李香蘭邸を見つけた。

 
 一昨年、写真展Click!のために近代建築の撮影で、小道さんClick!目白文化村Click!をまわっていたとき、第二文化村のA邸に立ち寄って取材をさせていただいた。A邸のおばあちゃんは、日本橋人形町の出身なので、わたしはつい戦前からの長話しをしてしまい(爆!)、小道さんに呆れられて置いていかれそうになったのだけれど、そのとき「あなた知ってる? 李香蘭の家が、この坂の下にあったのよ~」とお教えいただいた。おばあちゃんの記憶は、きわめて正確だったのだ。
 宮下琢郎の『落合風景』Click!を調べているとき、わたしは1938年(昭和13)に作成された、このあたり一帯を描いた「火保図」をなめるように観察していた。第二文化村からつづく下り坂の三間道路、つまり現在ではその中央部が山手通りに分断され、ひとつの道筋には見えなくなってしまった坂道を細かく調べていた。第二文化村から、この坂道を下りつづけると、目白崖線のふもとを通る中ノ道へと出られた。位置的には六天坂と一ノ坂との、ちょうど中間あたりに抜けることができる。
 
 宮下琢郎の描画ポイントを絞りこんでいるとき、下落合1731番地(旧1771番地)のモダンハウス(佐久間邸)の南側、下落合1772番地の家々に目がとまった。そこに、「山口」という大きな家が収録されている。1938年(昭和13)現在、おそらくこの「山口」邸が李香蘭Click!こと山口淑子の自宅だろう。A邸のおばあちゃん、いや当時は結婚されたばかりの若奥様は、この坂道を下って西武電気鉄道の中井駅へと向かう途中で、何度か付近を散歩する李香蘭に出会っていたのだろうか。
 もちろん、当時の李香蘭(山口淑子)は銀幕の大スターだから、西武電鉄など利用するわけはなく、映画会社の差し向けるクルマで自宅から送迎してもらっていたにちがいない。それでも、近所の人たちに鮮明な記憶を残していること、また「火保図」にも名前が記録されているところをみると、第二文化村の南側に短期間だけ住んでいた・・・とは考えにくい。かなりの期間、下落合1772番地に自宅をかまえていたのではないか。
 
 1936年(昭和11)の空中写真をみると、いまだこの敷地には建物が見えないようだ。ということは、「火保図」が作られた1938年(昭和13)までの2年間のどこかで、山口邸は建てられたことになる。1944年(昭和19)に撮られた写真には、山口邸を確認することができる。はっきりとはわからないが、上空から見るかぎり南北にやや長い、大きな豪邸(西洋館)のような風情で写っている。ただし、戦後に撮られた1947年(昭和22)の写真では、すでに解体されたのか、あるいは1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲で延焼しているのか、すでに敷地は更地となっているようだ。

 このあたりの「火保図」には、ほかにも気になる人たちの自宅を見つけることができる。坂道の北側、下落合1995番地にみえる「川口」邸(火保図では誤って「川田」と収録)は、パリで佐伯とも一緒だった洋画家・川口軌外Click!アトリエだ。また、坂道の南側、下落合1982番地にみえる「矢田」邸は、もちろん小説家・矢田津世子Click!の自宅。坂の下には李香蘭=山口淑子邸があり、坂の上の尾根筋へ出ると、洋画家・宮本恒平Click!アトリエがあった。
 ひょっとすると李香蘭は犬でも連れ、吉屋信子Click!と同様に第二文化村を散歩して、周辺の住民から目撃されていたのかもしれない。それとも、当時の大スターのことだから、仕事以外は外出もせず自宅にこもったまま、ウワサだけが近所を駆けめぐっていたものだろうか。

■写真上は、山口淑子邸のあったあたりの現状。は、戦前の大スターだった李香蘭。
■写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」に記録された、下落合1772番地の山口邸。は、空襲直前の1944年(昭和19)に撮られた空中写真にみる山口邸。
■写真中下は、第二文化村から南へ伸びる坂道。は、山手通りに分断された坂道の現状。
■写真下:坂道の通う一帯を描いた、2枚の「火保図」を合成処理したもの。左側が北になる。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    手かせ首かせのある住宅街というのは、怖いですねえ。
    nice!をありがとうございました。>Krauseさん
    2008年03月08日 22:38
  • ChinchikoPapa

    わたしも、LP・CD・ビデオ・DVDの専用造り付け棚をこしらえたのですが、相当余裕をみて造ったにもかかわらず、10年でいっぱいになってしまいました。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年03月08日 22:41
  • ChinchikoPapa

    「身体に染みこませる」という経験は、これまでの生涯を通じても数えるほどしかないことに気づきますね。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年03月08日 22:51
  • ChinchikoPapa

    青空の写真がだんだん増えてきましたね。
    nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2008年03月09日 23:34
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、nice!をありがとうございます。>moriさん
    2010年11月13日 00:45

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