太平洋戦争の直前に首相であり、敗戦時の海相だった米内光政が、下落合の林泉園Click!近くで頻繁に目撃されている。わたしは、ずいぶん前からそれを耳にしており、そう証言された方はひとりやふたりではない。具体的に「このあたりにいた」と、実際に家を指摘された方も何人かいらっしゃる。このお話を聞いてすぐにも思い出すのが、二二六事件のときひそかに官邸を脱出し、下落合の佐々木久二邸Click!へ避難してきた、同じ海軍出身の岡田啓介Click!のことだ。岡田は一貫した軍縮の方針により、陸軍や右翼から常に生命をねらわれていた。はたして、戦前戦後を通じて“火中の栗ひろい”ばかりやらされたように見える米内光政だが、下落合でなにをしていたのだろう?
米内光政の「公式記録」では、彼が下落合に住んだことは一度もない。病気がちの母親がいるからと説明していたようだけれど、原則的に赴任先へは単身で家族をともなわず、もっとも長かったとみられる彼の自宅は、渋谷竹下町(現・原宿の竹下通り)にあった。その後、1940年(昭和15)に首相就任の際には麹町三年町(現・霞ヶ関)へ転居し、空襲で邸が焼けると白金三光町(現・港区白金台)、つづいて三田網町(現・三田5丁目)に仮住まいをしている。戦後は、目黒区富士見台(現・南1丁目)へと引っ越し、そこで1948年(昭和23)4月に68歳で没している。
「公式」には上記のとおりだが、彼には東京での所在がまま「行方不明」になった時期が、生涯に一度だけあった。ポツダム宣言を受諾する敗戦の直前、ときに家族や秘書官さえも所在が知らされず、危険な情報が入るとどこかで断続的に“隠れ家”暮らしをしていたとみられる時期だ。米内光政の周辺には、女性をめぐる逸話も数多いのだけれど、東京での「行方不明」はそんな艶っぽいものではなかった。1940年(昭和15)の首相就任時から敗戦時まで、米内は陸軍や右翼から暗殺第一の標的にされている。「静かなる楯」(高田万亀子)と評されることの多い米内だが、暗殺計画の標的になったのは1939年(昭和14)の海相時代あたりからだと言われている。社会大衆党の水谷長三郎に対する、当時の議会答弁から引用してみよう。
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軍備は必要の最小限にとどめるべきでありまして、出来ないことを要求するものではないと思います。海軍としては狭義国防の観点から相当の考えは持っておりますが、軍備ばかり充分に出来ましても、その他のことが死んでしまっては国は亡びると思います。一国全体の国政となれば、陸海軍がひとりとやかく言うべきものではなく、政府がやるべきものであります。ただ、統制という問題につきましては、統制と申しても限度があり、私の考えるところでは、生産分配の統制まではよいとして、消費まで統制することは好ましくないと思います。(中略)もちろん諸般の改革はこの際必要でありますが、ラディカルな改革は混乱を生みます。レボリューショナリー(革命的)でなくエボリューショナリー(発展的漸進的)に行くべきであると信じております。
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「軍人は政治に関与すべからず/国防あって政治なき国家は滅亡する/政治の運用には独裁的方法を排撃する」というこの“三原則”は、いわゆる「米内山本井上」体制の中で練られた海軍の方針だった。山本は当時の海軍次官だった山本五十六、井上は軍務局長だった井上成美(しげよし)のことだ。この方針は、翌年の米内光政が首相に就任してからも踏襲されたが、「バスに乗り遅れるな」とばかり日独伊三国軍事同盟の締結と、国家総動員体制の強化をめざす陸軍は、米内内閣の成立と同時に倒閣運動をはじめ、内閣はわずか6ヶ月の短命に終わっている。そのあとを継いだのが、1940年(昭和15)の7月に成立した近衛文麿Click!による第2次近衛内閣だった。
倒閣の直後、山本は米内も含めた飲み会で5年後の日本と自身の運命を的確に予言している。1950年(昭和25)に出版された、原田熊雄『西園寺公と政局』(岩波書店)から引用してみよう。
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実に言語道断だ。----自分の考では、アメリカと戦争するといふことは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ。----結局自分は、もうかうなつた以上、最善を尽して奮闘する。さうして長門の艦上で討死するだらう。その間に、東京あたりは三度ぐらゐまる焼にされて、非常にみじめな目に会ふだろう。さうして、結果において近衛だのなんかが、気の毒だけれども、国民から八裂きにされるやうなことになりやせんか。
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開戦時の聨合艦隊司令長官が山本五十六であり、敗戦時の“尻拭い”鈴木内閣の海相が、再び米内光政というのは、なんとも皮肉な歴史のめぐり合わせだ。
戦争を終結へと導くために活動していた米内は、常時、陸軍や右翼から生命を脅かされていた。テロを阻止するために、米内の秘書官たちは拳銃だけでなく催涙弾や軍刀などで重武装し、大臣室へ陸軍関係者が面会に訪れると刀の鯉口を切っていた話は有名だ。戦争末期(阿南惟幾陸相時代)には、陸軍によるクーデターも実際に企画され、東京に戒厳令をしく計画までがすでにできあがっていた。米内の自宅がもっとも危険で、敗戦が間近なこの時期、彼は知人が世話してくれた市内の“隠れ家”へ、ときどき泊まりに行っていたらしい。ポツダム宣言を受諾するというのに、阿南陸相は最後に部下へ「米内を斬れ」とさえ命じていたようだ。さて、米内光政と下落合がかかわってきそうなのは、そんな時期のこと。
1945年(昭和20)5月25日の空襲で海軍大臣官邸が焼けると、米内は麻布仙台坂の民間住宅を借りて仮の官邸に使用していた。その邸を貸していた人物こそが、箱根土地Click!の堤康次郎Click!なのだ。堤は、1924年(大正13)に衆議院議員に初当選したあと、翌1925年(大正14)の末ぐらいまで下落合に住んでいたらしい。もちろん、最初の大規模な宅地開発の仕事である目白文化村Click!の造成がつづいていたからだ。当時の堤の自宅は、箱根土地本社Click!からもそう遠くはない下落合575番地にあった。目白通りの桔梗屋書店から南に入った、すぐ右手のあたりだ。
その後、国立や大泉学園Click!の開発のために転居するけれど、妻の実家をはじめ親族が下落合に多く住んでいたため、のちのちまで下落合との縁は深かっただろう。そして、二二六事件のとき佐々木久二議員が岡田首相を下落合の自邸へかくまったように、堤康次郎は戦争終結のキーマンだった米内海相へ、下落合の“隠れ家”を提供しやしなかっただろうか?
下落合における米内光政の目撃情報は、林泉園西側のとある一画に集中している。それは、1945年(昭和20)5月25日の大規模な山手空襲Click!にも焼け残った、メーヤー館Click!のすぐ南側の住宅エリアだ。彼の性格からして、“隠れ家”で息をひそめていたり、コソコソ出入りしたりするとは到底思えず、クルマで出勤するときも軍服姿で、悠々と“隠れ家”の周囲を歩いていたのではなかろうか。だからこそ、近所の住民たちにも頻繁に目撃されたのではないか。
米内は、下落合に馴染み深い箱根土地の堤康次郎との接点のほかにも、ひそかに戦争を終わらせる工作をつづけていた学者グループ(いわゆるオールド・リベラリストたち)とも接点があっただろう。その中核にいた安倍能成Click!や南原繁も、同じ下落合に住んでいた。ひょっとすると、思いがけなくとれた休日には、護衛もつけずにくつろいだ姿で林泉園のあたりを散歩していたのかもしれない。そんなとき、口をついて出たのは得意な長唄だったろうか?
■写真上:左は、米内光政が近所の住民たちによく目撃された下落合の街角。右は、1936年(昭和11)ごろに撮影された海軍大将礼服姿の米内光政。
■写真中上:「落合の緑と自然を守る会」の堀尾慶治様よりいただいた、1935年(昭和10)ごろの林泉園写真。スケッチしているのは落合第四小学校の生徒たちで、同校の卒業アルバムから。現在も残る老桜の下あたりの光景で、背後の斜面を見ると谷間がかなり深かったのがわかる。
■写真中下:左は、1938年(昭和13)制作の「火保図」にみる、林泉園西側あたりの住宅街。右は、1947年(昭和22)の写真にみる焼け残った同エリア。“隠れ家”は、この中にあるのだろうか。
■写真下:左は、1925年(大正14)ごろまで堤康次郎邸が建っていた、下落合575番地あたりの現状。右は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる同エリア。
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この記事へのコメント
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
sig
戦中、戦後に登場する数々の著名人の人物像は、見る立場が異なれば全く逆の評価が生まれる難しさがありますが、一つ言えることは政治家も軍人も己の言動に責任を持ち、文字通り命を掛けていたというところが、現在と大きく違うところだと思います。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>一真さん
ChinchikoPapa
米内光政についても、より積極的に陸軍を抑え込み太平洋戦争を防げたはずだ・・・という見方も、このごろ多々見かけますね。ただ、結果論であることは、どの意見にも共通するところではあります。
記事には触れませんでしたけれど、米内の盛岡中学時代の同級に陸軍の板垣征四郎(元陸相)がいて、生涯を通じ仲がよかったようですが、その板垣征四郎も下落合に住んでいたという証言があります。米内の“隠れ家”が、仮りに箱根土地の堤康次郎の手配でも、また終戦工作の学者グループの手配でもないとすれば、次に可能性が高くなりそうなのは、下落合の板垣・・・というような想定も出てきそうですね。東条英機らの「統制派」に囲まれて、彼は戦時中、陸軍内でも“少数派”だったはずですから、ねじれた思いや旧友の感情が交錯しつつ、下落合で何があってもおかしくない状況だったように思います。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa