有髪の尼僧だった帆足みゆき。

 少し前に、近衛町に建っていた帆足理一郎邸と、その邸内の様子をご紹介Click!したけれど、室内に写る夫人の帆足みゆきが、有髪の尼僧だったことはあまり知られていない。彼女は、封建的だった新潟の家庭から家出して上京し、あこがれだった芸術に親しむかたわら、半労半学の苦しい生活に入っている。やがて、信州の尼寺で2年余の修行をへて、浄土宗大学に籍を置いたあと、女子大学国文科へ転学して卒業している。彼女の僧名は、五十嵐教山尼といった。
 彼女が渡米し、ハワイを経てやがてロサンゼルス大学へ通いはじめたのは、浄土宗本山から海外布教を指示されたからだ。当時、剃髪(坊主)のままの女性は米国へ入国できなかったらしく、カツラをかぶっての渡米だった。その後、蓄髪(髪を伸ばすこと)するにいたった心情を、帆足みゆきは1922年(大正11)にプラトン社から発行された『女性』5月号に寄せているので、引用してみよう。
  
 似而非(えせ)僧は尊い法に傷をつけます。いや、自分自身の生涯を蓄音器の代用品たらしむるに過ぎません。かうした感想、其の他色々のことから、私は仏僧の偽つた生活が厭はしく思はれ、実質ある信仰は敢て形式の如何に支配されるべきものではないと思ひました。又自分自身では不徳なる身の勿体ない聖職を汚さうよりも、正直に率直に自分の信じて居る所に向かつて進んだ方がよいと悟りましたが、さう単純には参らぬもので、殊に仏家に異例を出すやうに思はれて、蓄髪といふことを躊躇致しました。 (同誌「蓄髪問題と尼僧の煩悶」より)
  
 帆足理一郎とロサンゼルスで知り合い、結婚して有髪となった教山尼こと帆足みゆきは、堰を切ったように社会へ向けてさまざまな発言をするようになる。彼女の書く文章は、同時期の女性たちの文章と比較すると、かなり決然としていて迷いがなく、たいへんいさぎよい印象を受ける。だから説得力が高く、あちこちのメディアから引っぱりだこになっていたようだ。
  
 (前略)私共の信仰が不思議にも同じ立脚地を持つて居り、形式に囚はれないで広い宗教的の立場に立つて生活をしたいといふ希望などが一致して居りますのと、帆足が高潔な人格であり智に於ても徳に於ても私の兄である所から、其の人と共同生活をすることは私の修養を積むに都合のよいことであるのと又帆足が一般の婦人に対して男子と同等な一個の人格としての尊敬を払つてくれますので、婦人の解放を必要とする今日、此の人と家庭生活を営むことは同時に社会に奉仕する所以であるなどゝ色々な希望を以て家庭に這入つたのであります。 (同上)
  
 
 帆足みゆきの発言は多岐にわたり、大正期から昭和にかけて膨大な文章を残している。芸術や思想、生活、育児、はては料理にいたるまで、社会における主体的かつ合理的な家庭生活とはなにか?・・・を終始模索し、問いつづけているような趣きだ。なによりも芸術の尊さと子育ての重要性を主張し、虚飾を排した質実な家庭生活を推奨している。
 彼女は、大正期に盛んだった社会主義者の発言にも手きびしい。1922年(大正11)の『婦人画報』2月号には、九条武子Click!を「華人」としてではなく「歌人」として擁護する文章を寄せている。
  
 世に、何等の趣味もなく、信心もない人ほど乾いた、すさんだ生活をしてゐるものはありますまい。只、安楽に衣食して生きて行く位のことは、人間でなくても、牛馬でも出来ることではありませんか。嘗て、無産階級を代表する或る社会主義の婦人評論家が、九条武子夫人を評して『愚にもつかぬ腰折を詠んで・・・』と罵倒してゐるのを見て、其の荒びた凄じい言葉こそ却て腰折れなりと思はずにはゐられませんでした。私は素よりブルウヂワアに加担する者ではなく、華冑会の人々の閑暇な生活を見て快しとする者でもありません。九条夫人に今一層社会的な活動をとかいつたやうな註文なれば、反対ではありませんが、其の人が歌を詠むからとて、『愚にもつかぬ』など評し去るは、如何なものでせう。貴族であらうと、平民であらうと、歌人は歌人として賞すべきではありませんか。
                                        (同誌「私の趣味生活」より)
  
 
 帆足みゆきは、階級観のみでしか表現できない狭隘な芸術を、あるいは階級観の呪縛からでしか語られない芸術論を、認めようとはしなかった。女性の社会主義者=進歩的な女性という規定があたりまえだった当時としては、時代におもねらない彼女の文章は、いささか勇気のいる表現だったろう。だからというべきか、帆足みゆきの実生活に根ざした文章は、現在でもあまり古びた印象を受けず、むしろ新鮮で今日的な感じすら受けるのだ。

■写真上:昭和初期の『婦人倶楽部』に掲載された、帆足みゆきのプロフィール。
■写真中は、子育て中の帆足みゆき。は、彼女がよく寄稿した昭和初期の『婦人画報』。
■写真下は、少し前に新聞チラシが入っており、いま宅地として売りに出されている帆足邸跡。背後に拡がる森は御留山。は、1979年(昭和54)の空中写真にとらえられた旧・帆足邸。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    最近は、銀座の画廊めぐりをしてません。とても買えないので、目に毒なものですから・・・。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年02月15日 15:24
  • ChinchikoPapa

    白壁の街並み、すてきですね。電柱が林立してないのもいいです。
    nice!をありがとうございました。>竜尾さん
    2008年02月15日 15:26
  • ChinchikoPapa

    そろそろ季節の変わり目で、体調を崩しやすいですね。わたしも、気をつけなければ・・・。nice!をありがとうございました。>komekitiさん
    2008年02月15日 15:27
  • ChinchikoPapa

    先日歩いた山間の村落で、トビを餌付けしているお宅があってすさまじかったです。いっせいに飛び立つハトを、トビに置き換えるとその光景に近いでしょうか。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
    2008年02月15日 15:33
  • ChinchikoPapa

    これからは、菜の花の苦味がうまいですね。サン・ラのレコードは、ずいぶん前に売ってしまいました。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2008年02月15日 15:36
  • ChinchikoPapa

    わたしは先日、「北斎漫画」展を観にいってきました。
    niceをありがとうございました。>yanasanさん
    2008年02月15日 20:18
  • ChinchikoPapa

    積み上げた薪のいい匂いが、漂ってきそうですね。
    nice!をありがとうございました。>Krauseさん
    2008年02月16日 18:57
  • アヨアン・イゴカー

    >貴族であらうと、平民であらうと、歌人は歌人として賞すべきではありませんか
    あの時代の中で、冷静な見方が出来る女性だったのですね。素晴らしい。
    2010年05月04日 13:48
  • ChinchikoPapa

    アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    次回にご紹介する予定ですが、帆足みゆきの論理的でクール(というか合理的)な眼差しは、家造りや生活思想へストレートに反映されていきます。
    2010年05月04日 20:30

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