怪しさ漂う大江戸のお茶の水・水道橋。

水道橋2008.JPG 水道橋1955.jpg
 わたしの大好きな散歩コースに、お茶の水から水道橋へのコースがある。お茶の水には神田明神Click!や少し歩けば湯島天神Click!湯島聖堂Click!(昌平坂学問所)にニコライ堂と、わたしの好きなスポットが集中しているし、水道橋方面へ歩いていけば震災公園の姿をそのまま残すライト風の元町公園や水戸徳川の後楽園Click!と、見どころがそこかしこにあるからだ。
 子どものころ、ニコライ堂の尖塔に登ったことは以前にも書いたけれど、「ニコライ」のほかにもうひとつ、お茶の水にくると親父がよく口にしていたキーワードに「自由学校」というのがあった。戦後間もないころ、お茶の水のお濠端の斜面には、戦災で家屋財産をなくした人たちが集まり、トタンを組んで造った粗末な小屋が並んでいた。(もちろん、わたしは見ていない) 生活水はすべて神田川の水でまかない、ゴミやシケモク(吸いさしのタバコ)を集めて売っては暮らしていたらしい。
 1950年(昭和25)から翌年にかけ、朝日新聞に連載された獅子文六の『自由学校』では、なまけ者の主人公が奥さんに追い出されて行き着く先が、お茶の水のお濠端に形成された貧民窟だった・・・という設定になっている。この小説は、いきなり米国からもたらされた“戦後民主主義”の中、「自由ってなに?」と多少皮肉っぽく描いたユーモラスな作品で、いまでもけっこう面白く読める。この作品を20代で読んでいた親父は、外濠の情景とともにことさら印象に残ったのだろう。
自由学校1951.jpg 昌平坂.JPG
 いまや、お茶の水から水道橋Click!(すいどばし)にかけて千代田城の外濠沿いは、威圧的な高層ビルもそれほど建ってはおらず、空が大きくひらけた明るい散歩道となっているけれど、江戸時代のこのあたりはムジナやタヌキが出没した赤坂や麻布Click!とあまり変わらない、あちこちに樹木がうっそうと繁るとても寂しい乃手Click!の街並みだった。当時のそんな様子を伝えているのが、芝居の中に登場するお茶の水や水道橋の情景描写だ。いくつかの芝居では、お茶の水や水道橋は人目を避けて憎い相手を抹殺する、“殺し”の現場として設定されている。(爆!)
 本郷加賀屋敷の赤門の記事Click!でチラリとご紹介した、黙阿弥の『盲長屋梅加賀鳶(めくらながや・うめがかがとび)』(通称:加賀鳶)の道玄が殺されるのが、このお茶の水の急峻な濠端近くだ。また、同作に登場する鳶の五郎次が、死神にとり憑かれるのが上流の水道橋。そして、お茶の水から神田川を少しさかのぼり、水道橋手前に架かる大樋(神田上水の水道本管Click!)が見えてくるあたりでは、同じく黙阿弥の『吉様参由縁音信(きちさままいる・ゆかりのおとずれ)』(通称:湯灌場吉三)に出てくる腹黒い坊主の弁秀が、湯灌場(ゆかんば)買いの吉三に惨殺されている。
湯灌場吉三.jpg 神田上水懸樋.jpg
 湯灌場買いというのは、江戸時代に実際にあった底辺の仕事らしく、死者とともに棺桶へ入れられた着物や愛用の品々、つまり副葬の遺品類を寺から安く払い下げてもらい、それを転売しては儲けていたブローカーのような、当時としても非常にいかがわしい職業だったらしい。芝居の筋立ては、別の作品だったはずの「三人吉三」や「八百屋お七」が互いに絡み合い、入り乱れての複雑怪奇な展開となっている。あらかじめ、黙阿弥作品を観て予備知識を仕入れていなければ、どこもかしこも納得できない、作者特有のもつれたシナリオ構成になっているのでご紹介を省略。^^;
 いかがわしいブローカーの湯灌場買いや、業つくばりで得体の知れない金貸し坊主が行きかう、昼なお薄暗いお茶の水や水道橋。いまのシャレた乃手の明るい街並みからは、想像すらできない江戸時代の風情だ。『江戸名所図会』を描いた長谷川雪旦は、お茶の水にあった「守山」といううなぎの蒲焼き屋を訪れているけれど、絵筆を持ってそこいらをウロウロ下見にきた、怪しい泥棒の一味と間違えられて通報され、駈けつけた役人たちに捕縛されている。
昌平橋.JPG 後楽園.JPG
 おかしなそぶりをする見馴れない人間は、みんな怪しく見えてしまった当時のお茶の水・水道橋界隈。うなぎ大蒲焼き「守山」は、街中に見世開きをしていた表店(おもてだな)ではなく、水道橋の大樋を警備する水道番Click!が副業にしていた商いらしいので、残念ながらいまは存在していない。

■写真上は現在の水道橋で、は1950年(昭和25)年前後の同橋。
■写真中上は、お茶の水の濠端にあった貧民窟の獅子文六で、朝日新聞へ『自由学校』を連載したあとに撮影されたものだろう。は、江戸期の面影を聖堂の塀に色濃く残した昌平坂。
■写真中下は、昭和初期に撮られた『吉様参由縁音信』の舞台で、左から弁秀の6代目・尾上菊五郎、吉三の15代目・市村羽左衛門、おかんの6代目・尾上梅幸。書割には水道の懸樋が描かれている。は、泥棒と間違えられた長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』の「神田上水懸樋」。
■写真下は、昌平橋から上流の聖橋方面を眺めた神田川の流れ。は、水道橋にある水戸徳川家の上屋敷庭園だった、「後楽園」に残る濃い緑と藁葺き家。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    大学の長唄OB会というのは、粋な集まりですね。^^
    nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年10月09日 10:59
  • かもめ

    水道橋あたりは何度か仕事で通いました。
    山坂や谷があって、大きな樹木で薄暗い道なんかも多かった。
    江戸の昔なら、追いはぎなんかいそうですね。
    川端のボロ小屋は昔の鶴見川周辺の風景そのままです。
    川の水で炊事洗濯、薪がなくなると木橋の欄干が1本おきに消えて、しまいには欄干なしの踏み板も歯抜けという危ない橋になりました。
    以来、コンクリ製の橋が増えて、町の風情が変わったのですが。
    破れトタンの差し掛けから段ボールハウスに変わったけど、貧乏人は今も橋のたもとにいます。
    明日はわが身かな。 ^^ ;
    2008年10月09日 11:15
  • ChinchikoPapa

    かもめさん、コメントをありがとうございました。
    江戸期ばかりでなく明治になってからも、芝居を観にいくために神楽坂界隈を通る姉たちを心配していたらしい夏目漱石ですから、ずいぶんあとまで飯田橋→お茶の水にかけては寂しい風情がつづいていたんでしょうね。漱石も、さびしい街角に出現する追いはぎについて書いてます。
    橋の欄干を薪にしてしまうのは、すごいですね。^^; 現在のようなコンクリート製ではなく、板製のドブ板がいつの間にか消えた・・・という話は聞いたことがあります。
    わたしが子供のころ、さすがに川沿いの掘っ立て小屋は見た記憶がありませんけれど、その代わり「水上生活者」と呼ばれる人たちが、東京のあちこちの河川や掘割りに住んでいたのをかすかに憶えています。そこに住む子供たちを、いかに小中学校へ通わせるか、学区の教師や教育委員会の担当者たちが根気よく1隻1隻訪問してまわる・・・という、ドキュメンタリー番組も観たような記憶があります。
    このまま恐慌状態がつづけば、またまた段ボールハウスが増えそうです。ほんとに、他人事ではないですね。^^;
    2008年10月09日 13:14
  • sig

    こんにちは。
    東京は大川に限らず川や堀にまつわる物語は結構たくさんあるのでしょうね。
    湯灌場買いのお話はその発想が面白く、なるほどと思いました。
    2008年10月09日 15:46
  • ChinchikoPapa

    sigさん、いくつものコメントとnice!をほんとうにありがとうございます。
    湯灌場買いは、確かに死者とともに埋められてしまう品を後世に活かす合理的な発想だとは思いますが、でも、いくら江戸の街がリサイクルに長けていたからといって、せっかく遺族が棺に納めたのに、なにも死んだ人から剥ぎ取らなくても・・・とも思いますね。^^;
    2008年10月09日 18:31
  • ChinchikoPapa

    どこかの大臣の言い草ではないですが、海外の生産者から「日本の消費者はうるさい」と思われているようですが、非常にいいことだと思います。nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
    2008年10月09日 23:42
  • ChinchikoPapa

    シェラ・ジョーダンのノリというか、歌唱の“間”は好きですね。
    nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年10月09日 23:58
  • SILENT

    獅子文六と自由学校と薩摩治郎八の主婦の友会館の昔が繋がって、大磯へと繋がる面白いですね。神田美土代町は30年以上通った職場のある地域でした。聖橋界隈なつかしい想い出です。小川町の水晶堂と宮沢賢治いまもあるのでしょうか?
    2008年10月10日 18:52
  • ChinchikoPapa

    SILENTさん、コメントをありがとうございます。
    宮沢賢治が訪れた水晶堂ですが、店舗は現在はなくなり「水晶堂ビル」としてその名前が残っています。わたしは、「メガネの水晶堂」しか知らないのですが、古くはもろもろの鉱物を扱う店だったんですね。それで、賢治が立ち寄ったわけですね。
    2008年10月10日 19:03
  • ChinchikoPapa

    書き忘れてしまい、失礼しました。
    nice!をありがとうございました。>SILENTさん
    2008年10月10日 19:04
  • SILENT

    神田小川町水晶堂は昭和40年代ガラスの引き戸の不思議な空間の店でした。店内はコンクリートの叩きの土間のイメージで商ケースが低くて誇りをかぶり奥のカウンターに気難しそうなおじさんがいて
    足元を見るとあちこちに一抱えもある水晶や、鉄鉱石の原石が転がっていました。当時は宮沢賢治ゆかりの店とは知りませんでした。でも外の光が
    ガラスのショーケースに指す光景はいい雰囲気でしたよ。
    2008年10月10日 21:16
  • ChinchikoPapa

    そのころの水晶堂へ、ぜひ立ち寄ってみたかったです。子どものころから、いろいろな鉱物を見るのが好きで、国立科学博物館へ出かけたときは必ず化石とともに鉱物標本をねだったものでした。もっとも、高いのでなかなか買ってはくれませんでしたが・・・。黄鉄鉱とか紫水晶は、見ているだけでワクワクしましたね。
    うちの祖父が、大きな石をパックリ割った状態で、中にびっしり水晶が生えている(まさにニョキニョキ生えている感じなのですが)標本を持っていて、いつも家へ遊びに行くと飽きずに眺めていたものです。子どものころ水晶堂を訪れていたら、きっとなかなか帰ろうとはしなかったんじゃないかと思いますね。w
    2008年10月10日 23:48
  • ChinchikoPapa

    以前の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。
     >takagakiさん
     >さらまわしさん
    2015年05月26日 15:58

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