牛鍋会で知り合った曾宮一念と中村彝。

彝&一念.jpg 紀要.jpg
 わたしの旧実家から南へ800mほど下がった、日本橋浜町で産まれた洋画家・曾宮一念Click!は、やはり“食いもん”には相当うるさかったらしい。彼のエッセイClick!を読んでも、それは端々に感じられたのだが、きっと(御城)下町Click!で小さいころから近所の料理屋を連れ歩かれ、東京の“うまいもん”を食べ馴れていたせいだろう、相当に口がおごっていたにちがいない。
 ときに、それはいまだ新聞ダネにもなったりする。2007年9月26日に発行された、日本経済新聞の美術コラム「プロムナード」から引用してみよう。
  
 戦前に旧静高美術部を指導していたのは曾宮一念さんとのこと、そして、戦後再生に当って、その役を担当したのは青木達弥さんでした。引き継ぎのために、二人揃って学校に来ました。私たち部員は興奮して、学食の二階で会食することにしました。曾宮さんは料理を見ると、これはダメだな、と言いました。そして一口食べて、やっぱりダメだ、と言って、箸を投げました。神経のかたまりのような人でした。 (同紙「前のめりの美術部」小川国夫より)
  
 記事で「神経のかたまりのような人」と書かれているけれど、そうではないと思う。うちの親や祖父母もそうだが、料理の味(素材含む)にかけてはとってもうるさい。和洋中華を問わず、子供のころから江戸東京の料理屋で形成された、がんとした美味のデフォルトが存在する。だから、その味覚の美意識から外れた風情や味がすると許容できないのだ。頑固なのであって、性格が神経質なのではない。曾宮の場合、目の前に浜町河岸(はまちょうがし)をひかえ、太平洋の黒潮と親潮にのってやってくる豊富で新鮮な魚介料理を、子どものころからふんだんに味わっていただろうから、味覚に関してはさらにうるさく頑固だったのだろう。それは、おそらく彼の審美眼にも大きな影響を与えていたのではないだろうか。
 中村彝Click!のことをあれこれ調べながら、曾宮一念の著作などにも当っていたのだが、灯台もと暗し、地元である『新宿歴史博物館紀要』の創刊号に、99歳になったときのインタビューが掲載されていることを、いまさらながら知った。急いで近くの中央図書館へネット予約し、さっそく借りてくる。99歳の老人にしては、ところどころ勘違いや時系列の齟齬が感じられるものの、驚くほどの記憶力と明晰さで、読んでいて舌を巻いてしまった。
余が見た曾宮君.jpg 写生曾宮.jpg
 曾宮のしゃべり言葉は、うちの親父とも共通する下町言葉の日本橋方言でとても懐かしい。親しかった中村彝をはじめ、佐伯祐三Click!会津八一Click!について、かなり興味深い証言をしている。1992年(平成4)に出版された『新宿歴史博物館紀要・創刊号』から引用してみよう。
  
 (前略)今村邸の中の剣術の道場で、牛鍋会を開くから来いというんで出かけたんですよ。1月の15、6日の日曜だったと思いますが、行ったら20人ばかり来てて、コンロがどっさりとあって、それに火を入れてグツグツ煮てね。それをみんなで囲むんですが、絵描きはあんたと中村さんと二人だから、二人でよろしくやったらいいでしょっていうわけで、中村彝と向かい合って牛肉をつっついて食べた。それが中村彝と会った初めてでした。 (同書「中村彝との出会い」より)
  
 中村彝と曾宮一念とは、今村繁三Click!が開催した「牛鍋会」で、1916年(大正5)の正月に知り合っていたのがわかる。曾宮が父親の死後、上野桜木町に母親が開いた店で一緒に暮らしていたころ、中村彝は新宿中村屋Click!を出て近くの谷中初音町(静坐会が開かれた本行寺Click!の並び)に住んでいた時代だ。当時、彜は自身の性格からか、周囲に友だちがほとんどいなかった。
 少し横道にそれるけれど、ここで今村繁三や曾宮一念が牛肉を鍋で煮て(出汁を先に入れて)食べることを、「すき焼き」ではなく「牛鍋」と表現していることにご留意いただきたい。近郊野菜が発達した江戸周辺で生まれ、やがて市中で料理として成立した明治以前の「すき焼き」と、明治以降にうまれた「牛鍋」とが現在ではゴッチャになっているので、改めて記事に書いてみたい。
  
 他に友達といっても、彫刻家の中原悌二郎くらいのもんで、(中略)当時まで、中村は非常に我儘で傲慢だったそうですよ。研究所の連中は、中村のほうでも恐らく相手にしなかったろうし、みんなにはむしろ嫌われていたと思いますね。彼には友達がいなかった。それから、僕は毎日のように中村の家に行きました。10分くらいで行かれる所にいましたから、邪魔になるくらいよく行きました。(同上)
  
 研究所とは谷中の藍染川が流れていた、いまの暗渠化されたヘビ道近くにあった太平洋画会研究所(旧)Click!のことだ。曾宮の証言は、谷中に住んだ画家たちのことにも触れていて、ちょっと興味深い。失恋直後で人とあまり接しなかったせいもあるが、谷中における中村彝の証言は少なく、どのような暮らしをしていたのかが曖昧な時代だ。曾宮に対して、彜は威丈高にならず非常に親切だったようだ。やがて、ふたりそろって下落合にアトリエを建てて住むことになる。
谷中地図.JPG
 中村彝の介護をしていた岡崎キイは1924年(大正13)12月24日、佐伯アトリエの先にあった鶴田吾郎宅だけではなく、曾宮アトリエにも駆けこんで彝の死を知らせている。
  
 それで、私が中村の家に駆けつけた時は、婆さんと鶴田が来てまして、それからまもなく遠藤先生もやってきました。方々へ知らせて、新聞にも出してもらって、近い者だけで葬儀の仕度ををしました。中村は普段お湯にも入らないからってんで、お灌をする代わりに、遠藤さんがアルコールを二瓶ばかり買ってきて、脱脂綿で体を拭きました。私、鈴木良三、画家の鈴木金平、鶴田、遠藤先生なんかで、中村の全身を拭きましたよ。それで、僕は真っ裸の中村のMを見てね、大きいな大きいなって俺言ったら、遠藤先生に「ふざけるんじゃない!」(笑)って、眼鏡ごしに叱られたことがある(笑)。これもひとつのエピソードですね。(同上)
  
 主治医の遠藤繁清Click!が怒るのは理解できないわけではないけれど、このインタビューを読んでいて、わたしは曾宮一念の全エッセイを読みたくなってしまった。彼は1958年(昭和33)、『海辺の熔岩』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。

■写真上は、彝の病床を見舞う曾宮一念。彝のベッドの位置が、いつもの居間ではなくアトリエにあるのが興味深い。やはりベッドは、邸内のあちこちへ移動していたようだ。写真の様子から、1923年(大正12)の初夏あたりだろうか。は、『新宿歴史博物館紀要・創刊号』(1992年)。
■写真中は、1922年(大正11)に制作された鶴田吾郎『余の見たる曾宮君』。下落合のアトリエで仕事をする様子を描いている。は、緑内障で失明する前、野外でスケッチをする曽宮一念。
■写真下:谷中時代の中村彝宅とその周辺で、下落合でもお馴染みの名前が見える。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    ジャージャー麺はわたしも好きで、家でもそれらしき料理を作ります。
    nice!をありがとうございました。>Krauseさん
    2008年03月30日 16:22
  • ChinchikoPapa

    大仏裏ハイキングコースは、子どものころから数え切れないほど歩いてますが、確かに昔はクロマツが多かったように思います。建長・円覚あたりも、「山門高き松風に昔の音やこもるらむ」と歌われてしますから、明治期にはいまより松が多かったのかもしれませんね。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年03月30日 16:30
  • ChinchikoPapa

    htmlファイルの右クリックでWordPadメニューがあるというのは、ソースコードいじりには便利この上ないですね。「メモ帳」は使いにくいです。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年03月30日 16:34
  • ChinchikoPapa

    河原のスズメ、ピーチクパーチクかわいいですね。
    nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2008年03月30日 21:53
  • ChinchikoPapa

    土曜日に、牛込見附から市ヶ谷見附の外堀沿いを歩いたのですが、まだ八分咲きでした。なんとかもう少し持ってほしいですね。nice!をありがとうございました。>komekitiさん
    2008年03月31日 15:30
  • ChinchikoPapa

    トラックバックをありがとうございました。>magnoriaさん
    2009年03月22日 23:39

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