根津は楽しいオバケ街。

 久しぶりに、根津へ出かけてきた。根津教会(1919年築)での「写真展」Click!以来だから、9ヶ月ぶりぐらいだろうか。根津という街は、関東大震災Click!ではほとんど被害を受けておらず、また東京大空襲Click!でも焼け残ったところが多い。根津教会も、また根津権現社(元は須賀明神社)もじっくり観たかったのだけれど、いちばん訪れたかったのは根津教会の西側にあたる急斜面、東大地震研究所のある崖線(バッケ)に通う「オバケ階段」だ。
 根津権現は不思議な社で、あとからの付会らしい逸話を差し引いても、1900年前(!)からなんらかの聖域だったという伝承が連綿とつづいている。1900年前というと弥生時代だ。もともと古い社があったようだが、太田道灌が文明年間(1469~1487年)に再建したことになっている。さらに、江戸期になると五代将軍・綱吉によってリニューアルされ、現在の境内に近い殿配置が整えられた。崖線(バッケ)沿いで泉が湧き、“弥生”時代という名称の由来となった旧・本郷区の弥生町にも接しているので、もともと弥生末期の古墳跡に建立されたのでは?・・・と、すぐにも疑いたくなる。はたして目白崖線沿いの湧水地帯と同様に、このような地形、つまり川筋(藍染川→不忍池)で砂鉄を採取するカンナ(神奈)流しが行えそうな場所で、山の急斜面に溶炉(鋳成→稲荷)や炭焼窯、さらに鍛冶場(火床の荒神→庚申)を設置しやすいところに奉られているのは、“お約束”どおり出雲神だ。
 
 根津権現のいまの主柱は、スサノオということになっているのだが、旧記によればオオクニヌシ(オオナムチ)が主祭神だった時代もあったらしい。なぜか途中で、同じ出雲神同士の主柱が入れ替わっているところが、根津権現のめずらしい特徴だ。もっとも根津権現は、須賀明神と称していたのだから、本来なら一貫してスサノオを奉るのが“正解”だと思うのだけれど、不思議なことに江戸期以前のどこかでスサノオとオオクニヌシとが入れ替わっていたらしい。それを江戸期に元へもどした・・・ということなのだろう。須賀明神の名残りは、根津須賀町として少し前まで残っていた。
 根津権現の門前は、幕府から1706年(宝永3)にめずらしく廓郭を特許公認された街として発展した。この廓郭は、1888年(明治21)に洲崎へ移転となるまでつづいている。明治期、このあたりには廓をはじめ茶屋や「草津温泉」が建ち並び、帝大の学生たちがよく出入りしていたことは、以前に春の家おぼろ(坪内逍遥)の『一読三嘆当世書生気質』を引用してご紹介Click!している。
 根津権現の境内は、湯島天神の境内Click!と同様に、退屈でたいくつで死にそうClick!な新派の舞台、泉鏡花の『通夜物語』に登場している。わたしは子供のころ、この舞台を初代・八重子の丁山で観たのか観なかったのか、いずれにしても新派は強烈な入眠剤だったのでまったく憶えがない。1929年(昭和4)に市村座で上演された、喜多村綠郎と伊井蓉峰のコンビが大当たりをとったということだけれど、わたしのまったく知らない世界だ。
 
 記憶も定かでない新派の舞台はさておいて、根津といえばオバケの話がふんだんにある、とっても楽しい街だ。まずは、三世・河竹新七が中国の逸話に取材して書いた『牡丹燈籠』が、根津ではピカイチで有名だろう。根津清水町に住んでいた浪人・萩原新三郎のもとへ、お嬢様のお露とばあやのお米がカランコロンカランコロンと、下駄の音を響かせながら訪ねてくる。このお嬢様とばあや、どこかでいつも大騒ぎしてるふたりClick!とは違い、静かでつつましやかだ。
 ・・・カランコロン、・・・カランコロン
 「ねえ、お嬢様~。ついでに、谷中銀座へ寄ってきましょうよう」
 「わたくし、少しでも早く新三郎様にお目にかかりたいの」
 「では、ついそこの、よみせ通りでもよござんすから」
 「ねえ、ばあや、うなぎ屋Click!などに寄ってるヒマなどないの」
 「おや、どうしてでございます?」
 「だって、わたくしたち新盆がすぎたら、あの世へ旅立たなければならないのよ」
 「ですから、死ぬ前に一度・・・」
 「もっ、もう死んでいます!」
 「こんな老い先短い年寄りが、お頼みしてるてえのに・・・。うらめしや~、・・・うなぎめしや~」
 「ねえ、ばあや。あなた、どこかの悪い霊に、取り憑かれてるのではなくて?」
 お札が貼られている障子戸の前で、恨めしそうに「新・三・郎さまぁ~~・・・」と呼びかけるお露さんは、ゾクゾクするほど美しい。
 円朝の十八番(おはこ)だった、『真景累ヶ淵』の豊志賀の家も根津七軒町にあった。円朝の噺に、根津や池之端を舞台にした怪談が多いのは、この谷間がことさら不気味だったからではなく、自分がもっとも親しみ馴染んだ街だったからに違いない。
 さて、かんじんのオバケ怪談、いや「オバケ階段」のことを書き忘れてしまった。丘上の旧・水戸徳川家の中屋敷、現在は東大の地震研究所やグラウンドがあるバッケの急斜面に、人影もまばらな「オバケ階段」はひっそりと通っている。根津の谷間へと下りるには、ひとつ南側にある明るい坂道、「異人坂」を利用する住民のほうが昔から多かっただろう。ただし最近、階段の拡幅が行われ、もともとは樹木が繁るうっそうとした1本の細い階段だったものが、いつの間にか2本に“複線化”されている。しかも、もともと登り口から見て左手にあった塀が壊されてマンションになってしまい、右手は樹木が伐られて土の斜面がむき出しなのか、崩落防止の不粋な青いビニールシートで覆われていた。
 
 この地形は、明らかにバッケ(崖線)状をしているので、本来は「バッケ坂」あるいは「バッケ階段」と呼ばれていたものが、他の東京各地に残る名称と同様に、急斜面の森中を通る細道なので、「オバケ坂(階段/道)」へと転訛したように思える。いまでは、すごく明るくなってしまった「オバケ階段」。どこに出ようか、オバケたちも困惑しそうだけれど、ひょっとすると名前の由来には、明治期の円朝噺からの影響もあるのかもしれない。

■写真上:本郷台地の崖線下にある根津には、下落合とまったく同様に庚申(荒神)と稲荷(鋳成)と出雲神がセットになって残る。根津権現の境内にある、手前が庚申塔で奧の赤い鳥居が稲荷。
■写真中上は、根津権現社の楼門。は、1950年(昭和25)ごろの同門。本殿のみが空襲で全焼しているが、この楼門は戦災をまぬがれ江戸期のままだ。
■写真中下は、1861年(万延2)に作成された尾張屋清七版の「小石川谷中本郷絵図」。根津教会が、元・根津権現の神主屋敷の跡に建っているのがおもしろい。は、泉鏡花『通夜物語』の舞台写真で、1929年(昭和4)ごろに撮影されたと思われる。「玉川清」役は伊井蓉峰、「丁山」役は喜多村綠郎で、ともに往年のわたしの知らない新派の名優たちだ。
■写真下は、オバケ階段の現状。は、1984年(昭和59)ごろのオバケ階段上空。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    いつもお読みいただき、ありがとうございます。>Krauseさん
    2007年12月03日 18:25
  • ChinchikoPapa

    過分のご評価を、ありがとうございました。>xml_xslさん
    2007年12月03日 18:26
  • ChinchikoPapa

    拙い記事をお読みいただき、ありがとうございます。>takagakiさん
    2007年12月03日 18:26
  • ChinchikoPapa

    ごていねいに、いつもnice!をありがとうございます。>一真さん
    2007年12月03日 22:50
  • ponpocopon

    TBありがとうございます。
    明るく複線になったオバケ階段は自転車には便利そうですね。防犯には明るいほうがよいのでしょうが、名前のイメージとあまりに離れてしまってつまらないですね。学校の怪談話のように数える度に数が違ったりすれば明るくてもオバケ階段ですが・・・。
    2007年12月03日 23:43
  • ChinchikoPapa

    ponpocoponさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    根津は落ち着いたいい街ですね。近くの千駄木は団子坂上にある、日本ナショナルトラストが保存・公開している旧・安田邸にも寄ってみました。まあ、大正時代の和館は寒いこと。(汗)
    学校の怪談に、昇るときと降りるときの段数がちがう「オバケ階段」というのがありましたね。降りるときは12段なのに、昇るときは13段ある「魔の階段」・・・って、それ単に数え間違いをしているだけなのですが。(爆!)
    2007年12月04日 12:59
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。
     >チャッピィーさん
     >sigさん
     >kurakichiさん
    2011年02月10日 12:15

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