40年後にきた尾崎翠の衝撃。

尾崎翠旧邸1.JPG 尾崎翠像.jpg
 尾崎翠(おさきみどり)が、がぜん注目を集めだしたのは、1970年代に入ってからのことだろうか? この小説家の名前を、学生時代に大学の生協書籍部で見つけたのは、学藝書林が出版した『全集現代文学の発見』(愛蔵版)シリーズで、70年代末のことだった。大岡昇平・平野謙・佐々木基一・埴谷雄高Click!・花田清輝の責任編集によるこの全集(初版は1968~69年)が、おそらく尾崎翠を戦後まともに正面から取りあげた最初だろう。彼女の代表作である『第七官界彷徨』が、第6巻の「黒いユーモア」に収録されている。
 この全集の愛蔵版(1976年・昭和51刊)からは、そのころ売れっ子だった粟津潔によるサイケデリックな装丁とともに、他のありきたりな文学全集にはないショックを受けた。当時、アルバイトのおカネを少しずつ浮かせては、このオムニバス形式の全集を1冊ずつ手に入れて読んでいたのを憶えている。その後、1980年(昭和55)に創樹社の『尾崎翠全集』、やがて筑摩書房が『日本文学全集』に「尾崎翠」の巻を入れるにおよび、彼女の名前は一気にメジャーとなったのだろう。
 わたし自身は、尾崎作品を「あまり面白くない」と感じるのだけれど、なぜかその文体にはとても強く惹きつけられるという、相反する妙な経験をしてきている。多くの作品は、大正末から昭和初期に書かれているのだが、その表現感覚は非常にみずみずしい。戦後に書かれた小説だといっても、そのまま通用してしまいそうな“新しさ”だ。
 彼女はその代表作の多くを、整流化工事が始まる前の、北に蛇行した妙正寺川が流れる上落合三輪(みのわ)850番地の家(現在は妙正寺川に敷地の大半が水没)と、上落合三輪842番地に建っていた大工の家作である2階屋の上階6畳間を借りて執筆している。人との出会いや外出が大キライで、いま風にいえばやや「ひきこもり」に近い生活を送っていたようだ。
粟津潔1.jpg 粟津潔2.jpg  
 尾崎翠が暮らした部屋の窓からは、どのような風景が見えていたのだろうか? 『地下室アントンの一夜』(1932年・昭和7)から引用してみよう。
  
 太陽、月、その軌道、雲などからすこし降って火葬場の煙がある。そして、北風。南風。夜になると、火葬場の煙突の背後は、ただちに星につらなっている。あいだに何等ごみごみしたものなく、ただちに星に続いている地球とは、よほど変なところだ。肉眼を水平から少しだけ上に向けると、もういろんな五味はなくなっている所だ。北風が吹くと火葬場の煙は南に吹きとばされ、南風の夕方は、煙は北へ向ってぼんやりと移る。 (筑摩書房版「ちくま日本文学/尾崎翠」より)
  
 この記述は、引っ越し後の上落合842番地に借りていた2階家から、南西方面を眺めた描写だろう。そこからは、いつも300mほど離れた落合火葬場Click!の煙突が見えていた。当初、1927年(昭和2)4月から借りていた上落合850番地の借家には、日本女子大学で同窓だった詩人・松下文子と住み、彼女が1928年(昭和3)6月に結婚してひとり暮らしになると、直線距離で50mほどしか離れていない大工の家作である、すぐ近くの上落合842番地の2階家へと転居している。
 彼女の上落合における居住地は、『定本尾崎翠全集』(筑摩書房)の年譜と水田宗子『尾崎翠』(新典社)に掲載されていることを、鳥取の「尾崎翠フォーラム」Click!の方々からご教示いただいた。新宿区の資料(『新宿ゆかりの文学者』)にも、上落合三輪850番地→同842番地だと掲載されている。この尾崎翠の旧居跡については、現・上落合3丁目20番地(妙正寺川の北側斜面の高台)だとする、なにか大きな間違いがありそうなので、明日の記事で詳しく取りあげてみたい。
尾崎地図1929.JPG 三の輪湯.jpg  
 初めに住んだ上落合850番地には、のちに1930年(昭和5)5月から1932年(昭和7)8月まで、1年と3ヶ月ほどだけ林芙美子Click!が暮らしている。尾崎翠が出たあとの借家が、たまたま2年後にも空いていたので、尾崎自身の紹介により借りうけた。ここでの暮らしのあと林芙美子は、五ノ坂の下にあった西洋館の「お化け屋敷」Click!へと転居している。尾崎が住んだいずれの借家からも、北側の目白崖線(バッケ)にひな壇状に建ち並んだ、シャレた洋風の家々が見わたせただろう。ファンが多い『アップルパイの午後』(1929年・昭和4)から、引用してみよう。
  
 妹 ほんとに読まないの。夜露に濡れた足があって----四本よ----、足のぐるりにこおろぎの媾曳(あいびき)があって、こおろぎの上に二つが一つに続いてしまった肩が落ちてて----月光の妖術で上品な引きのばしよ----、遠景の丘に文化村のだんだんになった灯があって、その一ばん高いのは月光の抱擁に溶けこんでいて、低いのは夜露に接吻しているの。 (同上)
  
 彼女の家からは目白文化村Click!の南端、第二文化村さえ見えるはずがなく、「文化村のだんだんになった灯」は、アビラ村(芸術村)Click!の斜面に建っていた邸宅群だ。
 尾崎翠は、南の窓から火葬場の煙突を見つめては、持病である頭痛のせいかミグレニン(鎮静剤)を飲みつづけ、林芙美子は北の窓から、アビラ村の丘に建てられた美しい家々をジッと見つめていたように思える。やがて、尾崎はミグレニンの飲みすぎによる中毒症を起こし、1932年(昭和7)9月に上京してきた兄によって、鳥取の実家へ無理やり連れもどされている。上落合へ引っ越してきたのは1927年(昭和2)の4月だから、わずか5年と少しの間の上落合生活にすぎなかったけれど、彼女の代表作の多くはここで誕生している。
三輪1936_1.JPG 三輪1936_2.JPG  
 尾崎翠は、書かなくなってからも生きつづけた。鳥取へもどってからの彼女は、病死した妹の子供を引き取って育てながら、「書かねばならない」と周囲へ漏らしたこともあったようだ。晩年に、作品出版の話やテレビ局からの出演依頼もいっさい受けつけず、1971年(昭和46)に75歳で逝去している。戦後もしばらくしてから、日本文学はようやく彼女の表現に追いついた。

■写真上は、上落合三輪850番地あたりの現状。大半の敷地が、1940年(昭和15)前後に行われた妙正寺川の浚渫・整流化工事で水没している。は、尾崎翠のポートレート。
■写真中上は、1976年(昭和51)に出版された『全集日本文学の発見』(学藝書林)の粟津潔による装丁。は、第1巻「最初の衝撃」。当時にはめずらしい全17巻のオムニバス全集だった。
■写真中下は、1929年(昭和4)の「豊多摩郡落合町全図」にみる尾崎翠の引っ越しルート。描かれた煙突は銭湯「三の輪湯」。は、彼女も通ったと思われるいまも健在の「三の輪湯」。
■写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる尾崎翠の旧居界隈。は、その広範写真で上落合三輪界隈。南風があるのか、北へたなびく白煙は落合火葬場の煙突からのもの。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    里山とは直接関係しませんが、最近の縄文遺跡の発掘成果には目を見張るものがありますね。陸稲ではなく水稲田の存在や、天然アスファルトで道路を舗装していたにいたっては、目が点になります。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年04月01日 15:59
  • ChinchikoPapa

    気温が急に下がったせいか、外堀も神田川もいまだ桜は満開ですね。
    nice!をありがとうございました。>komekitiさん
    2008年04月01日 16:03
  • ChinchikoPapa

    わたしは毎日、神社の境内を通って帰宅しています。ほんのちょっと近道になりますので。(^^; nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2008年04月01日 18:38
  • ChinchikoPapa

    わたしの好きなC.ヘイデン「戦死者たちのバラッド」の、詳しいご紹介をありがとうございました。いつもnice!をありがとうございます。>xml_xslさん
    2008年04月01日 22:46
  • ChinchikoPapa

    kimukanaさん、尾崎翠ページにnice!をありがとうございました。
    2008年04月11日 12:53
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
    2009年06月25日 16:14
  • ChinchikoPapa

    その昔、割り箸を尖らせて墨汁をつけ、線画を描いたことがありました。あれも、ペン画の一種でしょうか。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2010年01月17日 23:53
  • ぽて

    金山平三夫人について3月にコメントした者です。

    今日『第七官界彷徨—尾崎翠を探して』(浜野佐知監督 1998)を見て、尾崎翠で検索したら、またしてもこちらのブログに来ることになって驚いています。映画の中にも、落合に住んで執筆し、薬物中毒に陥っている場面がありました。撮影は鳥取で行われたようですが。

    落合にかかわる文化人を、ほんとによく把握していらっしゃいますね。改めて脱帽です。
    2013年08月08日 01:42
  • ChinchikoPapa

    ぽてさん、コメントに気づかずお返事が非常に遅れてすみません。
    『第七官界彷徨—尾崎翠を探して』は、いまだ機会がなくて観ていないんですよ。鳥取には、けっこう昔の風情が残っていて、ロケ地には困らなかったのではないでしょうか。
    過分のお言葉、ありがとうございました。
    2016年10月22日 23:15

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