発行の『野球界』9月号にも、タイムリーヒットを打った佐伯の名前が紹介されている。1回表に工業学校が5個の四球を出したあと、佐伯の安打が記録されて6得点もしているので、打者が一巡しトップの佐伯にもどったところでタイムリーを打っているのだろう。ヒット数は、佐伯の安打を含め北野中4に対して工業学校3と少ないにもかかわらず、北野中学が大量得点できたのは、工業学校のエラーが17と守備が非常にまずかったせいだ。試合の様子を、『野球界』9月号から引用してみよう。
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 北野中学対大阪市立工業の試合は午後四時三十五分より球審戸田、塁審松野両氏審判の下に開始、北野中学先攻して第一回に五個の四球と佐伯の安打により一挙六点を入れ、第三回に一点を加へしが、市工亦第一回に下津の四球と井内、榎本の安打に二点を入れ、第三回に四球と敵失の連発に依り三点を加へしより北中投手梁を富田に代へて守りを固くすると共に、毎回好打と敵失に得点を加へて七回迄に計二十二点を得、市工は第四回以降悉く無為に終り、七回ゲーム二十二対五にて北野中学の大勝に帰したり、時に午後六時四十五分。 (同誌「大阪大会」より)
  
 8月5日の大阪大会2日目、午後4時20分スタートの同じく第三試合に出場した北野中学は、大阪地区の強豪であり宿命のライバルだった市岡中学と対戦し、1対6で敗れた。この年の大阪地区予選に優勝したのも市岡中学なら、同年の第2回全国中等学校野球大会で決勝戦に進出したのもこの市岡中学なので、2日目に最大の強敵と対戦したことになる。でも、両校の試合は好ゲームだったらしく、各イニングごとに緊迫した場面がつづいていたようだ。ヒットは北野中2に対して市岡中6、盗塁が北野中5に対し市岡中2と、点差はついたものの引きしまったいい試合だったことがうかがえる。再び、同誌から引用してみよう。
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 市岡中学対北野中学の一勝者試合は午後四時二十分より渡部(球)山出(塁)両氏の審判にて市岡の先攻に依りて開始、北野の投手富田のスローボール効を奏して第一ニ回共市岡凡打に終り、第三回に富永初めて遊撃越の三塁打に出で島道亦四球を利し田中の左翼飛球を野手失して二点を入れ、第四回北野の澤四球出で中村の三振後盗塁と尾形のバントにて三塁に進みし時、梁右翼にタイムリーヒツトして堂々たる一点を恢復し、其後も層次好機を作りて肉迫せしも不幸にして点を成すに至らず、市岡は更に第五回に二点と第八九の両回に各一点とを加へ、六対一にて市岡中学の勝に帰したるが、得点の差に似ず毎回緊張せる好ゲームなりき。 (同上)
  
 北野中学と市岡中学の対戦歴は古く、市岡中学に野球部が創設された1906年(明治39)、北野中学の野球部が対戦を申し入れたときから始まっている。いわば、因縁の宿敵同士なのだけれど、初対戦は勇んで試合を申し込んだ北野中が、4対6で逆に敗れている。翌1907年(明治40)の試合では、北野中が7対2で勝って雪辱をはたし、その翌年は北野中が4対6で負け、さらに次の年は北野中が3対2で勝ち・・・と、この両校は野球を通じて長年のライバル同士だった。『大阪府立北野高等学校・野球部年史』(2003年)によれば、両校の試合は当時の大阪では早慶戦と、一高・三高戦に次いで人気が高かったようだ。
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 佐伯は確かに、全国中等学校野球大会・大阪大会へ「二度」(正確には2試合だけれど)出場しているが、この年から北野中学は地区予選に毎年参加しつづけ、1927年(昭和2)8月3日、ついに優勝して全国大会へ出場することになる。同年の夏、大磯Click!から下落合、そして大阪へとめまぐるしい動きをしている佐伯だが、8月2日つまり大阪大会決勝戦の前日に、大阪からフランスに向けて旅立っていった。おそらく、北野中学の決勝戦を見たかったに違いない佐伯だが、三越で買ったシベリア鉄道経由のチケットの都合から、どうしても出発せざるをえなかったのだろう。
 でも、北野中学が大阪大会で優勝したこと、そして全国中学野球大会の2回戦まで進出したニュースは、きっとどこかで聞いて知っていたに違いない。

■写真上:1916年(大正5)8月の第2回全国中学野球大会決勝戦で、声援を送る大阪代表・市岡中学の応援団。蓄音器のラッパをもぎ取り、メガホンにしている大阪のオッチャンが見える。
■写真中上は、大阪大会の初日に行なわれた北野中vs大阪市立工業の試合の様子を伝える同年の『野球界』9月号。は、同じく2日目に行なわれた市岡中vs北野中の試合記事。
■写真中下:1916年(大正5)に開催された、第2回全国中学野球大会全国大会の様子。
■写真下:同決勝戦・慶應普通(東京)vs市岡中(大阪)の試合と、優勝旗を受け取る慶普チーム。

この記事へのコメント

  • sig

    こんにちは。
    佐伯祐三の活躍を伺っていると、「天は二物を与えず」ということわざがウソのように思えます。野球と絵画とは、まさに文武両道ではありませんか
    「三越で買ったシベリア鉄道経由のチケット」・・・いいですねえ。少年、青年が大志を抱ける時代だったのですね。
    2008年11月14日 11:25
  • ChinchikoPapa

    パリで行なわれた最初で最後のマイルス同窓会コンサートで、ジャッキー・マクリーンのみがイディオムの異なるJAZZを吹きつづけていたのが印象に残っています。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年11月14日 11:39
  • ChinchikoPapa

    谷中の五重塔が炎上する傍らで、「父親から自立できた」と感じている駆けつけた浴衣姿の幸田文が、とても文学的かつ絵画的で印象深いです。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年11月14日 11:46
  • ChinchikoPapa

    遠くがスモッグで霞んでいるのは、モノクロ画面で見ると墨絵のようですね。わたしが、幼稚園のころの映像です。nice!をありがとうございました。>sigさん
    2008年11月14日 12:13
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントをありがとうございます。
    佐伯祐三は北野中学の31期生ですが、佐伯の野球と絵画表現とを結びつけて書いている、同期の友人のエッセイを見つけました。今度、機会があればご紹介したいのですが、佐伯の爆発的なエネルギーの発散は、野球も絵画も同じだ・・・というような論旨で興味深いです。^^
    2008年11月14日 12:18
  • ChinchikoPapa

    まあ、見事なお城の紅葉ですね。こちらは、いまだ緑の樹木が多いです。
    nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2008年11月14日 12:19
  • ChinchikoPapa

    古代エジプトの彫刻を見ていると、その膨大な人間のエネルギーにめまいがしそうです。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
    2008年11月14日 14:24
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2009年08月28日 13:14

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大正から昭和初期のスポーツ用品広告。
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Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2009-08-28 00:05

縮まらない佐伯像の齟齬やズレ。
Excerpt: 光徳寺とは家同士が親しく往来し、中津尋常小学校に入学したときから佐伯祐三Click!と親密にしていた、同窓生たちの貴重な証言が残されている。深谷三治という方は、中学校も佐伯と同じ北野中学校Click!..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2010-01-22 00:02

「佐伯」だらけ大正の関西野球界。
Excerpt: 佐伯祐三Click!が、大阪府立北野中学校Click!の在学中に主将をつとめた野球部について資料を見ていたら、頭がこんがらがりそうになった。明治の末から大正中期ぐらいにかけ、関西の中学野球界は「佐伯」..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2010-01-25 00:01

佐伯祐三をめぐる物語いろいろ。
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Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-09-20 00:00