写真④にとらえられた相馬邸の南斜面を見ると、現状の財務省官舎の敷地がどの程度盛り土がなされ、造成しなおされているかが改めてよくわかる。丘上に相馬邸Click!の「居間」(南母屋)が樹間に見え、比較的なだらかな斜面のまま、谷戸の底に横たわる池まで一気に下っている。画面左手には、現在の湧水源近くにある池の一部とみられる水面が黒く写っている。この池を上流へとたどると、ほどなく谷戸の壁のような西側の絶壁が立ちはだかり、その下からこんこんと清水が湧いているのは現在とまったく同じだ。
渓流や池の周囲には樹木がやや濃いめに繁り、さすがに大きく手が加えられている様子は見えない。ただし、池自体は相馬家が造作したもののようで、池の淵には並べたような大きな石がいくつか認められる。池の左手(南側)を、谷戸の湧水源までたどれる林間の小径も、現在とまったく同様に造られていたようだ。ただし、いまのように石畳が敷かれていたわけではなく、土のままのまるでハイキングコースのような風情の小径が、相馬坂のすぐ下に位置する泉の位置まで通っていた。また、相馬邸の南に広い芝庭が開けているので、現在とは大きく異なり明るく見通しのきく御留山の風景が、とてもめずらしく印象的だ。
写真⑤は、谷戸の底を流れる清廉な渓流をとらえたものだ。冬場で雨の少ない渇水期のせいか、水量はあまり多くはなく、現在の流れの様子とほとんど変わらない。これが梅雨どきを迎えたりすると、おそらく谷底が水びたしになり、池が形成されるほど水量が急激に増えていたのかもしれない。この風景の撮影ポイントは、現在の「おとめ山公園」と重ね合わせても、およそどこだか想定することができる。小流れは西の泉から湧き東へと下っているので、この風景は少し下流から上流の湧水源方面を向いて、シャッターを切ったものだろう。
御留山の谷戸を流れる渓流は、途中で大きく屈曲する「へ」の字型をしている。写真にとらえられた小流れも、写真⑥とともに合わせて観察すると、まったく同様に「へ」の字型に屈曲しているのがわかる。渓流に沿った小径の様子も、現在とあまり変わらない風情だけれど、樹木が若いせいかうっそうとした薄暗い雰囲気はなく、谷底にもかかわらず空が広く開けていたのがわかる。前方には渓流に架かる小橋と、相馬邸とは反対側にある南側の丘へと登る階段か見えており、これも現状の公園内の様子とほぼ一致している。
写真⑥の風景は、⑤の位置よりもさらに小橋と階段の位置へ寄ったあたりだ。ちょうど、渓流が大きく「へ」の字に屈曲するポイントを撮影している。左手の階段は、「おとめ山公園」ではコンクリート造りとなり、現在でも同じ位置で南側の丘上に向けて通っている。右手の小橋は取り払われ、いまは位置をやや下流に変えて、少し大きめでがっしりしたコンクリート橋に架けかえられている。そこには、橋をはさんで細長いひょうたん型をした池Click!があるけれど、池が形成されたのは相馬邸が売却されたあと谷底に水が溜まり自然にか、あるいは公園化計画にもとづく意識的な造作によるものだったのだろう。たまたま1月の、冬枯れの風景が撮影されているので、地形の様子やあたりの風情から、撮影ポイントをなんとか想定することができるけれど、これが夏の撮影であれば、樹木が繁ってここまで周囲が見わたせず、どこを写したものか特定が困難だったかもしれない。
写真⑦は、⑥の左手に見えている階段を谷戸の南側にある丘へと登り、そのピークに立ち北を向いて撮影したものだ。遠景には、相馬邸の母屋「居間」と芝庭の一部が見えている。木々の下には一面に熊笹が生え、いまでもこの風情は公園内でかろうじて見ることができる。ただし、樹木が大きく育ちすぎて日光をさえぎっているため、当時ほど豊かな下草は見られない。
この写真からも明らかなように、御留山が相馬邸の庭園だった時代、丘上からはかなり見通しのきく眺めだったことがわかる。撮影者の背後に迫る、目白崖線(バッケ)の崖淵からは、眼下に神田川から大久保・新宿方面にかけての風景が、そしてやや視線を左(東側)に移せば、大隈講堂の尖がった時計塔Click!から広大な戸山ヶ原Click!にかけてが、一面に見わたせたことだろう。最近、この丘上にスズメバチが巣を作ったため、一部のエリアに事件現場のような立入禁止の黄色いテープが張りめぐらされている。
再び貴重な写真の数々をお送りくださり、ありがとうございました。>相馬様
■写真上:丘上に見える相馬邸「居間」前の芝庭から、谷戸へと下りてくる小径のひとつ。
■写真中上:上は、ともにおとめ山公園内の現状だが、相馬邸の南斜面が官舎建設のために大きく造成しなおされているため、写真④の小径は消滅していると思われる。下は、竹田助雄が47年後の1962年(昭和37)6月に撮影した、すでに“秘境”化の進んだ御留山の谷戸風景。
■写真中下:上と中は、谷戸の渓流と小橋、そして流れが「へ」の字に屈曲する位置にある階段の様子。下は、写真⑤⑥が撮影されたとみられる渓流の「へ」の字屈曲部あたりの現状。
■写真下:上は、南の丘上から眺めた相馬邸の様子。下は、現在の同所。樹木が大きく成長し、周囲の展望がほとんどきかなくなっているが、早稲田・新宿方面はいまでも眺望がきく。
この記事へのコメント
sig
御留山に関する上下2本の記事を見せていただいて、本筋とは少し外れますが、写真の記録性というものを強く感じました。これがたまたま相馬邸の広大な庭園であったために、年月が経ってもこうして昔との対比ができる訳で、これまでにも見せていただいたようによほど特徴のある街区であってもなかなか古い写真は残っておらず、街の変遷を辿ろうとするこのブログのご苦労が察せられます。
カメラが普及した現代ですから、これからは市井人によるスナップが沢山残されていくのでしょうが、、、。
現在の御留山を知っている訳ではありませんが、この古い写真を見ると自然の野趣が残るいい景観ですね。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
おっしゃるとおり、つくづくそれを感じますね。地元の風景写真が意外に撮られていないことに、このサイトを通じて改めて気がついたりします。昔はフィルムが貴重でしたので、ことさら家族・知人の写真や旅先の観光地の風景は撮影しても、近所の風景は案外被写体にされていません。また、撮影されていたとしても多くの方々が戦災に遭っていますので、それらのほとんどが焼けてしまったのは、わが家のケースとまったく同様です。
むしろ写真よりも、このあたりの風景を描いた画家の作品のほうが多いのではないか・・・とさえ感じてしまいますね。そういう意味では、大正から昭和にかけての画家たちの作品は、一面で貴重な記録性を備えていますので、非常に惹きつけられるのです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
昔の記事に、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
地下室マンション反対
ChinchikoPapa
ここは10年ほど前まで、ひな壇状の古いマンション(おそらく60年代の建築家と)が建っていた場所ですね。典型的なバッケ地勢ですので、再びひな壇状のマンションが計画されているものでしょうか。ちょっと、注意してみます。情報をありがとうございました。