服部建築土木請負い事務所の仕事。

服部建設土木事務所1940.jpg 服部邸玄関.JPG
 旧・前田子爵邸の移築邸が建っていた“タヌキの森”Click!に、戦前は服部建築土木請負い事務所があった。前田子爵邸を移築し、自宅兼事務所とした人物が服部政吉その人だ。愛知県の三河出身の服部は、おそらく明治期から東京へと出てきて、事業基盤を築いたのだろう。
 上掲の写真で中央に座るのが服部政吉(印)、両脇に座るのが明治から大正にかけ、下落合を中心とする邸宅の建設を担当した建築家のハシリ、森山設計士(左)と石渡設計士(右)のふたりだ。写真は服部邸の自宅兼事務所の正面玄関で、1940年(昭和15)2月に撮影されたもの。旧正月を祝う松飾りが、玄関正面の梁に見えている。わたしも“タヌキの森”の保存をめぐって、この玄関を何度か出入りさせていただいた。この記念写真、実は新宿中村屋Click!の新築落慶記念に撮られたものだ。服部事務所は、新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光Click!夫妻からも建築の依頼を請けていた。
中村屋会館.jpg 服部邸.jpg
A邸.JPG K邸.JPG
 新宿中村屋の本店は、1940年(昭和15)に新築も改築もしていないので、同年に建設され現在の新宿区役所東側に建っていた、総檜造りの「中村屋会館」のことだろう。中村屋会館の完成は、多くの本などで同年の10月と記されているけれど、調度をそろえた本格的な運用のスタートが10月であって、建物が完成したのは2月ではないだろうか? 服部事務所が下落合界隈のみならず、新宿中村屋の総工費20万円にもおよぶ新築の仕事を受注していたということは、当時の建設会社として東京でもかなり高い知名度があったことをうかがわせる事実だ。
 下落合における仕事も、たいへん多彩だ。服部政吉という人は、素材選びからはじまるイチからの新築仕事よりも、むしろ既存の優れた高級住宅や部材が良質な邸宅をそのまま、あるいは部材を部分的に活かして移築・建築することを好んでいたような傾向がみられる。おそらく、東京じゅうにアンテナを張りめぐらし、解体されそうな邸宅の情報が入ると、「もったいない」とばかり建物を丸ごと、あるいは部材の多くを譲り受けて仕事に活用していたものだろう。
九条邸.jpg 夏目貞良聖徳太子.jpg
服部邸1936.JPG 服部邸1947.JPG
 以前もここでご紹介したけれど、旧・服部事務所の周辺には移築建築Click!がまとまって散見される。服部邸自体もそうだが、それに隣接したK邸も旧・前田子爵邸と意匠がうりふたつで、もとはひとつづきの同一の建物ではなかっただろうか? また、その北隣りのA邸は、目白の旧・戸田子爵邸Click!(のちに徳川侯爵邸Click!=現・徳川黎明会)の部材移築だ。また、九条武子邸Click!や、通りをはさんで南側にあった文展の彫刻家・夏目貞良(亮:ていりょう)の自宅兼アトリエも、服部事務所が建設していた。九条邸は、武子が亡くなるとすぐに建て替えられ、1936年(昭和11)の空中写真にみえる邸は別建築だということもわかった。旧・服部政吉邸のご近所に古くからお住まいの、I様とM様による貴重な証言をおうかがいすることができた。
 お話をうかがったI様によれば、関東大震災のとき九条武子邸(当時はまだ引っ越してくる前)の周囲に笹薮があり、そこへ避難されたとのこと。上落合では、付近に多かった孟宗竹の竹林へ避難Click!したケースをよく聞くが、下落合でもやはり竹の生えているところをめざしたようだ。大震災の前日、1923年(大正12)8月31日に下落合へ引っ越してきた鈴木良三宅Click!は、九条邸と同じ地主だということなので、おそらくこの建物も服部事務所の仕事だろう。
服部邸火保図.jpg
 笹薮に避難されていた、いまだ幼児だったI様の傍らを、鈴木良三に導かれた中村彝Click!と岡崎キイがゆっくりと通りすぎていったはずだ。それを思うと、なんだか歴史上の出来事が急にリアルに感じられ、その情景さえ浮かびそうになるから不思議だ。

■写真上は、「新宿中村屋新築落慶記念」(中村屋会館完成)として1940年(昭和15)2月に撮影された記念写真。は、2005年に撮影した旧・服部政吉邸の正面玄関。
■写真中上上左は、総工費20万円で建設した中村屋会館。上右は、タヌキの森に建っていた旧・服部政吉邸。下左は、戸田子爵邸の一部移築のA邸。下右は前田子爵邸と同意匠のK邸。
■写真中下上左は、九条武子と邸。上右は、文展の彫刻家・夏目貞良(亮)の『女の胸像』。下左は1936年(昭和11)の、下右は1944年(昭和22)の空中写真にみるタヌキの森の服部邸。
■写真下:1938年(昭和13)現在の「火保図」にみる、服部邸とその周辺。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    シューベルトの「アヴェ・マリア」を聴くと、条件反射のようにハンス・ヤーライがハンガリーの田舎道で首をかしげたモノクローム映像が浮かぶのは、わたしの年代的には相当妙ですねえ。(^^; nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年04月23日 13:44
  • ChinchikoPapa

    桜を観ると桜餅が食べたくなり、この春は食べまくりました。
    nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2008年04月23日 13:55
  • ChinchikoPapa

    ほんの少し電車に乗ると、震災や空襲をまぬがれた古民家が、東京にもまだまだ残ってますね。母屋は建て直されてしまうことが多いですが、長屋門は随所で見かけます。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年04月23日 13:59
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>sigさん
    2008年11月21日 01:28
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kurakichiさん
    2015年05月02日 19:37

この記事へのトラックバック

相馬孟胤邸の邸内を拝見する。
Excerpt: 下落合の御留山Click!に建っていた、相馬孟胤邸Click!の内部の様子を伝える写真を、将門相馬家のご一族である相馬彰様よりお送りいただいた。すでにここでご紹介しているが、これらの写真は1936年(..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2008-11-20 00:01

九条武子の東京郊外ドライブ。
Excerpt: 九条武子Click!は急逝する前年の1927年(昭和2)2月20日、多摩の浅川(現・高尾駅近く)に造成されたばかりの大正天皇の墓(多摩御陵)を訪れている。このとき、下落合から夫の九条良致男爵にともなわ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2008-12-12 00:07

破滅型酔っ払い画家・片多徳郎。
Excerpt: 負け犬さんによる太宰の映評のあとで、どこか似ている性格の画家をご紹介することになった。 下落合には、軒並み画家たちが住んでいた一画がいくつかある。九条武子邸Click!あたりからまっすぐ西側へ、ちょう..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2009-11-15 00:07

午前7時の九条武子。
Excerpt: 下落合753番地に住んだ九条武子Click!ほど、イメージで作られた人物像と実生活での実像とに、少なからぬ隔たりのある女性もめずらしいのではなかろうか? 清楚でモノ静か、いつも体裁を崩さず控えめで、ジ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2010-06-15 00:01

アビラ村(芸術村)開発から見えてくること。
Excerpt: 東京土地住宅(株)による、アビラ村(芸術村)Click!の開発を見ていると、その事業推進の過程で面白いことがいろいろと見えてくる。前回、ものたがひさんが探し出してくださった、1922年(大正11)6月..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2010-07-03 00:06

満谷国四郎アトリエを拝見する。
Excerpt: 1918年(大正7)8月末、下落合753番地に竣工した満谷国四郎Click!の新邸Click!は、下落合には多かった西洋館ではなく和館ないしは和洋折衷館だったようだ。関東大震災Click!ののち、満谷..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2010-10-07 00:26

下落合を描いた画家たち・満谷国四郎。
Excerpt: ずいぶん以前から、満谷国四郎Click!が描く「下落合風景」を探しつづけてきた。1901年(明治34)に結成された、同じ太平洋画会Click!の設立メンバーである吉田博Click!が、大正末から昭和初..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2010-12-09 00:01

最初期1909年(明治42)の落合地形図。
Excerpt: 陸軍参謀本部の陸地測量部が1909年(明治42)に作成した、早稲田と新井1/10,000地形図の初版画像を入手した。落合地域が、同地形図で表現された最初期のものだ。それ以前に作成された地図は、1886..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-10-13 00:04

陸軍士官学校の測量演習1917年。
Excerpt: 1917年(大正6)6月、陸軍士官学校では地形の測量演習を実施している。そして、それをもとに同年8月に印刷された下落合や上落合を含む5,000分の1地形図が現存している。大正初期の同地域を知るうえでは..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-01-24 00:12

夏子が語る下落合2丁目801番地。
Excerpt: さまざまな絵画や小説、映像などには下落合が登場してくるのだが、そこでは山手線のもよりの駅名「目白」や「高田馬場」ではなく、大正初期から地域の独特なアイデンティティを形成していた「下落合」という地名が意..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-02-21 00:06

目白駅周辺で目撃された中国兵。
Excerpt: 目白通りClick!は、郊外演習を終えた陸軍の中隊あるいは小隊が、行進をしながら帰営するのによくつかわれたルートのようだ。おそらく、第一師団Click!あるいは近衛師団Click!の士官と兵士たちなの..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-10-28 00:17

ネコだらけの下落合にいるネコ。
Excerpt: 以前、下落合753番地に建っていた九条武子Click!の邸をご紹介Click!したとき、彼女に抱かれているネコや庭先にいるネコが、いまの下落合をウロついているネコたちにそっくりだったのに驚いた記憶があ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-12-27 00:01

九条武子邸跡はとびきり高価だろうか?
Excerpt: 下落合753番地の九条武子邸Click!跡に建っていた住宅が解体され、空き地のまま売りに出されている。かなりまとまった敷地の広さなので、それなりの価格はするのだろう。ついこの春先まで、赤土がむき出しの..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-09-11 00:00

1921年(大正10)真冬の下落合を歩く。
Excerpt: 目白中学校Click!へ通っていた生徒は、全国の道府県から集まった子どもたちClick!も少なからずいたが、やはり地元東京府の出身者が圧倒的に多かった。よその地方から東京地方へやってきた生徒たちは、学..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-01-18 00:01

下落合を描いた画家たち・鈴木金平。
Excerpt: 中村彝Click!の親しい友人のひとりに、岸田劉生Click!と若いころから緊密に交流していた鈴木金平がいる。鈴木金平Click!については、以前にもこちらで中村彝が語った言葉をたどる記事で、彼が記録..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-04-27 00:01

近衛町の夏目利政はアトリエ設計マニア。
Excerpt: 九条武子邸Click!の向かい、下落合793番地にアトリエを建てて暮らしていた彫刻家・夏目貞良(亮)Click!の兄であり、下落合436番地に住んでいた日本画家で洋画も描く夏目利政Click!は、アト..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-05-06 15:06

中村彝が見ていたカルピスのある風景。
Excerpt: 1919年(大正8)7月7日七夕の日、カルピスClick!は全国でいっせいに発売された。カルピスが誕生したのは、酵素の一種とみられる「醍醐素」に、砂糖を混ぜて放置していたのが自然発酵した偶然の産物だっ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2017-07-27 00:00