目白会館からスタートした矢田津世子。

 

 結核により、37歳の若さで病死するまで、ずっと下落合に住みつづけた小説家に矢田津世子(やだつせこ)がいる。吉屋信子Click!と同じように、矢田の下落合における引っ越しルートを書こうとしていたのだが、彼女が1931年(昭和6)8月に下落合へとやってきた当初の住まい、「目白会館・文化アパート」が俄然気になりだした。下落合1470番地の目白会館Click!は、目白文化村の第三文化村内、北側の一画に建っていた「文化アパート」だ。
 いつかご紹介した、上落合のアパートメント「静修園」Click!と同様、大正後半から昭和初期にかけて「文化アパート」ブームが起こり、目白・落合界隈にも多く建設されている。それは、とても一般のサラリーマン家庭では入ることができない、超高級な“億ション”感覚の集合住宅タイプもあれば、逆に流行りの「文化」の文字を冠しただけの、ふつうの賃料で入居できるタイプもあった。はたして、目白会館はどのような文化アパートだったのだろうか? 矢田津世子がそうだったように、駆け出しの画家や小説家が目白会館には住んでいたようだ。
 下落合で暮らした多くの女性作家がそうだったように、矢田は長谷川時雨Click!が主宰する『女人藝術』Click!へ関わるころから、本格的な執筆活動をスタートしている。いまだ下落合ではなく、兄の勤務先である名古屋で暮らしていたころのことだ。彼女は1931年(昭和6)の初頭に上京すると、その年の夏から目白会館へ引っ越して住みはじめている。そのほか目白会館には、同じ小説家の武田麟太郎や、諏訪谷のアトリエClick!から一時期(自宅の改築だろうか?)離れていたらしい洋画家・曾宮一念Click!、独立美術協会の本多京などの画家たちが去来している。
 
 上落合のアパートメント、静修園のほうはどうだろうか? ここにも同様に、「芸術が政治に奉仕する」プロレタリア芸術運動に反発した、里見勝蔵や外山卯三郎、前田寛治、小島善太郎ら1930年協会の後継グループである、独立美術協会の会員画家たちが住みついていた。目白会館と静修園のいずれもが、独立美術協会に関わりのあるのが面白い。会員の三岸好太郎Click!が死んだ年、1935年(昭和10)から曾宮一念も同協会へ参加しているので、かなり以前より、彼が若い画家たちの世話を焼き、落合界隈での住居を世話してあげていたものか?
 そんな状況を考えながら、改めて目白会館を眺めてみると、富裕層を対象とした高級「文化アパート」だとは、どうしても思えないのだが・・・。強いて想像をたくましくすれば、第三文化村に投機目的で土地を買った不在地主が、「土地を遊ばせておくのはもったいないから、せめて税金ぐらいは捻出しよう」とはじめた、建てつけや設備のわりには低家賃で、建前上は良心的な芸術家向きの「文化アパート」・・・という気がしないでもない。上京した矢田津世子が物件を探しているとき、お気に入りの下落合で見つけた、シャレているわりには格安のアパートではなかっただろうか。
 1936年(昭和11)に撮影された空中写真を見ると、東西に長方形のかなり大きな建物だったのがわかる。第三文化村の敷地を2軒ぶん合わせた広さだから、ゆうに200坪ほどはありそうだ。屋根には、屋根裏部屋の切妻のような突起がいくつも見えているので、おそらく建築デザインは洋風だったのだろう。目白会館は空襲直前、1944年(昭和19)に撮影された空中写真Click!にも写っているので、おそらく5月25日夜半の空襲Click!で焼失したと思われる。


 矢田津世子が目白会館に住んだのは、1931年(昭和6)8月から翌年の11月まで、わずか1年3ヶ月の期間だった。そのあと、東京勤務となった兄と母親とで同居することになる下落合1986番地の2階建て住宅を皮切りに、終の棲家となった下落合1982番地の2階建て洋館まで、目白文化村からアビラ村の丘上を点々と移り住むことになる。
 不思議なのは、一ノ坂の下落合1982番地から金山平三アトリエClick!のすぐ下、二ノ坂沿いの下落合2015番地へ引っ越したあと、ほどなく再び下落合1982番地へともどってきていることだ。その引っ越しルートには、なんとなく空家待ちのツテを頼った引っ越しの影が見えるようだ。これらの番地にも、人気の高い賃貸「文化住宅」のようなものが建っていたのかもしれない。あるいは、しじゅう男の目を惹いた矢田のことだから、下落合1982番地で門前をウロウロするストーカーたちに悩まされ、下落合2015番地へ9ヶ月ほど一時避難していたものだろうか。
矢田津世子邸S22.jpg 
 下落合に住みはじめて、ひとり暮らしの生活にも馴れた1932年(昭和7)ごろ、目白会館の門前へ知り合ったばかりの坂口安吾や中原中也が訪ねてきやしなかっただろうか。特に坂口安吾はその後、彼女の姿を求めて下落合の坂道を、ウロウロと歩きまわりはしなかっただろうか?

■写真上は、第三文化村の目白会館跡の現状。は、秋田出身の矢田津世子。
■写真中は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる目白会館・文化アパート。第三文化村の敷地を2面占有する、かなり大きな西洋建築だった様子がわかる。は、1938年(昭和13)ごろに作成された「火保図」。目白会館の「目」の字が欠落している。
■写真中下は、矢田津世子の下落合引っ越しルート。は、目白駅近くに建てられていた文化アパートのホール。おそらく集会や娯楽施設など、多目的用に造られたホールだろう。
■写真下は、矢田が病没してから3年後、1947年(昭和22)の下落合1982番地。空襲で焼けておらず、矢田邸がはっきりとらえられている。上空から見ると、山手通りと1982番地は平面のように見えるが、山手通りは丘を崩し深く掘削されて造成されているので、矢田邸の東側は絶壁だ。は、同所の現状。山手通りの拡幅工事にともない、通り側がさらに削られてしまった。

この記事へのコメント

  • ナカムラ

    矢田津世子の2015番地への短期間の引越しは道路の拡幅に伴う屋敷の一部移動建て直しだったような気がしましたが、そうでなければ大和生命社長だった兄上の屋敷立替えに伴うものであったような記憶があります。いつもながら資料にあたらずに書いているので・・・危険ですが。坂口安吾の矢田への思いは凄いですよね。
    2008年01月04日 13:06
  • ChinchikoPapa

    ナカムラさん、コメントをありがとうございます。
    建て替えによる一時期の仮住まいという可能性は、かなり高いですよね。このところ、宮下琢郎の「落合風景」作品の描画ポイント特定と、A邸のおばあちゃんの記憶に残る李香蘭邸探しとで、現地取材やこのあたりの地図と山手通りの計画図とに首っ引きなのですが、道路計画の予定コースを点線で図版へ描き入れるのに、下落合1982番地の矢田邸を1/5ほど含めるべきか、あるいは邸をかすめて描くべきか迷ってたりしました。邸建て替えの仮住まいととらえると、9ヶ月だけの移動というのもスッキリしてきますね。お話としては、ストーカー避けのほうが面白いのですが。(笑)
    本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
    2008年01月04日 16:34
  • ChinchikoPapa

    いつでしたか、いまの日常言葉に残る刀剣用語という記事を書いたことがありますけれど、いまに残る大工・左官用語というのを調べてみるのも面白そうですね。nice!をありがとうございました。>一真さん
    2008年01月04日 16:39
  • ChinchikoPapa

    いつもお読みいただき、ありがとうございます。>デザイン屋さん
    2008年01月05日 00:13
  • ChinchikoPapa

    蕎麦打ち、楽しそうですね。わたしもやってみたくなります。
    nice!をありがとうございました。>Krauseさん
    2008年01月05日 00:14
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2009年10月05日 13:34
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
    2019年12月16日 11:42

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