佐伯祐三と大阪府立北野中学校。

北野中学1983.jpg 光徳寺.JPG
 佐伯祐三Click!が卒業した、大正当時の大阪府立北野中学校とは、どのような学校だったのだろうか? このブログをお読みの方から、北野中学校の創立記念に関する詳しい資料をお貸しいただけたので、改めてその一端をご紹介したい。1973年(昭和48)に創立100周年を迎えた同校は、2000ページにおよぶ『北野百年史』を編纂しているが、とてもその大著を参照している余裕はないので、式典で配布されたパンフレット『創立百周年記念式典』と、年譜およびアルバムを主体にした1983年(昭和58)の『創立百十周年』の冊子をベースに書いてみたい。
 まず、同校のめまぐるしい移転の歴史にも驚くが、校名の頻繁な変更にも戸惑いをおぼえる。中には、1年も持たずに変更された名称もあってややこしい。1873年(明治6)に欧学校としてスタートして以来、集成学校(進級学校)→大阪府第一番中学校→府立大阪中学校→私立中学校→大阪府師範学校別科大阪府中学校→大阪府立大阪中学校→大阪尋常中学校→大阪府立第一尋常中学校→大阪府第一中学校→大阪府堂島中学校→大阪府立北野中学校→大阪府立北野高等学校・・・と複雑だ。この中で、当時は5年制の中学校に佐伯が在学したのは、1912年(明治45)4月から1917年(大正6)3月までの、「大阪府立北野中学校」時代ということになる。
北野中学地図.jpg 大阪地区大会優勝.jpg
 同校は、野間宏、梶井基次郎、森繁久彌、手塚治虫などを輩出したことでも知られているが、佐伯がらみで気になるのは、同じ洋画家で二科の林重義がいたことだ。もっとも、佐伯が北野中学を卒業したのに対し、上級生だった林は同校を中退している。林重義は、佐伯が描いた『下落合風景』シリーズClick!中の1点、「上落合の橋の附近」Click!の1作に描かれた寺斉橋の南詰め近く、上落合にアトリエをかまえて住んでいた。佐伯が同作を描いていた、大正末から昭和初期と同時期のことだ。佐伯は、北野中の先輩である林アトリエを訪ねていやしないだろうか。
のちに上記「上落合の橋の附近」と思われた作品実物を日動画廊で間近に拝見し、「八島さんの前通り」(1927年6月ごろ)の1作であることが判明している。詳細はこちらの記事Click!で。
 北野中学校には、恩師だった中村尭興へ贈った1925年(大正14)制作の佐伯祐三『ノートルダム(マント・ラ・ジョリ)』とともに、林重義が1929年(昭和4)前後にフランスで描いた『老婆』も保存されている。ちなみに、『ノートルダム(マント・ラ・ジョリ)』は佐伯の死後、米子夫人が寄贈したという説も伝わっている。落合小学校(現・落合第一小学校)の『テニス』Click!と同様に、『ノートルダム(マント・ラ・ジョリ)』は北野中学の校長室の壁に架けられ、校長室へ呼び出された遅刻生徒がしばしば目にしていたのも、同校の記録にみえる。
佐伯祐三ノートルダム.jpg 林重義老婆.jpg
 さて、佐伯がキャプテンをつとめていたという、北野中の野球部Click!について触れてみたい。同校はスポーツも盛んだったらしく、いろいろな運動部が古くから存在していたようだ。野球部は、早くも明治期から創設されていた。そして、北野中学が全国中等学校野球大会(現・全国高等学校野球大会)の大阪大会=地区予選で初優勝し大阪代表となるのは、1927年(昭和2)の8月のことだ。つまり、佐伯が在学中に全国中学校野球大会へ二度出場したという証言は、同大会の地区予選(大阪大会)へ二度出場した・・・という記憶にもとづいているのだろう。1927年(昭和2)の夏に北野中学が大阪地区予選で優勝し、全国大会へ出場したというニュースは、おそらく2回目のフランスへと旅立った佐伯の耳にもとどいていただろう。
 また、佐伯が出場した試合で年譜資料にはっきり見えているのは、「三高」主催の野球大会で佐伯が「主将」をつとめていたころ、「平安中学校に勝利」した試合ということになっている。1998年に制作された『生誕100年記念・佐伯祐三展』図録の年譜の、「1916年(大正5)」の項目にその記述が見えているが、これにはなにか大きな錯誤がありそうだ。佐伯が参加した1915年(大正4)の「三高」主催による野球大会、および翌年にキャプテンとして参加した全国中学校野球大会の大阪大会については、追って詳しく記事にしてみたい。
北野中学正門.jpg 北野中学校舎.jpg
 佐伯が在学した当時の北野中学は、生徒数が急増しているまっ最中だったようだ。毎年50~100名の生徒が増加している。また、在学中に第一次世界大戦が勃発し、1917年(大正6)の卒業直前にはロシアで3月革命が起きていた。翌年には、北野中学の文芸部が主催した初めての絵画展が、2日間にわたり同校で開かれている。
 中学4年ごろから北梅田町(JR大阪駅北側)にあった赤松麟作の洋画塾に通っていた佐伯祐三は、もしいまだ在学していたとすれば、はたしてどのような作品を同展へ出品していたのだろうか。それとも、野球に夢中だった彼は、絵画展を“パス”してしまっただろうか?

■写真上は、1983年現在の北野中学の本館。は、佐伯の実家である光徳寺の現状。
■写真中上は、大阪市北区北野芝田町時代の北野中学校と光徳寺の位置関係で、佐伯の自宅からすぐのところに同校のあったことがわかる。は、1927年(昭和2)の8月に全国中学校野球大会の大阪地区予選で初優勝した、北野中学校野球部の記念写真。
■写真中下は1925年(大正14)にパリで制作された佐伯祐三『ノートルダム(マント・ラ・ジョリ)』、は渡仏中の昭和初期に描かれた林重義『老婆』で、ともに北野中学校蔵。
■写真下:佐伯が通学した大正時代に撮影された、北野中学校の正門()と校舎()。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    正月が近いせいか、白菊の花弁から百合根を想像してしまいました。
    nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
    2008年11月06日 12:51
  • ChinchikoPapa

    弁天の森には江戸期、きれいな清水が湧いていた泉でもあったんでしょうね。
    nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年11月06日 12:54
  • ChinchikoPapa

    UAの、なめした鹿革のような手ざわりのVoiceはいいですね。あの声で「またお逢いしましょ」を唄われると、JAZZ好きとしてはグッと来ざるをえません。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年11月06日 13:12
  • ChinchikoPapa

    菊には秋の澄み切ったソナタがよく似合いますね。動画と音楽を堪能させていただきました。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
    2008年11月06日 14:57
  • ChinchikoPapa

    繁茂したコケの豊かさが、水の清廉さを物語っていますね。
    nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2008年11月06日 19:40
  • ChinchikoPapa

    サンパウロ・モーターショーでも、クルマの傍ら立つお姉さんはいるのですね。^^
    nice!をありがとうございました。>Lobyさん
    2008年11月07日 11:40
  • ChinchikoPapa

    アート・プロダクションの記録映画「川崎」、すばらしいですね。次はどこの街が出てくるのか、とても楽しみです。nice!をありがとうございました。>sigさん
    2008年11月07日 17:52
  • ChinchikoPapa

    いつもリンク先まで、nice!をありがとうございます。>kurakichiさん
    2009年08月28日 13:17
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。>yutakamiさん
    2012年10月14日 22:29

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