米軍は聖母病院を知らなかった。


 きょうは、東京大空襲Click!から63年め。いまだ下町では、一家全滅して証言者が見つからない人たちの手がかりや、行方不明者の捜索がつづけられている。ひと晩で、10万人が焼き殺された。
  
 日本各地には、1945年(昭和20)に行われた米軍機による空襲時、病院への爆撃はたくみに避けられた・・・という記憶が伝えられている。下落合にも同じような伝承が残り、国際聖母病院Click!への空爆は行われなかったことになっている。でも、延焼による火災はまぬがれたものの、フィンデル本館の屋上へ250キロ爆弾(焼夷弾という話も聞くが)が命中していることは、とても気になるエピソードだ。このときは、分厚いコンクリートが爆弾をはね返し、たいした被害はなかったようだ。もうひとつ、敗戦直後に聖母病院めがけて、パラシュート付きのドラム缶に詰めた救援物資が投下された・・・ということになっている。はたして、それは事実なのだろうか?
 爆撃を意図的に避けたり、あるいは救援物資を投下したりするには、米軍が病院の位置を正確に把握していた・・・ということが前提となる。でも、調べれば調べるほど米軍は、いやより正確にいうならば爆撃機や救援機のパイロットは、下落合の聖母病院の位置を正確には知らなかった、あるいはまったく認知していなかった・・・ということになる。
 まず、爆撃機の爆撃手、いや250キロ爆弾だとすれば艦載機(戦闘爆撃機)のパイロットかもしれないのだが、聖母病院を目標にして空爆しているということは、彼らが1945年(昭和20)8月15日以前に病院の位置をまったく知らされていなかった・・・、少なくともフィンデル本館を病院とは認識していなかった・・・という証拠になるのではないか。やがて敗戦を迎え、聖母病院の救援機が爆音をとどろかせながら、下落合上空へ超低空飛行で出現するのだけれど、このときもパイロットは病院の正確な位置を知らなかった可能性がきわめて高い。それは、ドラム缶が下落合のどこへ投下されたのかをトレースしていけば、おのずと明らかになってくる。
 
 まず、救援物資のドラム缶は、学習院昭和寮Click!が建つ丘の東側を走る、山手線を直撃した。パラシュートが送電線にひっかかり、このとき電車の運行がストップしている。つまり、救援物資を投下したエリアのひとつめは、学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)のある山手線のすぐ西側の近衛町だった。ひょっとすると山手線の内側、学習院のキャンパスにもドラム缶を落としているかもしれない。ふたつめのエリアは、本来の聖母病院の周辺、特に病院の東側に口を開けた諏訪谷を中心とするあたり。これは、焼け残ったフィンデル本館の建物を、パイロットは目標としたものだろう。そして、最後の投下エリアは、同年4月13日および5月25日の空襲でもかろうじて焼け残った落合第一小学校Click!から、目白文化村の第一文化村あたりにかけてだ。
 救援物資のドラム缶投下ルートを追いかけ取材してまわると、必然的にひとつの結論が導きだされる。すなわち米軍は、いや爆撃機でなく救援機のパイロットたちでさえ、聖母病院が下落合のどこに建っているのか、まったく知らなかった・・・ということだ。彼らは、下落合で焼け残った大きめな建物めがけ、片っぱしからドラム缶を投下していったのだ。学習院昭和寮が病棟の4つ並ぶ病院らしいと見れば、山手線を走る電車などおかまいなしにさっそくバラバラと投下し、落合第一小学校がプールのリハビリ施設を備えた病院のように見えれば、そこにも数多くのドラム缶を投下していった。
 もちろん、ほんとうの聖母病院にも救援物資は投下されているのだけれど、そこでは皮肉なことに戦争が終ったにもかかわらず、落ちてきたドラム缶に当たって死傷者が出ている。諏訪谷の東側、子安地蔵通りに面していた落合医院(幡野歯科医院)Click!では、外で遊んでいた子息が投下されたドラム缶の直撃を受けて死亡した。

 米軍が病院への空襲をことさら避けたというのは、1934年(昭和9)に来日した米国の大リーガーでスパイのモリス・バーグが、その屋上から東京の市街地を撮影しまくっていったという聖路加(聖ルカ)病院の事例のように、明らかに病院だと認知していたごく一部では、そのような現象が見られるのかもしれないけれど、敗戦後、軍国主義のクビキから日本を「解放」してくれたという、米軍=「解放軍」規定によってイメージが増幅された、あるいは戦後米軍によって意図的に広く流布された、あと追いで作られた「付会神話」ではないだろうか?
 それでも、国際聖母病院(1943年より病院名から「国際」を取って、単に「聖母病院」とするよう軍部から強制されている)へ積極的に救援物資が投下されたのは、そこが病院だったからではなく、そこに目白・下落合界隈に住んでいた欧米人が数多く隠れていた、あるいは東京在住の欧米人が憲兵隊によりまとめて収容・監禁されているのを、なんらかの情報で知ったからだろう。
 同年3月10日に行われた東京大空襲Click!のジェノサイドを見れば、病院も学校もヘッタクレもない、皆殺しの絨毯爆撃だったことは明らかだ。

■写真上:戦後すぐのころに撮影された聖母病院で、手前は焼け跡のまま空地となっている。
■写真中は、同病院のフィンデル本館。は、「マリアの使者聖フランシスコ修道会」礼拝堂。
■写真下:救援物資のドラム缶がパラシュートで投下された、下落合の3つのエリア。最初から聖母病院をめがけたのではなく、焼け残った大きな建築物の周辺へ落としているのがわかる。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    Krauseさん、nice!をありがとうございました。
    2008年03月10日 11:42
  • komekiti

    岡田 資中将の事でも明らかなように、
    間違いなく無差別絨毯爆撃ですよね。
    2008年03月10日 14:35
  • ChinchikoPapa

    komekitiさん、コメントをありがとうございました。
    特に深川区や本所区では、区の外周を爆撃して住民たちの避難路を断ってから、市街地を絨毯爆撃していますので、「軍需工場を目標にした」という米国のデタラメな釈明は虚しいですね。nice!をありがとうございました。
    2008年03月10日 15:12
  • ChinchikoPapa

    田園コロシアムで行われたLive unser the Skyのロリンズ・コンサートを思い出しました。81年だったでしょうか。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年03月10日 15:18
  • ChinchikoPapa

    手でスケッチが描けないデザイナーやイラストレーターが、たくさんいますねえ。
    nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年03月10日 19:24
  • ChinchikoPapa

    こちらもヒヨドリやツグミのほかに、いろいろな野鳥の声が聞こえるようになりました。春ですね。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2008年03月10日 23:31
  • ChinchikoPapa

    うちにはネコがいるのですが、イヌもかわいいですね。
    nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
    2008年03月11日 15:01
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2009年07月20日 15:54

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