「落合の緑と自然を守る会」の堀尾慶治様は、戦時中、何度となく米軍による空襲に遭遇されている。最初の空襲は1942年(昭和17)4月18日、16機のB25によるドーリットル隊の本土初空襲だった。目白の千登世橋の先で、ドーリットル隊の空襲に出遭った詩人・高田敏子Click!は、娘が心配で落合第一小学校まで駆けもどったエピソードを、以前にこちらでもご紹介している。
14歳の堀尾様は、B25が爆音を響かせて東京上空を横切ったとき、早稲田鶴巻町にいた。同町にあった岡崎病院へ、ジフテリアで入院されていたのだ。ちょうど高田敏子がB25の爆音を聞いたのとほぼ同時に、堀尾様も双発爆撃機の音を聞いていたことになる。東京に侵入した8機のB25は、なぜか早稲田鶴巻町にも爆弾(新聞報道では焼夷弾)を投下している。早稲田大学の建物が、軍の施設か工場に見えたのだろうか? 爆撃による火災が迫ったため、岡崎病院から避難した堀尾様は、近くの下宿屋に身をひそめたのだけれど、その場にいた人たちは病名がジフテリアだと聞くと、あわてて「避難」したようだ。あとで、下宿屋は消毒騒ぎになったらしい。
はるばる千葉県の房総沖にまでやってきた、米空母「ホーネット」から発艦した16機の中型爆撃機B25は、東京市を手はじめに川崎市、横須賀市、名古屋市、四日市市、神戸市と、日本列島を横断爆撃して大陸へ去った。明らかに、真珠湾攻撃に対する報復として位置づけられた日本本土への空襲だけれど、日本海軍の機動部隊が無キズで残っているこの時期、日本本土への爆撃はほとんど自殺行為に等しく、米機のパイロットたちは生きて帰れるとは思ってなかったかもしれない。
でも、ドーリットル隊は日本の本土上空を飛行しているのに、反撃らしい反撃を受けていない。また、地上でも避難することなく、B25の機影を見上げていた人たちが大勢いた。真珠湾で米国の太平洋艦隊は「壊滅」したと信じこまされていた国民は、同艦隊の空母部隊が無キズで残っていることを知らず、東京上空を米軍機が飛んでいることがにわかに信じられなかったのだろう。のちの大型爆撃機B29による大規模な空襲Click!に比べれば、散発的に少量の爆弾を投下していった初空襲の被害は、相対的に「軽微」なものだった。(それでも全国で50名もの方が亡くなっている) このとき、わずか3年後に日本の空が米軍機で覆われ、街々が焼土と化すなど、まだ誰も想像だにしえなかっただろう。ドーリットル隊による「東京初空襲」は、日本の機動部隊が壊滅的なダメージを受けることになる、2ヵ月後のミッドウェイ海戦にいたる直接的な引き金となった。
翌1943年(昭和18)の秋になると、当時の中学生たちは学徒勤労動員で授業がすべて中止となり、各地の軍需工場へ勤労奉仕としてかりだされることになった。堀尾様は、三鷹にある中島飛行機武蔵製作所へと動員され、軍用機の部品加工ラインへと配属された。下落合から西武電鉄に乗り、毎日三鷹の工場まで通われている。中島飛行機の工場には、のべ5万人の勤労学徒が集められた。戦争末期になると中島飛行機は国に接収されて、第一軍需工廠という名称へと変わっている。製造現場には、米国製とドイツ製、それに日本製の加工機が設置されていたが、日本製はすぐに精密加工ができなくなり使いものにならなくなったらしい。軍用機の部品は、米国製とドイツ製の加工機で生産されつづけた。機械設備の歴然とした技術の差、完成度や耐久性の違いに、堀尾様は日本が置かれた状況を実感されたようだ。
堀尾様が動員されていたのは、陸軍機を生産していた西側のノコギリ歯型をした工場建屋だった。東側には、鉄筋コンクリート4階建ての海軍機生産工場があった。このとき、海軍機工場には小説家・都筑道夫が、やはり部品加工のラインに動員されていた。1944年(昭和19)の初め、工場の視察に海軍将校が訪れ、広場に集められた中学生たちを前に話しはじめた。2000年(平成12)に出版された、都筑道夫の『推理作家の出来るまで(上)』(フリースタイル)から引用してみよう。
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最初のうちは、戦局がどうなっているか、という説明だったが、とちゅうから将来の分析になった。(中略) 私には将来の分析は、むずかしくてわからなかった。しかし、とつぜん将校がいいだした言葉は、ショッキングだった。
「ここまで来れば、お前たちにもわかるだろう。このまま、戦争がすすめば、日本は敗ける」
私たちはどよめいた。将校はさらに、ヨーロッパの戦争史について、のべはじめた。そして、またくりかえした。
「これらの過去の戦争を検討しても、わかるだろう。このまま戦争がすすめば、確実に日本は敗ける。それをなんとかするためには、お前たちに覚悟をしてもらわなければいけないんだ」
結論がどのようなものだったか、おぼえていない。将校の話がおわっても、私たち一年生は拍手をしなかった。休み時間には、その将校の悪口をいった。
戦争がおわったときに、私たちのうちの何人が、この将校の話をおぼえていたか、わからない。(中略) 「確実に日本は敗ける」といった通りに、なってしまったと。
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堀尾様が、米国製やドイツ製の加工機と日本製のそれとの性能差に愕然とされたように、この海軍将校も、米国と日本の大きな格差をクールに捉えていたのだろう。わけのわからない精神論や、愚劣な感情論が幅をきかすようになり、ものごとを論理的に筋道を立てて思考し事実を語ることが「非国民」とののしられるようになったとき、日本は破滅への道をまっしぐらに転落しはじめた。以前、戦艦「大和」Click!について取り上げたときにも書いたけれど、戦時中、軍隊の中にさえこの海軍将校のような人物がいまだ存在していたことにこそ、かろうじてささやかな救いがあると思うのだ。
1944年(昭和19)11月24日を皮切りに、中島飛行機武蔵製作所は10数回にわたり、B29や戦闘爆撃機による激しい空襲を受けた。工場へ投下されたのは、焼夷弾ではなく1トン爆弾や250キロ爆弾が主体で、のべ約500発の爆弾が敷地内に命中している。1945年(昭和20)8月15日まで、同工場は繰り返し爆撃と機銃掃射の反復攻撃を受け、死傷者の数は千名近くにものぼった。
■写真上:B29から焼夷弾とともに、市街地へ頻繁に投下された250キロ爆弾。
■写真中上:左は、空母「ホーネット」の飛行甲板に並べられたドーリットル隊16機のB25。機体が大きすぎて格納甲板へは収納できず、むき出しのまま日本近海へと運ばれた。右は、ドーリットル隊の初空襲を受け、高田敏子が落一小学校へと駆けもどるときに通った千登世橋を下から。
■写真中下:左は、1945年(昭和20)4月7日にB29の爆撃を受ける中島飛行機武蔵製作所。右は、空襲直後の同工場を撮影したもので大規模な火災が起きている。
■写真下:1947年(昭和22)に、爆撃効果測定用としてB29から撮影された同工場の空中写真。1トン爆弾の炸裂によるクレーターが、工場敷地内のあちこちに見える。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
sig
太平洋戦争については、語り尽くしたということはあり得ませんね。
戦争を知らないChinchikoPapaさんの世代が、こうして戦争の細部にわたるところまで調べ、聞き、書き留め、語り継いで下さることに敬意を表します。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
きょうも、戦前から下落合にお住まいの方に、いろいろとお話をうかがってきました。もう、さまざまな物語がそこかしこに眠っていて、戦時中のお話だけでも書き切れるボリュームではありませんね。目白界隈ではありませんが、海軍の施設が多かった目黒界隈でお話をうかがったときにも、戦時中のことになりますと女性でも男性でも、つい昨日のことのように話し出される方が多く、やはり強烈な印象(ツメ跡)を残しているのがわかります。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
アヨアン・イゴカー
このような冷静な判断をしている人々は若干いたようです。母も短大の授業で「日本は負けるだろう」と言う発言をした教授(商業?経済学)の話を聞いたことがあるそうです。また、商社の中にも同様の考えを持つ人がいたようです。ある程度正しい情報を入手できる人々は、冷静に判断できたのだと思います。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
キュータロウ
こちらのサイトにたどり着きました。
空襲で燃える中島飛行機武蔵野製作所の資料は、どちらで入手されたのでしょうか?
実は、わたしの曽祖父が当時中島飛行機に務めており、
その頃のことを調べています。
当時のことがわかる人がもういなくて・・・。
差し支えなければ、ご連絡をとらせていただきたいのですが・・・。
不躾なお願いをしてしまって申し訳ありません。
ご検討、おねがいいたします。
ChinchikoPapa
掲載しました爆撃を受ける工場と、炎上する工場の写真は、当時図書館から借りた資料の中、あるいはコピーを取らせていただいた資料のいずれかにあったものと思います。いつも資料に埋もれて当ブログを制作していますので、ハッキリとしたお答えができずにすみません。
うろ憶えですが、武蔵野市が市内への空襲の記録をまとめた冊子資料を出していたと思うのですが、そちらから転載させていただいたような記憶があります。ただし、新聞社が出しています「写真でみる昭和史」のようなコンセプトの資料も、しょっちゅう参照していますので、ひょっとするとそちらに掲載されていた写真なのかもしれません。曖昧なお返事で恐縮です。
1947年のB29による空中写真は、筑波にあります日本地図センターのDBデータから購入したものです。
キュータロウ
武蔵野市にお問い合わせしたところ、
資料を収集されている市民団体の方をご紹介いただきました。
ありがとうございました。
ChinchikoPapa
確か武蔵野市への空襲に関する、写真展のようなものも過去に開催されていると思いますので、資料の中には写真集もあるのかもしれません。
中島飛行機工場があったせいで、1944年(昭和19)の11月から同地域は空襲にさらされていますので、工場関係の写真類も集められているのではないかと思います。あと、東京地域を中心に空襲を記録している団体(3/10東京大空襲が中心ですが)などでも、同工場の空襲に関する資料を見た憶えがあります。こちらは、国会図書館あるいは都中央図書館などで「空襲」をキーワードに探されると、ひっかかる可能性がありますね。
根本丸
大変参考になりました。
有難うございました
ChinchikoPapa
拙記事が、なにかのお役に立てれば幸いです。