1932年(昭和7)12月9日、日比谷公会堂では来日中のハンガリーのヴァイオリニスト、ヨゼフ・シゲティの「Gran Violin Concert」が開催された。バックのオーケストラは、近衛秀麿Click!の指揮による新交響楽団だった。地下潜伏中の小林多喜二Click!は、わざわざ危険をおかしてこのコンサートを聴きに出かけている。演奏曲目は、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」だった。
この演奏会は不人気でチケットがぜんぜん売れず、コンサート当日は3日間ともかなり不入りだったようだ。シゲティは客席がガラガラなのに怒り、東京朝日新聞のインタビューに答えて「日本人の耳は驢馬の耳」と悪態をついた話は有名だ。太宰治もこのコンサートに出かけたらしく、1935年(昭和10)に書かれた『ダス・ゲマイネ』の中で、「ヴァイオリンの名手が日本へやって来て、日比谷の公会堂で三度ほど演奏会をひらいたが、三度が三度ともたいへんな不人気だった」と記している。本来は、12月11日までの4夜連続のコンサートだったはずだが、あまりに不入りなため11日はキャンセルされたようだ。小林多喜二は、12月9日夜のチケット(最終日)を知り合いからプレゼントされている。さて、このチケットを誰が多喜二へ渡したのかがいまだに不明、わからないのだ。
多喜二がチケットの指定席に座ると、隣りの席には弟の小林三吾がいた。つまり、非合法活動で潜伏中の彼は、杉並の馬橋(現・阿佐谷南2丁目)にある自宅へ帰ることができず市内を点々としていたので、家族とは長い間会うことができないでいた。それを、このコンサートを通じて兄弟が再会できるよう、誰かがはからってやったものと思われる。それがいったい誰なのかが、いまだ謎とされているのだ。わたしは、このチケットが流れた経路の中継ポイントに、上屋敷(あがりやしき=現・西池袋)の自由学園Click!がからんでいるのではないかとニラんでいる。近衛秀麿はちょうどこの時期、ふたりの娘たちClick!を女子学習院ではなく、下落合から自由学園へと通わせていた。チケットが思うように売れない状況で、秀麿はそのうちのいくらかを自由学園へ持ちこみはしなかっただろうか?
そして、同時期に婦人之友社や自由学園へ、児童文学の仕事がらみで頻繁に出入りしていたのは、小林多喜二とはきわめて親しい村山知義Click!の連れ合い村山籌子Click!だ。村山籌子と多喜二の接点は、上落合の「三角アトリエ」Click!やナップClick!を通じて早くからはじまり、1931年(昭和6)5月の半ばに、多喜二へ蔵原惟人を引き合わせたのも籌子なら、1933年(昭和8)の初めごろ地下潜伏中の彼に、虐殺前の最後の住所となる渋谷の羽沢町(現・広尾3丁目)の隠れ家を世話したのも、ほかならない村山籌子だった。つまり、多喜二が特高Click!の目を逃れて地下に潜ってからも、籌子は彼との接触ルートをずっと途切れずに確保していたことになる。
村山籌子Click!は、いつ特高に嗅ぎつけられるかわからないこのか細いルートを通じて、自由学園(婦人之友社)から手に入れたチケットの1枚を多喜二へプレゼントし、もう1枚を馬橋に住んでいた弟の三吾へ、なんらかの方法でとどけたのではないだろうか。そして、なんとか兄弟ふたりを再会させることに成功した。でも、コンサート会場で兄弟ふたりはお互いに知らん顔をしていた。
コンサートが終わり、観客たちが出口へゾロゾロと向かうころ、多喜二はひとり言のように「仕事だ、仕事だ」と言いながら、そそくさと席を立っていったようだ。そして、日比谷公会堂の階段の雑踏へまぎれこむと、振り返って弟に手をふりながら暗闇の中をどこへともなく去っていった。三吾が生きてる兄を見たのは、これが最後だった。
シゲティ・コンサートから、わずか2ヶ月と少しあとの1933年(昭和8)2月20日、小林多喜二は赤坂の福吉町(現・赤坂2丁目)の路上において、警察のスパイ・三船留吉による手引きで今村恒夫とともに逮捕され、その日の午後7時45分に築地警察署の特高刑事により虐殺された。
■写真上:1932年(昭和7)の12月に日比谷公会堂で開かれた、シゲティ・コンサートのポスター。
■写真中上:左は、1931年(昭和6)ごろの小林多喜二。右は、大正末ごろと思われる近衛秀麿。
■写真中下:左は、杉並の馬橋にあった自宅で、若い子たちの多喜二人気から2008年3月15日に出版(日付が意図的)された『小林多喜二の東京』(学習の友社)より。右は、麻布十番の大黒坂にある大黒天。多喜二が一時暮らした坂道だが、小樽に似て坂の多い麻布は特に気に入ったようだ。
■写真下:左は、同じく麻布の称名寺に暮らしていたころ、よく散歩した麻布十番商店街に残る古い商店建築。右は、麻布山の大黒坂を上りきったところから抜ける暗闇坂。彼はこの坂道を散歩しながら、帝国主義戦争へと突き進む日本はお先真っ暗だと考えていただろう。
この記事へのコメント
sig
それにしても多喜二が危険を承知でコンサートに出向いたのは、シゲティのヴァイオリン協奏曲よりも、弟に会うことがいちばんの目標だったのでしょうね。
そのチケットのシートは隣り合っていたのでしょうか。そうだとしても二人は知らぬ顔の半兵衛を決め込まなくてはいけなかったでしょうが、このシートが連番であれば、村山壽子の手配であることはかなり明白と言えるでしょうね。
いやいや、それでは危険すぎるから、別のシートを手配したということも考えられますね。やはりこれは謎ですね。(W)
ChinchikoPapa
指定席は、学習の友社の『小林多喜二の東京』の記述によれば、隣り合わせの連番だったようですね。いくら多喜二が地下へ潜行中といっても、弟に特高の尾行がついているかもしれず、コンサートを聴きにいくことは相当な冒険であり、危険な賭けだっように思います。それとも、弟がうまく尾行をまけたらコンサート会場へ向かう・・・というような手はずに、あらかじめなっていたものでしょうか?
いまとなっては、このコンサート会場における兄弟邂逅の詳細は、そもそもチケットをプレゼントしたのは誰だったのか?・・・というナゾとともに、闇の底に深く沈潜してわからないですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をいくつもありがとうございました。>甘党大王さん
mustitem
ナカムラ
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしも、当時の多喜二をめぐる周囲の環境や、判明している事実とつき合せていくと、どうしても彼女のはからいとしか考えられないんですね。村山知義は豊多摩刑務所に入っていたし、多喜二との接点が濃密で比較的フレキシブルに行動できる人物を想定すると、必然的に村山籌子が浮かんできます。
ChinchikoPapa
Prof. Shima
多喜二は1930~31年に豊多摩刑務所に収監されていたとき、彼女に宛てて手紙を数多く書いていて、その一通の中から、小樽にある多喜二文学碑の碑文が取られてもいます。もっとも村山籌子にだけ、マメに手紙を書いていたというわけではなく、中野重治の妹で詩人の中野鈴子や、壷井繁治の妻の栄など、女性の友人にも(むろん男性の友人にも)長い手紙を何通も出しています。
シゲティのコンサートの思い出は、記録映画「時代を撃て 多喜二」の中に三吾さんが回想を語っているところが収録されています。機会があればご覧いただければと思います。
「蟹工船」ブームで多喜二にも注目が集まっていますが、彼の豊かな人間性の面がもっと知られるといいと思います。今後ともよろしくおつきあいお願いします。
ChinchikoPapa
また、貴重な情報をわざわざありがとうございます。記録映画『時代を撃て 小林多喜二』の小林三吾氏の証言、機会があればぜひ見てみたいと思います。
村山籌子の足跡を追っていますと、太平洋戦争が始まるころまで婦人之友社=自由学園との濃い関わりがつづいているようです。一方、近衛秀麿も娘を通じて羽仁夫妻とかなり親しかったらしく、両者を調べていきますと不人気で売れなかった“シゲティ・チケット”の交差点に、自由学園の羽仁夫妻が介在しているのではないか?・・・とどうしても思えてきてしまいました。
他にも、自由学園からチケットを入手してこのコンサートへ出かけた人がいれば、傍証としてより可能性が高まりますね。^^
こちらこそ、いろいろとご教示いただければ幸いです。これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa