近衛文麿Click!は若いころ、欧米の合理的な文化や生活を盛んに称揚Click!していたけれど、子供たちが大きくなってからも、その考え方は基本的に変わらなかったようだ。特に、日本の因襲や慣習に縛られた生活にガマンがならず、機会があれば子供たちを積極的に海外へと出している。これは、実弟で音楽家の近衛秀麿Click!も、兄と同じような考え方をしていたようだ。秀麿はふたりの娘を、女子学習院ではなく自由学園に通わせているをみても、その教育方針がうかがい知れる。
そんな近衛家をとらえた、めずらしい家族写真の何枚かが残っている。海外渡航などのウワサを聞きつけた、雑誌社やニュース映画社の記者・カメラマンが取材に訪れ、家族の写真を撮って記事やニュース映像にしていたようだ。下落合の近衛邸で撮影されたと思われるそれらの写真が、ある方を通じて少しずつ手元に集まってきたのでご紹介したい。ここに写る邸は、時期的にみて近衛新邸のほう、つまり目白中学校Click!(東京同文書院Click!)の南側に位置して建てられていた、近衛文麿邸と隣接する秀磨邸で撮影されたものと思われる。
そのうちの1枚は、渡米直前の近衛文麿の長女・近衛昭子をとらえたものだ。写真の右には、叔父にあたる近隣の秀麿も顔を見せており、文麿が米国へ滞在中なので、父親に代わって海外渡航における諸注意を与えているらしい。芹沢光治良Click!も著作に書いているけれど、当時の海外渡航は船便しかなく、ことに女性だけの旅行はかなりの危険がともなったようだ。出港後、1週間ほどが経過すると、乗客の男たちの女性(芹沢は若い妻といっしょに渡欧している)を見る目がギラギラしてきたと、彼は渡仏記に書いている。1934年(昭和9)に発行された『婦人之友』7月号から、近衛邸の様子を引用してみよう。このとき、近衛昭子は父親と兄・文隆Click!を頼っての渡米だった。
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(前略)そこで相談役の叔父が来て下さいました。今度の旅は発案も、父を説得して下さつたのも叔父でしたから。/「現下の日本が国際的に如何に難かしい立場にあるか。日本人の偉さは何処にあるか。又日本人が全東洋人の上に指導的な位置に立つ為に改めねばならぬ欠点は何と何か、事情が許すなら、たとへ短時日でも、一度海の彼方より祖国を振り返つて見ることが、一番生きた学問だ」/といふのが叔父達の持論なのです。日本の船も夏の航路は大変お客が少ないといふ事です。それに私共は皆まだ学生ですから、トウリストキャビンに起居して行かうといふ計画です。私共が如何にも豪勢な避暑旅行でもするやうに世間に伝へられてゐたとしたら、大変心外に思ひます。
(同誌「旅を前にして」より)
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近衛秀麿の「日本人が全東洋人の上に指導的な位置に立つ」という傲慢なもの言いは、「満州国」が成立し日本が国際連盟から脱退した直後の、いかにも時勢を反映した言質だ。彼は、こののち兄・文麿とときどき衝突することが多くなり、1936年(昭和11)ごろから1945年(昭和20)秋までの9年間、ふたりは仲たがいをして事実上の絶交状態となる。次に兄弟が再会し、“仲直り”が実現するのは、文麿が荻外荘Click!で自裁するほんの少し前のことだった。
その近衛秀磨邸ですごす、娘たちの写真も残されている。ふたりの女の子が楽器を演奏したり、芝庭でペットと遊んでいる様子がとらえられている。秀麿邸のペットが、イヌとサルというのが妙におかしい。はたして、キジは飼われていなかったのだろうか? 1935年(昭和10)に発行された、『婦人之友』11月号から引用してみよう。
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犬はジョン、猿は一ちやんと言ひます。/二匹はとても仲よしですが、でも喧嘩もします。猿がまだお家に来たての頃、犬とよく昼寝をしてゐました。その時一ちやんの方が早く目をさまして、一人では淋しかつたのでせう、ジョンの目を上下にあけて中をのぞいてゐるのを見た時にはとても可愛く思ひました。 (同誌「犬と猿」より)
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これら、近衛新邸に隣接していた目白中学校Click!(東京同文書院)をテーマに、今年も愛知大学によるシンポジウムや展示会が開かれる。今回は、目白中学校の貴重な資料類を、わたしのサイトへ掲載することを快諾くださった元・中央大学附属高等学校教師の保坂治朗様Click!が講師をつとめ、「目白にあった東京同文書院」というテーマで講演される予定だ。愛知大学の成瀬さよ子様Click!よりお知らせをいただいたので、さっそくこちらでもご紹介したい。
パンフレットの写真は、校門と校舎の位置関係から、下落合より練馬へ移転したあとの目白中学校を写したものだろう。講演スケジュールは10月18日(土)の午後2時から、愛知大学の豊橋校舎5号館で行なわれる予定だ。また、通常の「東亜同文書院大学」資料展示会も、今年は11月23日(日)から25日(火)まで、福岡市のアクロス福岡円形ホールで開催されることになっている。
■写真上:近衛文麿の新邸応接室における近衛秀麿(右)、近衛昭子(中)、近衛温子(左)。
■写真中:上左は、1934年(昭和9)に撮影された近衛秀麿邸における近衛百合子(ピアノ)と近衛磨理子(ヴァイオリン)。上右は、同邸の庭における百合子(+ジョン)と磨理子(+一ちゃん)。下左は、東亜同文会の初代会長・近衛篤麿(左)と、上海の東亜同文書院院長・大内暢三(右)。下右は、近衛新邸の玄関先に立つ近衛文麿と家族たちで、昭和初期に撮影されたニュース映画より。
■写真下:上は、愛知大学で10月18日に開催される予定の、保坂治朗氏による講演会「目白にあった東京同文書院」のパンフレット。下左は、1918年(大正7)の「早稲田・新井1/10,000地形図」にみる近衛篤麿邸(近衛旧邸)。下右は、都市計画東京地方委員会によって作成された1922年(大正11)の地形図にみる、東京土地住宅による近衛町Click!造成後の近衛文麿邸(近衛新邸)。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>sigさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
ChinchikoPapa
iruka
ChinchikoPapa
近衛昭子さんについては、戦後に婚家から離れ自由に生きはじめた後日談を記事にしていますが、近衛温子さんは細川家に嫁いだあと、確か22歳で急逝したように記憶しています。
結婚してから、あっという間に亡くなったようですね。
古田 宙
落四在学中に音楽鑑賞教室があって、区内の某小学校の講堂で、「近衛管弦楽団」の演奏を聴く機会がありました。あの頃は落四には電蓄すらなくて、生のオケは新鮮で耳を奪われるよう。演奏曲は多分「軽騎兵序曲」とか「舞踏へのお誘い」といったポピュラーな小品だったと。
あのような音楽体験からその後にクラシック音楽に目覚めたのだ、と確信してます。進学して男声合唱サークルに入ったり、コンサートに通ったりと。
そういう趣味は現在に至るまで続いてまして、今でもOB会に参加して歌っているし、都響などのオーオーケストラ会員になってます。
そういう意味で人生の「恩人」のひとりです。
ChinchikoPapa
近衛オーケストラを生で聴かれるとは、たいへん貴重な体験をされましたね。わたしの世代は、残された貴重な録音からでしか、その演奏の様子をうかがい知ることができません。しかも、マザーテープが戦災でずいぶん失われているのか、たまにリリースされるアルバムはほとんどが戦後録音です。
その演奏を聞きますと、きわめてスタンダードかつオーソドックスな表現で、妙なてらいやクセのない落ち着いた演奏です。わたしの手元にある近衛アルバムは、レコード会社がまず採算を考えて売れ筋を意識した企画モノなのか、ベートーヴェンやシューベルトが中心ですが、もっといろいろな時代の曲を聴いてみたいですね。一度でいいから、斎藤秀雄がチェリストで参加していた戦前の新響を、実際に生で聴いてみたかったです。
ちょうど、いま記事にしている三岸好太郎が、近衛秀麿指揮する新響の演奏を聴いて、キャンパスへスクラッチ技法で『オーケストラ』や『新交響楽団』などの作品に仕上げていますが、それほど彼にとっては感動的な演奏会だったのでしょう。近衛秀麿をはじめ、楽団員を写した膨大なスケッチや素描が北海道立三岸好太郎美術館(札幌)に残されていますが、演奏が聴こえてきそうなほど躍動的でリアルです。
近衛オーケストラを直接聴かれた古田さんが、うらやましい限りです。
Anon
>近衛秀麿の「日本人が全東洋人の上に指導的な位置に立つ」という傲慢なもの言いは、「満州国」が成立し日本が国際連盟から脱退した直後の、いかにも時勢を反映した言質だ。彼は、こののち兄・文麿とときどき衝突することが多くなり、1936年(昭和11)ごろから1945年(昭和20)秋までの9年間、ふたりは仲たがいをして事実上の絶交状態となる。次に兄弟が再会し、“仲直り”が実現するのは、文麿が荻外荘Click!で自裁するほんの少し前のことだった。
これだと文麿と秀麿は思想・考え方が全く同じように見受けられますが、なぜ互いが仲たがいし、絶交するまでの関係にまで至ってしまったのか?という事がよくわからないのですが、ご存知でしたら詳しくご教授のほど是非とも宜しくお願い致します。
ChinchikoPapa
わたしが参照した資料類では、かんじんの仲たがいの原因について詳述したものは記憶にありません。それが思想的な側面のちがいに起因するものか、あるいは人間関係に原因があるのか、「家族問題」のことですのではっきりと規定することができないため、筆者たちは仲たがいの事実だけ記述して、その要因は明確化せずにボカしたものでしょうか。
Yoko
ChinchikoPapa
近衛文麿が特定の個人を痛烈に批判した文章は、いまだ読んだことがないですけれど、下落合時代には日本の社会、慣習、生活、文化などあらゆる面で批判を繰り返していた様子が伝わっています。
つれづれ、新聞記事になったり雑誌へ原稿を書いたりすると、近衛邸の門前に壮士まがいの右翼がやってきて脅していったようで、政財界人がテロの標的になっていた当時(特に大磯における安田善次郎の刺殺は衝撃を与えたと思われます)、非常にリアルな危機意識を抱きつつ、その後の思想形成(といいますか日和見主義的な姿勢)へ大きな影響を与えていると想定できますね。
文麿と秀麿の長期間にわたる“仲たがい”は、その音信不通の異常な状況からみて、兄が「優遇」してくれないために弟がヘソを曲げた……というようなレベルではなく、相互が「疎外」意識を産むほどの、より深刻なテーマではなかったかと思います。
ChinchikoPapa
>takagakiさん
>kurakichiさん
YOKO
たしかに近衛文麿さんのお母さんは産後すぐに亡くなったそうですし、弟さんに継がせたいという気持ちが母親にもあり、ショックを受けたり、いろいろ複雑なものがあったんでしょうね。
ただ戦時下では兄弟ほとんど連絡とれなかったようです。バイオリニストの諏訪根自子さんが秀麿さんと大島浩さんの間にはさまれ、大変な思いをしたことが根自子さん関連の本には書かれていました。
ChinchikoPapa
おっしゃるとおり、戦時中は物理的に通信ができなかったでしょうから、おそらく通常の環境でしたらもっと早く連絡を取り合っていたかもしれませんね。
そういえば、わたしは落合地域とその周辺域に住んでいた音楽家を、あまり取り上げてきていませんでした。近衛邸に関して記述しました近衛秀麿と、「赤い鳥」に関連する音楽家や詩人については、ほんの少し書いた憶えがあります。気がつけば、諏訪根自子も旧・目白町3丁目の川村学園裏に住んでいましたね。
どうしても、当時の風景や風情がうかがえる美術や文学関連に偏りがちですが、たまには音楽関連も取り上げてみたいと思います。w
YOKO
ChinchikoPapa
>下北沢
下落合ですね。^^;
目白駅のすぐ近くですが、諏訪根自子宅は下落合ではなく、先に目白町3丁目と書きましたが3丁目と2丁目の境界近くです。昭和初期の住所でいうと高田町大原1645番地あたりでしょうか。
『華麗なる昭和』は、まだ読んだことがないですね。
YOKO
おとといたまたま四国で戦争展を見学したのですが、東京大空襲の写真もあり、国会議事堂のまわりはガレキの山でした。
ChinchikoPapa
これからは、散歩にもってこいの季節ですね。ぜひ、この近くへおいでの機会がありましたら、周辺をゆっくり散策されてみてください。近衛邸の玄関先、クルマ回しはそのまま道の真ん中に残っていますし、あと少しで相馬邸跡の「おとめ山公園」も拡大オープン予定です。アトリエめぐりも楽しいですね。
霞が関は、不燃の議事堂だけがポツンと残る異様な光景ですね。日本橋も、コンクリートのビルだけがポツポツと残る焼け野原でしたが、コンクリート建築の内部は丸焼けのケースがほとんどでした。親父が出た小学校も、外観はダメージがないように見えますが、内部は全焼だったようです。
YOKO
ChinchikoPapa
現在の下落合は、1965年よりずいぶん面積が小さくなってしまってますが、本来はいまの中落合・中井エリアも含まるのが「下落合」地域でした。その中には、いろいろな物語(特に芸術のテーマが多いです)が眠っていますので、ぜひ興味がおありなポイントを散策されてみてください。
人数がある程度そろって予約されれば、下落合の「学習院昭和寮」(現・日立目白クラブ)でランチをたべることもできます。w
梁骨体
ChinchikoPapa
さて、以下は染骨体さんの失礼な文体表現に合わさせていただきます。
仲たがいの件だが、『近衛秀麿―日本のオーケストラをつくった男』(講談社/2006年)など、書籍や資料にもたびたび書かれているので、著者に当たってみたらどうだ。“仲直り”の件も、どこかに出てたかもしれないね。オレになんぞ依存しないで、自分で主体的に調べたら?
下落合の近衛新邸(別邸)は、1945年5月25日夜半まで建っていた。上記の写真と記事は1934年(昭和9)現在の出来事であり、学習院の学生オーケストラを学内行事のたびに指揮し、ときに学習院昭和寮へも訪れていたころのことだ。戦後のことを書いているのではない。