うつろいゆく目白駅の記憶。

新宿駅模型.jpg
 30年ほど前に見た高田馬場駅の記憶はハッキリしているのに、目白駅Click!のほうは利用回数が少ないせいか、その姿の推移はもうろうとしている。目白橋の西詰めから駅構内へ入ると、すぐに改札があったように憶えている。また、ホームへの階段はふたつあったけれど、そのうちホーム南の階段は、学習院側の線路上に渡されていた橋梁通路を通って、ホームへ下りていた記憶がある。
 わたしは、学生時代から(現在もそうなのだけれど)、下落合から地下鉄のある高田馬場駅へと出ていたので、目白駅のうつろう姿はうろ憶えなのだ。そんな曖昧な記憶がハッキリしたのは、各時代の目白駅とその周辺の写真を目にしたからだ。先日うかがった学習院の「目白キャンパスの100年」展には、1970年代から80年代にかけての写真が多数展示されていた。ときに、幽霊坂や小布施坂を上り、目白駅の前を通って帰ることもあったので、その姿はなつかしかった。
 山手線の前身である品川赤羽鉄道線が敷かれたとき、停車場として建設されたそれぞれの駅舎は、いずれも同じようなかたちをしている。現在は、各駅ともまったく違うデザインになっているけれど、当時は規格化されていたように(実際に同じ図面を使いまわしたのだろう)、その姿はいずれの停車場もよく似ている。ホームから階段を上り、線路をまたぐ橋梁通路をわたって再び階段を下りて、改札のある瓦葺きの平屋駅へと抜ける配置だ。面白いことに、東京西部の山手線に造られた駅舎は、まるで“お約束”のように線路の西側、つまり山手線の内側ではなく外側に向けて建てられている。新宿駅も目白駅も、ややあとの池袋駅もほとんど同じようなデザインだ。新宿駅や目白駅よりもかなり遅れて設置された、高田馬場駅の姿はどのようなものだったのだろう?
目白駅大正初期.jpg 池袋駅.jpg
 建設当初の新宿駅の姿が、精巧なミニチュア模型として新宿歴史博物館に保存されている。ホームと駅舎だけ見れば、それが目白駅あるいは池袋駅だといわれても、とっさには判断がつかないだろう。線路の本数で、ようやくやや規模の大きな停車場かな?・・・と気づく。目白駅Click!が開業したのは1885年(明治18)だが、当初は新宿駅と同様の意匠で線路の西側、つまり下落合側の金久保沢Click!の谷間に駅舎はあった。この駅舎は、「公式」記録では1919年(大正8)に建て替えられ、目白橋上へと出られる橋上駅になったとされているけれど、1921年(大正10)前後の地元に近い記録では、金久保沢の改札と思われる位置へ俥(じんりき)を付けたり、改札を出て水没した駅前から下落合へと帰宅したり、あるいは改札から階段を上って目白通りへ出たりする表現が多々みられるので、1919年(大正8)の橋上駅化というのは、どこかでなにかがおかしいと感じている。
その後、目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)と判明Click!している。
 1994年(平成6)に出版された、交建設計・駅研グループによる『駅のはなし-明治から平成まで-』から、目白駅の箇所を引用してみよう。
目白駅橋上駅舎.jpg
目白駅大正期1.jpg 目白駅大正期2.jpg
  
 線路上空を利用して駅舎を設けた橋上駅は、一応、駅舎の戦災復興が終った昭和三〇年頃から急激に増えていった。/橋上駅という形態があらわれたのは、大正八年に建てられた山手線・目白駅舎がその第一号であった。これは掘り割りという地形的な理由から、線路上空に駅舎が建てられたものであった。昭和七年に建てられた御茶ノ水駅舎もこの掘り割り式であった。
  
 全国初の橋上駅として、目白駅舎は1919年(大正8)に建設されたことになっているけれど、地元の記憶や記録と照らし合わせてみると、どこかに齟齬があるようだ。それとも、目白橋上改札とともに金久保沢改札も、大正後半まで共存していた時期があったのだろうか?
目白駅1.jpg 目白駅2.jpg
目白駅3.jpg 目白駅4.jpg
目白駅5.jpg
 鈴木誠Click!は改札を出てから桜並木がつづく目白通りを見上げ、岡田虎二郎Click!は改札を出て洪水の中を豊坂から下落合へと帰宅し、佐伯祐三Click!は足の悪い妻の米子を俥に乗せて金久保沢へ抜けていたとみられ、曾宮一念Click!中村彝アトリエClick!の前の道は目白駅へと抜ける道だと書いている。いずれも1921年(大正10)ごろか、それ以降の様子だ。
 目白駅の写真は、気がついたときに少しずつ集めたり、あるいは人から譲っていただいたりしてきているけれど、建設当初の姿をとらえた写真とは、いまだ出会えないでいる。

■写真上:新宿歴史博物館に保存されている、建設当初の新宿駅のミニチュア模型。
■写真中上は、かろうじてスケッチで記録された大正初期の目白駅。駅舎が建っているのは、いまだ金久保沢の谷間だ。は、同じような意匠をした1903年(明治36)開業の池袋駅。
■写真中下は、1931年(昭和6)に撮影された橋上駅舎となった目白駅の姿。下左は1925年(大正14)ごろに撮影された目白駅で、下右もほぼ同時期の撮影とみられる。
■写真下:1970年代から80年代にかけて撮影された、目白駅スナップのいろいろ。

この記事へのコメント

  • ももなーお

    古い目白駅の写真、どうもありがとうございました。懐かしいです。散々通ってきた改札口なのに、いざ新しくなってみると古い駅舎を完全に忘れてしまいました。昔は改札口のの右側に特急の切符買うところがあって(僕の記憶では確かそうでした。)、よく新幹線の切符を買いに行ってました。
    2008年10月15日 09:39
  • sig

    こんにちは。
    一番上の新宿駅のミニチュア模型、いいですね。ほしいくらいです。
    いかにも「停車場(ていしゃば)」という感じで、この呼び名にも郷愁があります。それも、電車ではなく機関車が似合うと思います。山手線は最初から電車だったのでしょうか。2段目の池袋駅と4段目の大正期目白駅の写真には、架線が写っていませんね。
    2008年10月15日 12:52
  • ChinchikoPapa

    牛を小型化するというプロジェクトもあったように思うのですが、どうなったんでしょうね。nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
    2008年10月15日 15:48
  • ChinchikoPapa

    矢野沙織はほとんど聴いたことがなかったのですが、風が吹きぬけるようなアルトがけっこういいですね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年10月15日 15:57
  • ChinchikoPapa

    そろそろこの季節になると、家の木材が乾燥して「暴れる」ようですね。木の家は呼吸をしているようです。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年10月15日 15:59
  • ChinchikoPapa

    ももなーおさん、コメントをありがとうございます。
    駅は「通過点」のせいか、じっくり眺めることもなく通りすぎてしまいますので、リニューアルされてしまうとすぐに記憶がおぼろげになってしまいます。ときどき、昔の映画に登場する懐かしい駅を見て、「ああ、こうだった!」と気づくことが多いですね。
    目白駅というと、駅前にスペースの余裕があまりなく、通るといつも“人だかり”がしていたような記憶があります。駅から目白通りの歩道も当時は狭く、学校からの帰り道は混雑を避けるために、北側の歩道を歩いたりしてました。^^ いまは、駅前スペースも歩道も、ずいぶん広くなりましたよね。
    2008年10月15日 16:23
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    鉄道マニアでなくても、欲しくなってしまいますね。開設当初の新宿駅を知る方が、記憶をたどって忠実に再現されたそうです。山手線が品川赤羽鉄道と呼ばれていたころは、もちろん機関車による牽引でした。最初に電車が走ったのは山手線ではなく、甲武鉄道(中央線)だったようですね。
    わたしが物心つくころ、中長距離の貨物列車はいまだ蒸気機関車が牽引していましたけれど、都外からやってきて山手線の貨物線へ入った貨物列車の中にも、蒸気機関車がいたんじゃないかと思います。
    2008年10月15日 16:43
  • sig

    わざわざご回答、ありがとうございました。
    やはり機関車の時代もあったのですね。
    でも、見ていないせいでしょうが、山手線や中央線が煙や蒸気を吐いて走るイメージは、どことなくしっくりきませんね。(笑)
    2008年10月15日 20:13
  • ChinchikoPapa

    では、中央線(甲武鉄道)を走る蒸気機関車をどうぞ。^^
    http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-08-19-1
    山手線の写真もどこかにありましたので、いつか機会があったら掲載したいと思います。でも、貨物列車を引っ張る蒸気機関車の煙を浴びたくて、目白橋の上に集まった子どもたちがたくさんいたそうですが、洗濯をする親はたまったもんではないですよね。
    2008年10月15日 23:07
  • ChinchikoPapa

    お嬢さん、ガラス戸を蹴破るとは・・・。^^; でも、たいしたことなくてよかったですね。nice!をありがとうございました。>甘党大王さん
    2008年10月15日 23:18
  • ChinchikoPapa

    金木犀に実がならないと思ったら、雄株ばかりが輸入されてたんですね。初めて知りました。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
    2008年10月16日 11:26
  • 服部

    はじめまして。椎名町に長く居りましたので目白駅も懐かしいです。
    橋梁通路は鉄道では跨線橋と呼びますが、2本ありましたね。貨物線の線路の上空を歩きました。

    建設当時の目白駅と新宿駅の意匠が似ているとは驚きですね。
    もっとも、昔の鉄道建設では、建設の人夫はひとかたまりの集団となっていて、
    鉄道の建設がある土地土地へ集団ごと移動を続けていたそうですから、
    図面の使いまわしなどがあったことも容易に想像できますね。
    いまの西武新宿線、昔は旧西武の村山線でしたが、
    これの建設は、当時小田急線の建設に携わった人たちが請け負ったそうで、
    駅舎やホームの意匠に共通点が多かったようです。
    現在も残る向ヶ丘遊園の駅舎など、昔の中井駅のようなデザインですので、分からないでもないです。
    ホームの構造は小田急が対向式で西武は島式が多いですが・・・・。
    今では高架化が進んで古い駅も新しくなり(リニューアルと申しますか)、そんな面影もどんどん消えています。
    ちなみに、小田急の建設を終え、村山線の建設を終えると、東京西部での鉄道建設がひと段落ついたようで、
    人夫はじめ関係者たちは、そのまま旧西武鉄道の社員となった者も多かった、などと言うオチもありました・・・・。

    はじめましてでいきなりの長文駄文で失礼いたしました。今後も楽しみにしております。
    2008年11月30日 00:10
  • ChinchikoPapa

    服部さん、コメントをありがとうございました。
    ホームから線路をまたぐ橋状通路を、跨線橋というのですね。わたしも、線路をまたぐほうをよく利用していました。鉄道建設の工事関係者が、集団で移動していたというお話、たいへん興味深いです。
    西武新宿線も詳しく調べ始めますと、いろいろなことが出てきて実は興味津々なんです。全線ではないものの、鉄道のレール自体を敷いたのは習志野にあった陸軍の鉄道連隊が演習用に・・・という記録が残っているようですが、昭和初期に客車運行用の駅舎などの設備を整えていったのは、まったく違う工事集団だったのでしょうね。駅舎のデザインを決定するため、早大理工学部でコンペティションが行われた・・・という記録もあったりします。
    下落合駅は一度、氷川明神前に造られてから現在地へと移転しているわけですが、いまでもホームの下に当時のものと思われる大谷石の築垣が見られるのは面白いですね。中井駅は、すでにホームのコンクリート化が進んで、戦前の写真に写る大谷石ホームはなくなってしまいました。
    こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします。^^
    2008年11月30日 14:52
  • ガーゴイル

    高田馬場駅を通る線路の目白駅を西武の線路との交点に移設すべきである。
    2021年02月19日 09:32
  • ChinchikoPapa

    ガーゴイルさん、コメントをありがとうございます。
    が、コメントの意味が不明です。西武線は、そもそも大正期には目白駅が起点でしたが、それを戸山ヶ原に引きこむために高田馬場駅へ変更して地下鉄化を計画したのは、国立公文書館の資料によれば陸軍が主導したように見えますが。
    2021年02月19日 10:19

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