岡田式「静坐法」に惹かれた人々。

岡田遺骨を囲む会.jpg
 東京では、岡田虎二郎Click!の名前を知る人はもはや非常に少ないけれど、岡田の出身地である愛知県田原市では、おそらく市民の誰もが知っている名前なのだろう。つい昨年(2007年)も、彫刻家・中原悌二郎Click!の展覧会とともに、岡田虎二郎の事績を詳しく紹介する「中原悌二郎と岡田虎二郎-自然の理法・悌二郎をめぐる作家達」展が、田原市博物館で開催されたばかりだ。同展では、中原悌二郎に影響を与えた、あるいは中原から影響を受けた芸術家たちの作品も同時に展示されており、もちろん中村彝Click!とその周辺の人々の名前も数多く見える。そして、彼らの何人かに共通するのは、岡田虎二郎へ師事した弟子たち、つまり日暮里の本行寺Click!で開催されていた「静坐」会へ参加していたメンバーだったことだ。
 岡田が唱えた「自然の理法」には、本来的な思想面と、「静坐法」を通じての健康増進的な側面とがあったようだけれど、本行寺へ通った多くの人たちはおもに後者を目的としていたようだ。当時、肺結核Click!は深刻な不治の病で、一度罹患したら死を覚悟しなければならない疾病だった。結核にかかりにくい体質づくり、あるいは罹患者ならば体力をつけ自然治癒力を高めるために、岡田の「静坐」会へ参加した人たちが大勢いたらしい。「自然の理法」の思想的な面に共感して、岡田の門下生になった人物では、元・代議士で社会運動家の田中正造Click!やキリスト教的社会主義者の木下尚江が有名だが、中原悌二郎もどうやらそのひとりだったようだ。
 岡田の「自然の理法」については、現在でも書籍類が出ているので詳しくは触れないけれど、中原悌二郎は「静坐」をつづける理由として、次のような手紙の下書きを残している。同展の図録に掲載された、川上直也「中原悌二郎と岡田虎二郎-ものの真相にむけて」から孫引きしてみよう。
  
 御承知の如く私は、呼吸法及び静坐法の真理を深く信じて居ります。 (中略)此の一路を歩むことによって、自分自身の生命を充実させ得ると信じて居るので御座居ます。斯くて尚死が私の上に来る運命であるならば、私が好むと好まざるとに関わらず、兎に角受けざるを得ないと思って居るので御座居ます。 (中略)私の静坐法の修養は単に病気が治るとか治らないとか言う問題よりも、もう少し大きな問題が含まれて居るので御座居ます。
  
中原悌二郎素描(自画像).jpg 中村彝中原悌二郎像.jpg
 一方、中村彝は、新宿中村屋から本行寺の並びにあった有楽館Click!へ転居し、「静坐」会へ参加しつづけた理由として、親友の中原が書いた思想的な関わりよりはむしろ、健康増進の側面へより大きな魅力を感じていたように思われる。彝は中原ほど「自然の理法」に対してピュアではなく、キリスト教や神道などの宗教から民間療法、街中の巫女や霊媒師による“おまじない”にいたるまで、さまざまな関わりを持ちつづけている。特に、岡田や中原の死後は、「静坐」をつづけることさえやめてしまったようだ。彝が最後に頼ったのは、友人の小熊虎之助Click!から紹介された遠藤繁清医師Click!による、当時は最先端だった西洋医学の治療法だった。
 中村彝が「静坐」会と疎遠になったきっかけは、同会で毎朝顔を合わせる相馬黒光との確執が、大きな要因として挙げられることが多い。そして、黒光と親しかった木下尚江が岡田虎二郎へ彝の「行状」を耳打ちし、岡田の心象を非常に害した・・・と、彝が思いこんでしまった点にもあるようだ。彝の「行状」とは、新宿中村屋の娘・俊子Click!との結婚を相馬夫妻に迫り、どうしても許してもらえずにいると、ときに日本刀を手にして中村屋へ押しかけた一連の“恋の狂乱”のことを指している。でも、木下が彝のことを岡田へ密告したという事実は、とりあえずどこにも見あたらない。俊子と結婚できない苛立ちと病気の進行から、彝はことさら猜疑心が強くなっていたのだろうか?
新宿中村屋一家.jpg 岡田虎二郎一家.jpg
 相馬黒光は毎朝、新宿駅から午前4時48分の始発電車に乗って、日暮里の本行寺で行なわれた「静坐」会へと通っている。岡田が死去する1920年(大正9)10月17日までの10年間、ただの1日も欠かさずに通いつづけたようだ。岡田の死去直前、彼女は山手線で目白駅Click!から乗りこんできた岡田といっしょになっているが、その前後の岡田の行動が同図録に紹介されている。鈴木利昌「岡田虎二郎の精神-春堂文庫と教えを伝えた人々」から引用してみよう。
  
 9月30日(木) 本郷の西教寺で東大静坐会終了後、暴風雨をついて強歩行、(略)。
 10月7日(木) 宗参寺(早稲田大学静坐会)で柿の実のお話。
 10月9日(土) 梅悤寺(梅窓院、一橋大静坐会)で柿の実のお話。
 10月10日(日) 日向(利兵衛)邸前で木下(尚江)氏にお話。
 10月13日(水) 早目に御帰宅。
 10月14日(木) 午前10時頃、笹川(てい)邸から御帰宅、高熱嘔吐。(略)
 10月15日(金) 午後4時、青柳博士来診、脳脊髄膜炎の疑のため10時入院、尿毒症と診断。
 10月16日(土) 昏睡状態、酸素吸入。
 10月17日(日) 午前1時15分逝去、午前3時御遺体帰宅。
 10月18日(月) 死面制作、告別式、午後5時落合火葬場にて荼毘に付す。
  
岡田虎二郎デスマスク.jpg 静坐童子.jpg
 下落合に住んだ岡田虎二郎と中村彝、そして下落合へ頻繁に姿を見せた中原悌二郎と相馬黒光、絵画学校のルートや美術関連のサロンを通じてではない、もうひとつ別の人脈のレイヤが、岡田の「静坐」会を通じて見えてくるのが面白い。

■写真上:1920年(大正9)10月27日に愛知県豊橋の岡田屋で開かれた、岡田虎二郎の「遺骨を囲む」会。遺影前の右手に座るのが、その後も近衛町Click!に住んだ岡田き賀と思われる。
■写真中上:制作年不詳の中原悌二郎『素描(自画像)』()と、中村彝『中原悌二郎像』()。
■写真中下は、新宿中村屋の家族写真で左上が俊子、中央が相馬愛蔵、右上が相馬黒光。は、岡田虎二郎の家族写真で左から妻の岡田き賀、岡田虎二郎、娘の礼子(禮子)。
■写真下は、北村正信が制作した岡田虎二郎デスマスク。は、島津製作所が製造した『静坐童子』(陶製)。岡田は下落合の島津家Click!とも、なんらかのつながりがあったものだろうか?

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    1981年にマイルス復帰直前のスタジオブローをとらえた写真の背後に、ギルの白髪顔が写っているのを見て鳥肌が立ったのを憶えています。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年09月29日 12:52
  • ChinchikoPapa

    そういえばカメラのフィルターに油を塗って、いろいろな撮影効果を楽しんだ憶えもあります。nice!をありがとうございました。>sigさん
    2008年09月29日 16:20
  • ChinchikoPapa

    子供のころ、よく虫を捕まえては虫めがねで観察してました。宝石のように見えることがありますね。nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
    2008年09月29日 20:03
  • ChinchikoPapa

    昔から大晦日には王子稲荷にキツネが集まるといわれていますが、王子神社の北向きバッケにはいまだ狐火が出そうですね。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年09月30日 13:43
  • ChinchikoPapa

    こちらへも、nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2008年10月01日 19:13
  • ChinchikoPapa

    いつも、nice!をありがとうございます。>甘党大王さん
    2008年10月01日 19:14
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2010年12月24日 14:55

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