緒形拳の下落合散歩。

薬王院門前.JPG
 下落合を舞台にした好きなドラマClick!の準主役でもあるし、いつか書こう書こうと思ってサボッていたら、突然、ご本人が亡くなってしまった。旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)の金山平三アトリエClick!のまん前、法華宗獅子吼会(大日本獅子吼会Click!)でいとなまれた葬儀には、親族や故人と親しかった方たちだけが集ったそうだが、平日で仕事が抜けられず、門前・二ノ坂Click!のお見送りもできなかった。これだけ下落合を散策していれば、いつかどこかでバッタリ、お会いできるんじゃないかなどと思っていた。そのときは、写真も撮らせていただき、なぜ下落合がお気に入りなのかをうかがって、このサイトでご紹介できたら・・・などと空想していたのだ。
 特に、下落合の薬王院界隈が好きで、ときどき散歩をしているという緒形自身のエッセイかインタビューを、どこかで読んだことがある。書籍になったものではなく、おそらく雑誌に掲載された文章だったと思うのだけれど、かなり以前のことなので保存してあるはずの資料がどうしても出てこない。その文章を読んだとき、「なんだ、うちの近所をよく散歩してるのなら、いつか会える」と考えたのだ。ひょっとすると、カフェ杏奴Click!にも立ち寄ったりするんじゃないか・・・などと、近ごろは思ったりもしていた。でも、それももう決して実現しえない空想になってしまった。
大日本獅子吼会.JPG 緒形拳.jpeg
 わたしが初めて緒形拳を見たのは、おそらく物心つくころにあまた連れて行かれた芝居のひとつ、新国劇の舞台だったと思う。いったいなんの演目を、どれほどの回数で観たのかさっぱり憶えていないけれど、その中に辰巳柳太郎や島田省吾に混じって、同劇団の俳優のひとりだった緒形拳も確かにいたはずなのだ。そして、彼の舞台を最後に観たのは、これもずいぶん前になるが、飛び出してしまった新国劇へ久しぶりに客演したものか、あるいは文学座へ招かれての特別公演だったかは忘れたが、『無法松の一生』Click!の富島松五郎を演じたときだった。親父に東京じゅうを連れ歩かれた子供時代ならともかく、大人になってから人情ものの芝居を観ることはまずなかったけれど、緒形拳の舞台はなぜか特別に感じていたのだ。
 東京の旧・牛込区(現・新宿区の一部)の市谷富久町で生まれ、東京とその周辺を点々としたあと、現在の自宅は横浜の鶴見にあるようだが、なぜか新宿の落合界隈をときどき散歩するのが好きだったらしい。仕事の都合で近くに部屋でも借りていたか、あるいは姻戚の家でもあったのだろうか? 坂ばっかりで、緑が比較的多く残っている目白崖線の景観が、幼児期に体験したであろう市ヶ谷の風情に似ていたのかもしれない。
小倉祇園神社.jpg 薬王院境内.JPG
 そんな彼のもとへ、当の下落合を舞台にした開局20周年記念ドラマ『さよなら・今日は』Click!の仕事が、1973年(昭和48)にNTVから持ちこまれたとき、いったいどのように感じたのだろうか。いや、この言い方はまったく逆で、ドラマの仕事から地元・新宿の落合界隈を改めて“発見”し、懐かしい風情が気に入って散歩するようになったのかもしれない。
 しかも、ストーリーの中では、自身の生まれた地域とはまったく馴染みのない、刑務所から出たばかりで下落合へとやってくるコテコテの大阪人=「高橋清」の役だった。知らない大阪弁の台本を読みながら、ニヤニヤ楽しんでいる緒形の様子が目に浮かぶようだ。正確な大阪言葉の地域分布と、そのイントネーションをよく知らないのでなんとも言えないけれど、ドラマ中の会話からおそらく、西区の立売堀(いたちぼり)界隈で話されている大阪弁をつかっていたように思うのだが、その“しゃべり”はかなりいい線いっていたのではないだろうか。
雑司ヶ谷道.JPG オバケ坂界隈.JPG
 下落合の薬王院界隈が気に入っていたのは、アスファルトやコンクリートで固められた土地が少なく、あちこちに土がむき出しのままの地面が残っていたからではないか。薬王院の門前から境内横の下水道階段Click!を上ったり、畑地横の細道からオバケ坂Click!を上って、“たぬきの森”Click!あたりへと抜けたりしたこともあったのだろう。付近をしょっちゅう散歩をしていれば、いつか出会えるかもしれないと思っていたのに、アビラ村Click!(=芸術村)の丘上で葬儀が行なわれたニュースを聞くのは、なんとも寂しく残念でならない。

■写真上:東京にいるときは、お気に入りの散歩コースだったらしい薬王院の門前。
■写真中上は、葬儀が行なわれた旧・下落合4丁目(アビラ村)にある獅子吼会の本堂境内(左側)で、正面に見えているのは金山平三アトリエ。は、10月5日に無くなった俳優・緒形拳。
■写真中下は、『無法松の一生』でお馴染みの小倉祇園神社。1955年(昭和30)ごろに、隣接する玉屋デパートから撮影したもの。は、薬王院の本堂と境内。
■写真下は、畑も残る薬王院前の雑司ヶ谷道Click!は、同寺東に通うオバケ坂の風情。

この記事へのコメント

  • かもめ

    鶴見区岸谷も坂と谷の多いところです。なんとなく似ているんですね。
    最近は小奇麗な住宅やマンションが建って少し風情が変わりましたが、曲がりくねった細い坂道の両側に大きな樹木が茂り、寺も多く、ところどころに畑が残っていました。
    車で通る者には見通しが悪くて、狭い一方通行と円や線のスリップ止めのある急坂で停車・発進を繰り返す、いや~な地域ですが。 (^-^)ヾ 
    「楢山節考」よかった。主役でなくても存在感のある、いい役者さんでした。
      合掌
    2008年10月11日 10:44
  • ももなーお

    こんにちわ、お久しぶりです。ぼくも緒形拳さん、びっくりしました。

    >特に、下落合の薬王院界隈が好きで、ときどき散歩をしているという緒形自身のエッセイかインタビューを、どこかで読んだことがある

    ↑↑は知りませんでした。きっと「さよなら・今日は」のロケか何かで見て気に入ったのかもしれませんね。

    それと、、薬王院の曲がりくねった暗い坂、確かに怖いですよね。あれがオバケ坂っていうのかなぁ?、ちょっとわからないですけど、暗くて、公園みたいなのがあって、出光の灯油を売っている店があって(あったような気がする。)、坂の上に建設反対の札が立っているところ、懐かしいです。この間、護国寺まで自転車で足を運んだんですが、そこから目白のあたりに行くのはちょっときついですよね。でもチャンスがあれば、また七曲坂や薬王院、下落合シティハウスのところを自転車で周ってみたいです。
    2008年10月11日 11:46
  • ChinchikoPapa

    ほんとうに秋は光が美しいですが、このところ雨ばかり降っていてなかなか澄んだ青空が見られません。nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
    2008年10月11日 11:51
  • ChinchikoPapa

    マイケル・クスクーナというと、どうしても音源「発掘」のイメージが強いのですが、JAZZアルバムのプロデュースもやってる・・・というか、そちらが本来の仕事なんですよね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年10月11日 11:57
  • ChinchikoPapa

    木造による建築文化財の耐震化は、ほんとうに急務だと思います。
    nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年10月11日 12:03
  • ChinchikoPapa

    かもめさん、コメントをありがとうございます。
    鶴見もバッケ(崖線)状の起伏が、繰り返してつづく丘陵地帯が多いですよね。市ヶ谷も、丘と谷と坂道が入り組んでつづく地域ですけれど、小樽で育った小林多喜二が麻布に惹かれたように、どこかそのような景観が幼児期の原風景として、緒形拳さんの脳裏に懐かしく映っていたものでしょうか。
    下落合の道筋は、緊急車両がなかなか入れない複雑で入り組んだ細い道が多く、また急な勾配の坂道が随所にありますので、地勢的にも鶴見地域と似ているかと思います。ただし、落合地域は消防署から、いつも「消火困難」区画に指定され、防災地図では必ずなんらかの色が崖線沿いに網がけされていますが。^^;
    2008年10月11日 12:26
  • ChinchikoPapa

    ももなーおさん、コメントをありがとうございます。
    わたしも、1973~74年の下落合ドラマがきっかけか、あるいは葬儀が行われた法華宗獅子吼会かなにかの関係で、落合界隈が馴染みになったのではないかな・・・と想像しています。いまの新宿区一帯が、生まれたふるさと地域でもあるし、なんとなく懐かしかったのかもしれませんね。
    はい、あそこがオバケ坂です。^^ おそらく、ある時期にバッケ(崖)坂と呼ばれていた時代があって、それがバケ坂→オバケ坂、あるいはバケ坂→幽霊坂と転訛する、東京の坂名のひとつではないかなと想像しています。ちょうど、日立目白クラブ(学習院昭和寮)から学習院の崖下、山手線のガードがあるあたり一帯は「字バッケ下」と呼ばれ、区画を早稲田寄りに縮小しながらも地名が大正末まで残っていました。きっと、名称も付かずに単にバッケ坂と呼ばれていた坂道が、江戸東京の崖線沿いにはたくさんあったんじゃないかと思います。
    そういう坂道は確かに夜歩くと怖いのですが(^^;、うまく自然の緑や動物が生き残れて、大規模な開発ができないところがほとんどですので、これからもオバケ坂でありつづけてほしいと思っています。はい、お時間ができたら、またぜひこのあたりを散歩されてください。
    2008年10月11日 12:51
  • sig

    こんにちは。
    ふだんテレビドラマは見ず、映画もアメリカの娯楽作品しか見ない私にとって、彼の死はピンとこないのですが、唯一「復讐するは我にあり」が心に残っています。それも実は彼よりも共演の小川真由美の可憐さが好きになって、以来彼女の番組は時々覗いたことがありました。
    そんな訳で彼の死について語ることはできないのですが、人間、70歳を過ぎたら覚悟が必要だな、という感じを強くしました。70歳を目の前にして身の回りの整理をし始め、稚拙なブログを始めたのも、実はそんな考えからだったりして・・・。
    2008年10月12日 14:25
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    わたしも訃報を聞いて、真っ先に見なおしたのが『復讐するは我にあり』(今村昌平)でした。つづいて、野村芳太郎のシリーズ作品に手が伸びましたね。たいがい、加藤嘉も同時に出演していて、好きな作品が多いのです。
    sigさんは、まだまだお若いですよ。その映画への情熱は、いまの若い子たちが映画に取り組む情熱に、勝るとも劣らないと思います。スタートされたブログは、蓄積された膨大な情報や作品類の、まだほんの入り口のそのまた端緒かと。ぜひ、あと30年ほどはじっくり取り組んでいただき、貴重なお話を聞かせていただきませんと・・・。^^
    2008年10月12日 23:20
  • sig

    こんにちは。
    最近、コメントを書き、送信しようとするとExprorerが止まってしまう状況が多発して困ります。
    それはともかく、よほど加藤嘉がお好きなのですね。私は後になって、彼がやくざの親分や冷酷な目明し役を演じているのを観たりして、へえ、と思いました。とに角記憶に残る役者でしたね。
    当方のブログについては、買いかぶりすぎですよ。聞きかじりと受け売りに、自分の思い込みや勝手な想像を混ぜ込んでいるだけです。これまで中途半端にしか生きてこなかった付けが回って、まともなものは書けません。
    にもかかわらずお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
    2008年10月13日 11:19
  • ChinchikoPapa

    そうなんです。先週から、So-netブログのコメント書き込みがおかしいですね。わたしも、sigさんのブログをはじめ、いくつかのコメント投稿に失敗しています。So-netブログの運用管理ボードを見ても、いまだこのエラーについて触れられていないところを見ますと、不定期かつ不規則に起きている“ふるまい”のため、その原因がまったく特定できないからなのでしょうか。
    やくざの親分から歯の抜けた痴呆老人まで、加藤嘉の役の幅とそのリアリティは驚異的でした。女性の俳優でいいますと、北林谷栄(この女優も大好きですが)のような存在だったでしょうか。ヨレヨレの痴呆老人役を演じて、モスクワ映画祭の主演男優賞に選ばれ、タキシードに銀縁メガネで180cmの身体をしゃきっとせて舞台に現れたとき、会場全体がどよめいたといいますが、どのようなシチュエーションでもピッタリとはまってしまうこの柔軟性の高さが、加藤嘉の類例のない魅力だと思いますね。(伊藤雄之助にも、少しそういう側面を感じますが)
    いえいえ、ご謙遜しすぎませんよう。これからも、楽しみに読ませていただきます。^^
    2008年10月13日 12:31
  • ChinchikoPapa

    甘党大王さん、いくつかの記事にnice!をありがとうございました。
    2008年10月16日 00:30
  • 子桜インコ

    しばらくぶりに書いております。その間ChinchikoPapa様のブログをいろいろと旅をしていました。もしかしたら、学者さん?なんて思いつつ、。。皆さんのご感想もとても中が深くて、私よりも皆さん少し年上かななどと思っております。ぼんやりしながらも探すものは探しておりました。私の大好きな山口崇さんの現在を探しながらいろいろなサイトに入り込み、そして「たかしと。。。と昔話」などを買い求めてしまいました。あの方の在り方というものに同じ兵庫県出身の私は改めて、尊敬をしてしまいました。現在は「長唄」と「昔話」の講演などと地元にて大きな存在でいらっしゃるようです。一度は講演会など言ってみたいなと思います。淡路島には確か昔から人形浄瑠璃が残っていて、長唄の世界と共通しているのかもしれません。
    ところでChinchikoPapa様が書かれていたカフェ杏奴とても行ってみたくなりました。いつか一人でのんびりとおいしそうなカレーを食べにいってみます。ChinchikoPapa様もお気に入りなのでしょうね。子桜インコはその時、ChinchikoPapa様にあえるかもしれないですね。。。(^^;);それではまた、お邪魔します。
    2008年10月21日 13:50
  • ChinchikoPapa

    子桜インコさん、コメントをありがとうございます。
    わたしは、学者ではありません。^^; 山口崇さんが、あのツヤのある声と声量を活かして、ずいぶん以前から三味線片手に「長唄」に取り組んでらしたのは知っていましたが、昔話の語り部としても活躍されてるのですね。わたしも、その講演をぜひ聞いてみたいものです。子供のころから、人形芝居の囃子方の音曲を聴いて育ったのかもしれませんね。
    このサイトで、下落合にアトリエをかまえて住んだ神戸出身の洋画家・金山平三をたびたび紹介しているのですが(上の記事にもアトリエが登場しています)、彼もまた子供時代から、神戸にやってくる芝居を観て育ったせいか、のちに人形劇や踊り、芝居絵などにのめりこみ、それに飽き足らずアトリエでひとり芝居をやっては写真に記録するなど、生涯にわたり影響を受けつづけました。金山平三の頭の中には、常に長唄の節まわしが響いていたのかもしれません。
    ぜひ、下落合にもお越しください。ドラマの舞台になった箇所は、いまでも面影が残っています。カフェ杏奴で、うまくお会いできるといいですね。^^
    2008年10月21日 19:35
  • 日本科技大野球部員

    89年放送の松本清張サスペンス「詩城の旅びと」の緒方さんもカッコ良かったですね。南仏レボー城で佇む姿が印象に残っています。
    2012年10月05日 23:49
  • ChinchikoPapa

    日本科技大野球部員さん、コメントをありがとうございます。
    そのNHKドラマは、残念ながら観てないですね。今度、NHKアーカイブのODSで見つけたら観てみます。
    2012年10月06日 00:53
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。
     >takagakiさん
     >漢さん
     >kurakichiさん
    2018年07月05日 18:30

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