化粧室を夢みる彼女たち。

仲田菊代化粧室.jpg メイボー二重目蓋.jpg
 大正期から昭和初期の女性雑誌には、化粧品の広告が圧倒的に多い。イラストやフォトを多用した広告が爆発的に増え、今日における媒体広告のデザインやコピー、媒体計画、そして女性誌ごとターゲットの細かなセグメント化による、マーケティングの基礎を築いた時期でもあった。日本の広告表現の本格的なスタートは、林立する女性誌に掲載された、膨大な数にのぼる化粧品媒体広告の競合からといっても過言ではないかもしれない。
 もうひとつ、これら広告の特徴は、日本語の表現様式の変化として、文章を横書きにするとき戦後は左から右へ(この文章のように)があたりまえだけれど、戦前は右から左へ表記するのが一般的だった。でも、女性向けの広告では、現在と同様に左から右へと横書きされた表記もめずらしくない。そのほうが目の動かし方、読み取りの順序としては自然であり判読しやすかったからだろう。戦前の化粧品広告は、グラフィック表現やコピー表現まで含め、今日の感覚を早くも先どりしている。
 当時の「教養人」、特に男は、日本語を左から右へ横書きするなんて・・・と思っていたのかもしれないけれど、日本語表現の変化(進化)や牽引は、かな表記やしゃべり言葉の文章適用をはじめ、常に女性がリードしてきたことは言語学的にも重要なポイントのひとつだ。当時の女性たちは、これらの広告を見ながらより美しくなりたいと夢みたことだろうが、それは家づくりの面においても同様だった。大正期にはじまる、今日の住まいの基礎を築いた近代住宅だが、男が書斎を持つことを理想としたのに対し、女性は自分専用の化粧室を持つことを夢みていた。当時の女性誌には、もし化粧室をつくるなら?・・・という理想を想い描いた記事を見かける。
 1937年(昭和12)に発行された『スタイル』(スタイル社)11月号には、「私の欲しいお化粧間」と題して、当時の理想的な化粧室を想い想いに描いたイラスト記事が掲載されている。仲田菊代、阿部艶子、そして林芙美子たちが夢みる化粧室なのだが、それぞれ個性が出ていて面白い。
阿部艶子化粧室.jpg 林芙美子化粧室.jpg
  
 部屋は小さくて沢山(一間半に二間半位)壁は淡いグレー、真珠色の細いふちを持つた三面鏡は窓の下へ、黒に近い艶消しのラツクのテーブルを下に置き度い。相当の大きさのものすみれ色とグレーとの淡濃に配したテピヒを一杯に敷き度い、椅子は同じ調子の布張りのもの、左手の壁に一面に鏡を張り廻したい、その反対側にテーブルと同じ調子の洋ダンスと和ダンスを並べる、照明は天井から一個、壁に一箇所。出来たら隅に水の出る小さい場所をとり度いものと思ふ。化粧室の両隣はバスと寝部屋へ通じることを条件に入れたい。(中略)明いた壁には小さなローランサンの絵でも掛けたい。                                  (同誌の仲田菊代より/イラストとも)
  
 全面鏡張りの壁がちょっと奇抜だけれど、洋画家・仲田菊代らしい色彩重視の化粧室だ。
  
 こんななどと口で云ふやうに絵では描けません。左の扉はガラスで外はテラス。右の方に一寸見える扉は造りつけの洋服だんす。ダツチハウンドがちよろちよろ歩いたりしてゐるのです。
                                                               (同誌の阿部艶子より/イラストとも)
  
 作家・阿部艶子は、化粧する周囲で愛犬「ダツチハウンド」が「ちよろちよろ」しているのが理想だったらしい。外はすぐテラスになっていて、おそらく南向きの明るし部屋を想像していたのだろう。くだんの「ダツチハウンド」くん、前足を骨折していそうなのが、ちょっとかわいそうだ。
  
 絵が下手で思ふように描けませんが三畳ほどの部屋がとてもほしいと思ひます。窓は東向き、庭は広いほどいゝです。山に家でも建てるやうになつたら、こんなのを化粧部屋にしたいです。二方は押入れなり床の間なりよきやうに按配します、ごてごてしたものは好まず。
                                                               (同誌の林芙美子より/イラストとも)
  
 このとき、下落合の林芙美子は3畳どころではなく、「お化け屋敷」Click!の2階に屋根裏部屋を改造した東向きの広い部屋を、すでに化粧室として自分専用に使っていた。
ラ・ルーナ化粧品.jpg ルーブ白粉.jpg
 いまの女性たちは、自宅に化粧室を持ちたい・・・などと、はたして思うだろうか? 先日、早稲田SIMで女子学生と知り合ったが、1990年代の大型コンピュータ並み、“鬼”のようなスペックのマシンを使いこなしている。もちろんOSも、PCや通常のサーバに搭載されたような、“チャチ”なものではなく64ビット対応だ。たまたまLinuxの話になったので、「ディストリビューションのUbuntu(ウブンツ)をPCに入れて使ってるよ~」と話したら、「あ、どこかで聞いたことあります」などと言われてしまった。(爆!) このような女性は、自宅に化粧室などよりも、大きなマシンと数台のワークステーションを設置できるコンピュータルームが欲しいだろう。しかも、電源や空調設備、大規模なストレージ、UPS、Gbit-Etherを備えた、データセンター並みの専用ルームだ。
 現在でも、書斎を欲しいと思っている男が多いようだけれど、女性の部屋のニーズは限りなく多様化(専門的・趣味的にも)し、分化しているのではないか。うちではただひとり、正式な自分の部屋を持たないわたしは、サブノートを片手にリビングやキッチンや、カフェ「杏奴」や会社を、「ダツチハウンド」のように「ちよろちよろ」しているのだ。

■写真上は、仲田菊代が想い描いた化粧室。は、「二重マブタを作るメイボー」の広告。
■写真中は阿部艶子が夢みた明るい化粧室で、は林芙美子か理想の東向き化粧室。
■写真下は、右から左へ横書きの「世界的美爪料ラ・ルーナ」、は現代的な左から右へ横書きの「ルーブ白粉」広告。ともに、1937年(昭和12)の『スタイル』11月号に掲載。

この記事へのコメント

  • mustitem

    家族内の部屋分配のあり方とか,戦前と戦後とでは変わってきている部分もあるのでしょうね。
    2008年07月10日 03:43
  • sig

    こんにちは。
    横書き文字を左から書いたりする勝手な時代があったのですね。
    アドマンガ注目度を上げようとして仕掛けたのでしょうか。
    確かに女性が専用化粧室を持ちたいという願望は希薄になっているのでしょうね。最近は専用の寝室を持つとか聞きますけど。(笑)
    男性向けにはホームシアターが盛んにアピールされていますが、女性向けにはおっしゃるとおり、化粧室よりもっと創造的な空間が求められるのではないでしょうか。でも、ダッチハウンドは不変かも。
    2008年07月10日 10:18
  • かもめ

    「二重瞼形成美眼器」には思わず笑いました。昔からあったんですね。
    中学高校では、セロテープを切り張りしてヘアピンで押すというのが主流でしたが、かぶれてお岩さん状態の子もいました。
    薬指で紅をさすなんて艶っぽい姿は昔話としても、顔黒山姥メイクにたまげ、満員のバス内でフルメイクを始めたOLにあきれる私は、時代遅れのおばばなんでしょう。
    化粧室はいまや洗面台が兼用し、小道具が多いので隣には引出ワゴンが必需品です。
    2008年07月10日 10:29
  • ChinchikoPapa

    mustitemさん、コメントとnice!をありがとうございました。
    部屋そのものの概念も、おそらくかなり変わってきているのではないかと思います。もちろん、個々の部屋の役割りについても時代の移り変わりとともに、めまぐるしく変わっているのでしょうね。
    2008年07月10日 16:50
  • ChinchikoPapa

    残念ながら、萱葺の家には一度も住んだことがありませんが、しごく快適そうですね。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年07月10日 16:53
  • ChinchikoPapa

    絵画展はよく廻りますが、最近写真展にはご無沙汰しています。
    nice!をありがとうございました。>Qちゃんさん
    2008年07月10日 16:54
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントをありがとうございました。
    個室や専用の寝室と、家庭内でも核(家族)分裂は進んでいるようですね。(笑) そのうち、専用トイレとか専用バスなんて発想が出てくるのでしょうか。洗濯機や冷蔵庫が家族で別・・・なんて話は、めずらしくなくなりました。
    わたしは持たせてはもらえないでしょうが、ホームシアターいいですね。かろうじてリビングにオーディオセットを置いてますけれど、スピーカーが邪魔だの真空管が熱いだの、いろいろ文句をいわれつづけています。^^; 化粧室には、やはりイヌやネコがうろちょろしてたほうがサマになるのでしょうか。
    2008年07月10日 17:17
  • ChinchikoPapa

    かもめさん、コメントをありがとうございます。
    わたしも「二重瞼形成美眼器」には、ニヤニヤ見入ってしまいました。「若若しいフレッシュな二重マブタ」というのは、いったいどのようなマブタなのか、いろいろと想像をめぐらせていました。「麗人向」と書いてありますけれど、もともと「麗人」なら必要ないじゃん・・・などと思ってみたりして。^^;
    このコピーにも、「自宅で人知れず」と書いてありますが、いまの女の子だと電車の中で「二重瞼形成美眼器」を取り出して使いかねないですね。でも、セロハンテープとヘアピンで二重をつくるというのは、どうやるのかはちょっとわかりませんが、考えてみれば危ない「形成美眼」です。
    いま、鏡のある洗面台の前を化粧スペースとしている女性が、かなり多いんでしょうね。かごやワゴン、鏡の裏やカランの横に収納があれば、そこに化粧品を入れて、よほど化粧に思い入れのある方以外、時間もあまりかけなくなってきているのでは・・・と想像しています。
    2008年07月10日 17:34
  • あうん

    こんばんは!

    初めてコメントをさせていただきます<(_ _)>

    私は、こちらの広告「ルーブ化粧品」創始者の孫です。
    今日は、祖父母の法事で、叔母から、いろいろとお話しを伺ってまいりました。

    興味がなかった訳ではありませんが・・・
    いわゆる功績は、よく存じませんでした。

    優しい祖父だったことは、今でも鮮明です。
    そして、今日のお話しで、目標をもって、がんばっていた人であったこと、「ルーブ化粧品」の宣伝看板が、今も、日暮里あたりに、うっすら健在していることなど、教えていただきました。

    帰宅して、検索をしましたら、こちらのブログに辿りつきました。
    合わせて、2軒様が載せてくださってました。

    これもご縁を、勝手ながら、コメントをさせていただきました<(_ _)>
    こうして、掲載してくださり、本当にありがとうございます。

    今はなき会社ですが
    祖父の優しい精神とチャレンジャーだったこと。
    これからも、誇りに思って生きて行こうと思います。

    感謝をこめて。。。

                  あうんより
    2012年06月03日 00:02
  • ChinchikoPapa

    あうんさん、こんばんは。貴重なコメントをありがとうございます。
    お祖父様が、ループ化粧品を創られたのですね。昭和初期の婦人雑誌のあちこちで、「ループ商品」広告を目にします。当時は、それほど流行の化粧品メーカーだったんだと思います。
    拙記事では、婦人誌「スタイル」に出稿された広告を掲載していますが、当時の「主婦之友」や「婦人公論」などにも、ループ化粧品の媒体広告を見た記憶がありますので、同社の宣伝部はかなり広範な媒体戦略を立案していたのではないかと思います。
    お教えいただいた、日暮里界隈に残る看板跡などから推察させていただきますと、きっと街中広告や交通広告にまで宣伝活動を展開していたものでしょうね。一度、「ループ化粧品」看板を見てみたいものです。
    わたしの記事は、浅薄でたいしたことはありませんが、再び女性の化粧品関連の記事を書く機会がありましたら、ループ化粧品の広告を探して掲載させていただきます。
    わざわざごていねいに、コメントをお寄せくださりありがとうございました。また、お気軽にお立ち寄りください。^^
    2012年06月03日 11:17
  • あうん

    落合様

    こんばんは☆

    ご丁寧に、こちらこそ
    心より御礼申し上げます。
    本当にありがとうございます。

    こうしてみると
    なにもかも懐かしく、私も、少し、調べてみようかと思い始めました。

    先日の法要で、パリの見本市に出したと思われるパンフレットがあり、瓶にはダニエル・ダリューさんをモデルにした女性が印してあり、それは、素敵でした(手前みそですか(笑))

    文面は、全て英語なので、義兄が訳してくれるようです☆
    少し、訳してくれましたら、それはそれは、美しい文面でした。

    母は、鳩森神社さんが産土さんで、落合様のブログで、お世話になることもあるかと。。。
    その時には、どうぞ、よろしくお願い申し上げます<(_ _)>

    前回は、当方のブログアドレスも掲載せずに、大変申し訳ございませんでした。

    ルーブ化粧品とは、全く違いますが(笑)
    楽しく、更新させていただいております☆

    ご縁をありがたく思っております。

    今後とも
    どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

                        あうんより(^^♪
    2012年06月05日 23:00
  • ChinchikoPapa

    あうんさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    当時のフランスで花形女優だった、ダニエル・ダリューをモデルにあしらった容器というのは、日本ばかりでなくヨーロッパでも大きな注目を集めたでしょうね。わたしは、彼女の全盛時代を知らないのですが、親の世代ならずいぶんファンが多いのではないかと思います。
    鳩森神社といいますと、もうすぐにも千駄ヶ谷富士が思い浮かびます。確か、江戸ではもっとも古い富士塚といわれていましたね。いまだ訪れたことはないのですが、富士信仰(落合の月三講社)とのつながりから、どこかで関連してくるかもしれません。
    あるいは、上落合の落合富士が大塚古墳(円墳)上に、早稲田の戸塚富士が冨塚古墳(前方後円墳)上に築かれていたように、千駄ヶ谷富士のベースとなった円丘は?・・・と気になりだしますと、すぐにも出かけてみたくなってしまうのですが。ww
    その節は、こちらこそよろしくお願い申し上げます。^^
    2012年06月06日 10:21

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