1933年(昭和8)に39歳で没した洋画家に、下落合の長野新一がいる。記録が少なく、その生涯や作品類はハッキリしていないが、1894年(明治27)に大分県で生まれ、上京してから東京美術学校へ入学し、帝展を中心に活躍していたようだ。1927年(昭和2)に博文館から『学校用・家庭用/優等生の図画』という本を出しているので、児童への美術教育に興味があり、熱心に指導していたのかもしれない。また、大分県立芸術会館には彼の作品が収蔵されている。
1924年(大正13)に、長野新一は目白通り沿いに建てられた第三府営住宅Click!に自宅(兼アトリエ)を建てて住んでいる。目白文化村Click!の第一文化村から西北に位置する「市外落合町府営住宅三の十一」(下落合1542番地)で、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」でも、同住所に「長野」の名前を確認することができる。そして、彼は周辺を散策しながら、気に入った風景に出合うと作品を描いていたようだ。
上の作品は、1926年(大正15)の2月に開かれた中央美術展へ出品された、『落合村』と題する油彩画だ。1924年(大正13)2月から町制が敷かれ、とうに豊多摩郡落合町になっているけれど、佐伯祐三の作品タイトルClick!と同様に、まだまだ「落合村」という呼称が耳馴れて一般的だったのだろう。画面の様子から、前年の1925年(大正14)の秋を迎えた下落合風景のように見える。はたして、この風景はどこを描いたものだろうか?
画面から想定できる風景は、上の図版のような構成に見える。手前がひな壇状になった斜面の畑、ないしは宅地造成地になっている。右手には幅が広めの道が通い、電柱が並んだその先は途切れ、急な下り坂になっているようだ。画面左にも大きめの電柱が描かれ、右手の幅広の道から左手へと入りこむ細い道がありそうだ。描かれた電柱は、すべて電燈線用のものらしい。左手には、住宅の屋根がいくつか重なっているように見え、画面の中央右寄りには坂下の遠景だろうか、藁葺き屋根の農家が小さく見えている。
農家の向こう側は、一面に畑か草原が拡がっており、収穫した作物の残滓でも燃やしているのだろうか、クスノキと思われる大樹の近くで、かなり大規模な焚き火(野焼き?)が行われている。風がほとんどないせいか、その煙が空高く立ちのぼっているのが見える。正面から右手にかけては、遠近ともに入会地風の濃い森林が見えている。
1925年(大正14)から翌年にかけ、このような風景が展開していたエリアは、下落合の西部一帯、アビラ村Click!(芸術村)からさらに西側の目白崖線の斜面あたりではないだろうか。最初は、見晴坂や六天坂界隈も疑ったのだけれど、地形がイマイチ合致しないし、家々が少なすぎるようだ。崖線(バッケ)上の斜面から、上落合方面かあるいは上高田方面の、いわゆる「バッケが原」Click!あたりを見おろして描いたような風景に見える。下落合(中井)御霊神社も近いのかもしれない。
第三府営住宅の長野邸から、やや下り気味の道Click!を南西へとたどり南へ向かうと、ちょうど四ノ坂上の五叉路へ出る。それを西進すれば、ほどなく住宅のまばらな斜面から上落合、あるいは上高田方面を随所で見おろすことができただろう。松下春雄Click!もほぼ同時期に、第二府営住宅の近く(下落合1385番地)に住んでいたが、下落合西部の斜面をよく描いているようだ。
画面を横断しているらしい細い脇道には、どことなくニセアカシアのような風情の並木がつづいている。大正期、下落合西部の道沿いには、ニセアカシアの並木が随所で見られたという。昔日の六ノ坂から八ノ坂あたりにかけての、いまだ農村の面影を残した風景がぼんやりと目に浮かぶ。長野新一は、五叉路から尾根沿いの道をたどるうちに、とある斜面の高台からモチーフとなる風景を見つけた・・・そんな気がするのだ。彼の自宅から、15~20分ぐらいで行かれるエリアだ。
長野の作品は、道筋がはっきりと描かれていないので、松下春雄の風景画Click!と同様に描画場所の特定がなかなかむずかしい。カラー画像がなく、モノクロの画面しか残っていないのも描かれている対象を捉えにくくしている。空はどんよりとしているものの、光線は明らかに右手から差しているので、画面右が南ないしは西に近い方角のようだ。秋の澄んだ空気と静寂の中、焚き火の香ばしい匂いが漂ってきそうな、穏やかでのどかな下落合の夕暮れのように感じる。
■写真上:1926年(大正15)2月に中央美術展へ出品された長野新一『落合村』。
■写真中:左は、旧・下落合西部にある急峻な坂道のひとつ七ノ坂。遠景に落合公園の大クスノキが見えている。右は、下落合(中井)御霊神社へ向かう参道で、撮影位置の背後は八ノ坂。
■写真下:左は、下落合にいまも残る畑で実る新宿産の「落合大根」Click!。右は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に描かれた、第三府営住宅にみえる洋画家・長野新一邸。
この記事へのコメント
sig
以前、現在の情景を使ってですが、ある街角からある街角まで、ポイントをどこかに重複させながら写した複数の写真をランダムに提示して、その経路を当てさせるクイズを作ったことがあります。それは現在の、しかも写真であるからできたことで、この記事のような状況でそれを見極めることは不可能に近い気がしますが、それがまた推理の興味を掻き立てるのでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
下落合を描いた絵が、ほぼ同一の時代に制作されたものであれば、わりと場所の特定や情景をつなげて考えることができるのですが、各作品とも微妙に時代がずれていますので、なかなかむずかしい課題です。しかも、大正中期以降の目白・落合地域は新興住宅地ですから、場所によっては1年も経過すると、まったく違う風景になっている可能性もありますので、よけいに悩ましいですね。
佐伯祐三のように、ある程度まとめて短期間のうちに作品が描かれ、同時期の地域風景を水平にたどれ、それぞれ連続・連関して考えることができるケースはまれで、たいへん貴重な記録だと思っています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>Qちゃんさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>mustitemさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
大塚邦子
ChinchikoPapa
下落合のお祖父様につきましては、この記事だけでなくいくつかのページで取り上げさせていただきました。特に、同じ帝展仲間の江藤純平とは、家が直線距離でわずか60mほどしか離れておらず、彼との関係でも記事にした憶えがあります。検索窓へ、お祖父様の名前を入力されますと、15ほどの記事がひっかかるかと存じます。
中でも、下落合の西端(現・中井2丁目)の妙正寺川にかかる稲葉の水車脇にあった「養魚場」を描いた画面(『養魚場』1924年/帝展)で、初めて大正期の同水車小屋を見ることができて、感激したのを憶えています。
ご子孫の方々もみなさまお元気で、しかも美術を学んだり興味を持たれたりする方々がおられるのも、やはりお祖父様の血筋でしょうか、素晴らしいことですね。
大塚邦子
ChinchikoPapa
画像をお送りくださるとのこと、重ねてお礼申し上げます。
下記のメルアドへ添付してお送りいただければ、わたしのもとへとどきます。
tomohiro.kita@gmail.com
よろしくお願いいたします。
大塚邦子
よろしくお願い申し上げます。
ChinchikoPapa
いえ、とどいておりません。お手もとにリターンメール(不配達メール)がとどいていないとすれば、どこかで行方不明の可能性もありますね。大きな容量の画像(10Mバイト以上)を添付してメールを送ると、途中で中継されるメールサーバに受信を拒否される可能性があります。
大塚邦子
ChinchikoPapa
こちらこそ、貴重な画像や情報をお送りくださり、ありがとうございました。