大泉学園の街を歩いてみる。

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 下落合の目白文化村Click!開発がはじまってから3年後の1925年(大正14)、文化村の成功に気をよくした箱根土地は、武蔵野鉄道線沿いの東大泉と中央線沿いの国立、そして国分寺の北側にある小平の開発に着手している。東大泉の開発については、「田園学園都市」という概念をベースとする計画だったのを、少し前の記事Click!でもご紹介している。でも、実際には師範学校や商科大学の誘致に失敗し、当時は都心から遠く人気がイマイチだったために、西側エリアは開発されたものの、計画図に描かれた東側エリアの開発が、早くに断念されてしまったことも既述した。
 大泉学園都市は当初、西側区画では300坪の宅地を中心に販売を予定していた。ちょうど、第二文化村に造成された多くの敷地に匹敵する広さだ。「四十間通り」をはさんで東側区画、あるいは北側のエリアでは、600坪の宅地も予定されている。ところが、売れ行きがはかばかしくなかったため、どうやら途中で最多販売の300坪の敷地を2分割して150坪、あるいは3分割して100坪の宅地とし、価格を大きく下げて販売をしていたようだ。
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 わたしが、戦後すぐのころの空中写真を見て大泉学園に強く惹かれたのは、目白文化村とちがって空襲Click!を受けていない西側区画を歩けば、大正期から昭和初期のころの文化村を散歩しているような気分を味わえるのではないかと考えたからだ。ミニ目白文化村の風情を味わいに大泉学園へ・・・そんな気分になりながら、さっそく出かけてきた。ところが、結果はガッカリだったのだ。
 オレンジの瓦に三角屋根の駅舎が、すでに存在しないのはしかたないのだけれど、やはり80~90年代に建て替えられてしまった家々が多いせいか、戦前の面影はあまり残っていない。かろうじて家々の築垣や塀に、箱根土地の仕事らしい大谷石の造作がみられ、当時の面影をしのぶことができる。また、箱根土地は西洋館のモデルハウスを30戸ほど建設し、これらも建売住宅としてのちに販売したと記録(山口廣編『郊外住宅地の系譜』より)されているけれど、当時の西洋館然とした近代建築があまり見あたらない。
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 いまに残る当時の建物は、ほとんどが和風住宅か、和洋折衷であってもどちらかといえば日本家屋に近い住宅のデザインを採用している。当時としては西洋館よりも、和風住宅のほうが相対的に建設費は安くあがっただろうから、大泉学園では西洋館がそれほど浸透しなかったのかもしれない。目白文化村では、住宅全体の3分の2が西洋館あるいは洋風外観だったのに比べ、大泉学園の街並みは、その比率がかなり低かったように想像することができる。
 ところが、戦後に建てられたとみられる大泉の住宅は、ほとんどが西洋館あるいは洋風のものであり、純和風の建物がほとんど見あたらない。当時の住宅デザインをもってして、なにを「洋風」と呼び、どのような意匠を「和風」と呼ぶか・・・というテーマClick!については以前にも書いたけれど、その感覚からしても古い「洋風」の建物はきわめて少ないという印象を受ける。ひょっとすると、西洋館のほうが早く傷んで建て替えられ、和風住宅のほうが長持ちしていて現在まで残っている・・・という可能性もあるけれど、目白文化村をみる限り、その差異はあまり感じられない。
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 楽しみにして出かけた大泉学園だけれど、西側エリアのほとんどすべての道筋を歩いてはみたが、目白文化村以上に面影がないのは残念だった。ただ面白いことに、戦後に建てられた家々が並ぶ現在の街全体を歩いてみると、敷地が細分化されつつあった1970年代の目白文化村の風情に、どこかとてもよく似通った懐かしい街並みを感じるのは、ディベロッパーが箱根土地のせいだからだろうか? 人気がなくて開発を途中で断念した大泉学園だけれど、いまでは都内でも有数の高級住宅街のひとつとなっている。

■写真上は、大泉の大谷石“スミ切り”で目白文化村でもお馴染み。は、第二文化村のもの。
■写真中は、大泉学園都市の区画割り図。北側の「学校」と記入されているところが、大学を誘致する予定だった敷地だ。左下は、1947年(昭和22)撮影の空襲を受けていない大泉学園の西側エリア。右下は、造成当初の大泉学園。おそらく、家が建つ前の西側エリアだと思われる。
■写真中下/下:大泉学園で見つけた、当初から建てられていたと思われる家々。面白いのは、玄関先の植木が目白文化村では棕櫚が多いのに比べ、大泉学園では松と夏みかんが多い。特に黒松は、販売当初の大正期から松林が見られたという記録が残っている。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    ちょっとした森を残すだけで、実に多くの野鳥を観ることができるんですよね。
    nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年06月30日 13:56
  • ChinchikoPapa

    麦の作付けが増えているのは、やはりバイオ燃料がらみで高騰・稀少化をつづける作物だからでしょうか。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2008年06月30日 14:00
  • ChinchikoPapa

    誤報記事についても、その修正や訂正記事の扱いが非常に小さいのは納得できないですね。nice!をありがとうございました。>komekitiさん
    2008年06月30日 19:21
  • ChinchikoPapa

    中学の修学旅行は、奈良→京都→大阪→岡山→小豆島・・・というコースでした。nice!をありがとうございました。>sigさん
    2008年06月30日 23:44
  • ChinchikoPapa

    冷戦のさなか、核戦争の脅威に対して「なんとも知れない未来」という表現がありましたけれど、いまはまったく違った意味での同じ表現ができそうです。nice!をありがとうございました。>mustitemさん
    2008年07月01日 18:59

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