上落合850番地の尾崎翠宅を拝見。

上落合850二階.JPG
 『東京10000歩ウォーキング』シリーズ(明治書院)の編著者である籠谷典子氏より、ご丁寧な手紙をいただいた。尾崎翠の旧居跡について、ご自身でも検証・確認され訂正くださるとのこと、同シリーズが当初出版された牧野出版時代からの愛読者のわたしは、とってもうれしい。
  
 1927年(昭和2)4月から翌1928年(昭和3)6月にかけ、尾崎翠Click!が暮らした上落合三輪850番地の2階家Click!の写真が手に入った。といっても、写っているのは1930年(昭和5)5月から入居していた林芙美子で、尾崎翠ではないのが残念だけれど、家の風情や部屋の様子はなんとかわかる。おそらく、1階に洋間の書斎(客間?)を備えた造りで、2階が和室(寝室)という構造だったと思われる。1927年(昭和2)の4月に尾崎翠が入居したとき、1階の洋室を詩人・松下文子が使い、2階の和室を尾崎が書斎代わりに利用していたと思われる。
 この2階家の様子は、林芙美子の『落合町山川記』に詳しいので引用してみよう。
  
 庭が川でつきてしまうところに大きな榎があるので、その下が薄い日陰になりなかなか趣があった。私は障子を張るのが下手なので、十六枚の障子を全部尾崎女史にまかせてしまって、私は大きな声で、自分の作品を尾崎女史に読んで聞いて貰ったのを覚えている。尾崎さんは鳥取の産で、海国的な寂しい声を出す人であった。私より十年もの先輩で、三輪の家から目と鼻のところに、草原の見える二階を借りてつつましく一人で住んでいた。(岩波書店版「林芙美子随筆集」より)
  
 林の引っ越しを、尾崎が手伝わされていたのがわかる。家内の障子の張り替えをすべて、林はちゃっかり尾崎にやってもらっていた。この家の庭が、妙正寺川(林は個人的な好みから「落合川」と呼ぶことが多い)のすぐ川っぷちに接していた様子が描かれている。「三輪の家」(上落合三輪850番地)から「目と鼻のところ」の2階家こそが、尾崎が1928年(昭和3)6月に850番地から引っ越した先の、上落合三輪842番地の家だった。ひょっとすると、上落合三輪850番地の林宅の2階から、大工の家作だった同842番地の尾崎のいる2階家の屋根が、樹木をすかして見えていたかもしれない。両家の距離は、直線で50mもないだろう。
 林芙美子がこの文章を書いたのは1933年(昭和8)のことなので、すでに五ノ坂の下に建っていた下落合2133番地の「お化け屋敷」Click!へと引っ越したあとのことだ。すでに林の耳には、妙正寺川の大規模な浚渫・直線化工事の計画情報が入っていたかもしれない。上落合842番地の借家2階で暮らす尾崎翠の様子を、林はさらに書きとめている。
上落合850一階.jpg 上落合850番地.JPG
  
 その頃、尾崎さんもケンザイで鳥取から上京して来ていた。相変らず草原の見える二階部屋で、私が欧州へ旅立って行く時のままな部屋の構図で、机は机、鏡台は鏡台と云う風に、ちっとも位置をかえないで畳があかくやけついていた。障子にぴっちりつけて机があった。その机の上には障子に風呂敷が鋲で止めてあった。この動かない構図の中で、尾崎さんはコツコツ小説を書いていたのに、・・・(中略)山で一ヶ月を暮らして帰って来ると、尾崎さんは躯を悪くして困っていた。ミグレニンの小さい壜を二日であけてしまうので、その作用なのか、夜になるとトンボが沢山飛んで行っているようだと云ったり、雁が家の中へ這入って来るようだと、夜更けまで淋しがって私を離さなかった。/眼の下の草原には随分草がほうけてよく虫が鳴いた。「随分虫が鳴くわねえ」と云うと、「貴女も少し頭が変よ、あれはラヂオよ」と云ったりした。 (同上)
  
 おそらく、1932年(昭和7)ごろの思い出らしいが、このころ上落合三輪842番地の尾崎翠は毎日大量の鎮静剤を服用して、その副作用からか幻覚や幻聴の症状が出ていたのがわかる。家具の配置や室内の模様をまったく変えず、外出することや人に会うこともほとんどなくなって(でも三の輪湯にはたまに出かけていたろう)、落合火葬場の煙突が見える2階へ1日じゅう「ひきこもり」していたのだろう。その家の外観も、林は記録している。
  
 時々、かつて尾崎さんが二階借りしていた家の前を通るのだが、朽ちかけた、物干しのある部屋で、尾崎さんは私よりも古く落合に住んでいて、桐や栗や桃などの風景に愛撫されながら、『第七官界彷徨』と云う実に素晴らしい小説を書いた。文壇と云うものに孤独であり、遅筆で病身なので、この『第七官界彷徨』が素晴らしいものでありながら、地味に終ってしまった。(中略)私は落合川に架した“みなかばし”と云うのを渡って、私や尾崎さんの住んでいた小区へ来ると、この地味な作家を憶い出すのだ。 (同上)
  
DSC02965.JPG 上落合眺望.JPG
 林芙美子はその後、「尾崎翠は鳥取で狂死した」・・・と周囲に話してまわっていたらしいが、尾崎は林よりもよほど長生きをした。「この地味な作家を憶い出す」と林は書いているけれど、今日的な文学の眼から見れば、林芙美子の作品のほうがむしろ「地味」で古色ただよい、尾崎翠のほうが「現代的」な新鮮さを備えてみずみずしく感じてしまう。尾崎はミグレニンをかじりながら、おそらく林のはるか先を視界に映しながら歩いていたのだろう。

■写真上:1927年(昭和2)4月に尾崎翠が松下文子とともに借りた、上落合三輪850番地の家の2階和室。障子は、すべて尾崎翠が張り替えたものだろう。写っているのは林芙美子。
■写真中は、1階の洋間(客間?)で人物は林芙美子。は、現在の旧・上落合850番地辺。
■写真下は、旧・上落合三輪842番地前の通り。このまままっすぐ歩くと、右手に「三の輪湯」がある。は、上高田の神足寺から眺めた上落合の眺望。斜面の下は「牧成社牧場」跡。

この記事へのコメント

  • 春薫

    はじめまして。
    林唯一の名で検索をしていたらこのブログにたどり着きました。
    私は林唯一の曾孫です。

    タッチの差の林唯一邸の記事を早速読みました♪
    知らなかった曾祖父の事がいっぱい書いてあってちょっと感激…父も驚いていました。

    落合の家に唯一が引っ越してきたのは昭和9年、私の祖父が産まれた年だそうです。

    祖父からもたまに話を聞きます。林芙美子さんと近所で親交があったみたいです。
    私が産まれた時にはもう曾祖父は亡くなっていて、現在その息子にあたる祖父は違うところに住んでいるため、私は落合の家に行ったことはありません。
    ………行ってみたかった←


    昨年女子美アートミュージアムで行われた林唯一…祭りの装束にも何度も行って絵を見ました・
    私は今高校生ですが、おじいさん達の影響を受けたためか絵を描くのが大好きです♪
    特に祭りの装束の絵を見てからは私自身、いろいろな影響を受けました。

    林唯一は本当に凄い←

    彼はクリスチャンだったので、きっと神様の元で今も絵を描いていると思います。私が死んだら真っ先に会いに行きたい画家ですw
    2008年04月26日 20:35
  • ChinchikoPapa

    いい陶器というのは、作品を見つめていると全身が吸い込まれていく感覚をおぼえますね。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年04月27日 00:17
  • ChinchikoPapa

    砂丘を見ると、ハマヒルガオの白い草液を思い出します。
    nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年04月27日 00:22
  • ChinchikoPapa

    お囃子はやっぱり、“生”がいいですね。わたしの子供のころは、すでにテープになっていたように思います。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2008年04月27日 00:38
  • ChinchikoPapa

    春薫さん、はじめまして。コメントをありがとうございました。
    大祖父さまのことについては、下落合五ノ坂の邸内やアトリエを「拝見」した、下記の記事も掲載しています。まだお読みでなければ、ぜひご覧ください。(^^
    http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-03-02

    林芙美子による雑誌掲載の作品類に、大祖父さまはよく挿画を描かれていますね。吉屋信子も同様で、戦前の「吉屋信子全集」にはあちこちに大祖父さまの挿画が登場しています。春薫さんも絵を描くことがお好きとのこと、ぜひ好きな道へ進まれてください。
    上掲の「噴水のある林唯一邸を拝見する」でもご紹介してますけれど、お庭にありました噴水の横で撮影された、ご家族の記念写真が手元にあります。そこに写っている男の子が、きっとお祖父さまですね。機会がありましたら、ぜひここでご紹介したいと思います。また、お気軽にコメントをお寄せください。
    2008年04月27日 00:40
  • ChinchikoPapa

    山陰の風景が、とっても懐かしいです。大山の姿を見ると、すぐにも行きたくなりますね。nice!をありがとうございました。>Krauseさん
    2008年04月27日 13:12

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