清水川50番地あたりの高田馬場仮駅。

 

 関東大震災Click!から数年をすぎると、東京では「帝都復興地図」なるものが盛んに作成されていたようだ。新たに測量がしなおされ、震災前とは異なる最新のデータが反映されたものだろう。改訂を重ねていく一般の地図類(地形図など)ではなく、「復興地図」をまとめて調べていたら、偶然に西武電気鉄道の高田馬場仮駅の記載がある地図を見つけた。1929年(昭和4)に作成されたとされる、「帝都復興東京市全図」の戸塚・高田界隈のマップだ。
 でも、同時期に作成された「豊多摩郡落合町全図」(1929年)には、西武電鉄はすでに山手線をくぐり抜け、高田馬場駅へと乗り入れているように描かれている。「落合町全図」のほうが、地元への密着度が高いので、おそらく同年には山手線の高田馬場駅までの乗り入れが完了していたのだろう。「帝都復興東京市全図」のほうは、おそらく前年(1928年・昭和3)ごろの姿だと思われる。
 この時期、下落合駅は氷川明神の際(下落合904~932番地)にあり、いまだ西へと移動Click!してはいない。落合町の内田助五郎と福室郷次をはじめ、14人の有志たちが集まって西武鉄道へ働きかけ、下落合駅が現在地へと移動するのは1930年(昭和5)7月3日からだ。このあたりの事情については、1932年(昭和7)に発行された『落合町誌』Click!に収録されている。つまり、下落合駅と高田馬場仮駅はこのとき、わずか200mしか離れていなかったのだ。
 さて、地図を見ると、当時の高田馬場仮駅はちょうど栄通りの裏手、現在の清水川橋あたりに存在していたことがわかる。番地でいうと、戸塚町字清水川50~59番地あたり。当時は神田川の整流化工事がなされておらず、川筋が北へと大きく蛇行しているエリアだ。このあたりの地番は、のちに大半が“水没”することになる。また、栄通りから清水川橋へと入る道筋そのものが、文字通り清水川が流れていた川筋跡を埋め立てたものだ。
その後、高田馬場仮駅は神田川をわたっておらず、下落合15~16番地あたりに設置Click!されていた可能性が濃厚となっている。
 
 仮駅の西北側では、わざわざ神田川へ鉄橋を渡して線路を引いているのがわかる。ただし、現在の西武新宿線の線路とは、まったく異なるラインで線路が敷設されていた。おそらく、氷川明神前の下落合駅付近から、一気に南東へ折れ曲がっているのだろう。仮駅が置かれたあたりは、旧・清水川が埋め立てられた跡地の北側に接している。
 「帝都復興東京市全図」には、おかしな表現もみられる。早稲田通りへと合流している十三間通り(新目白通り)計画が、大正期にはすでに拡幅・鉄筋コンクリート化を終えていた田島橋Click!を経由していないことだ。(同地図の田島橋も、やたら小さく描かれている) 西武電気鉄道の初期終端だったと思われる、氷川明神前から物資をトラックに積んで田島橋を経由し、一気に戸山ヶ原へと運搬しようとしていたらしい道路計画が、同線が客車運行をはじめたことで、計画そのものが見直されたものか。氷川前の「下落合駅」(もちろん当初は駅などなかった)さえ意識しなければ、十三間通りはなにがなんでも三越染物工場の前から田島橋をわたる必要はなくなってくる。
 そうすると、1933年(昭和8)に作成された、田島橋を経由した十三間通りの予定コース入りの「淀橋区全図」は、古い道路計画図を踏襲していたことになる。なぜなら、1929年(昭和4)の「帝都復興東京市全図」と、1935年(昭和10)に作成された「淀橋区詳細図」とを比較すると、十三間通りの計画予定ラインがピタリと一致しているからだ。
 以前から、清水川橋あたりの複雑で不自然な道筋が気になっていたのだけれど、蛇行していた神田川を直線化したためだ・・・と、漠然と考えていた。でも、北西から南東へ鉄道が横切っていたことを考え合わせると、斜めのおかしな敷地や道筋のナゾも解けてくる。また、戸塚町と落合町との境界も複雑で、当時は戸塚町だった同エリアは、現在では下落合1~2丁目になっている。特に、清水川橋の北側は、旧・神田川の曲線に沿って、下落合1丁目の飛び地となっている複雑さだ。
 
 西武電鉄の高田馬場仮駅から、山手線の高田馬場駅まで歩いて2分ほどの距離感だが、下落合の地元に残る「当初の終点・下落合駅から歩いて5~6分」という伝承や距離感とは、相変わらず一致しない。高田馬場仮駅と仮設線路ができるまで、下落合駅が終点だった時期が、ほんのわずかな期間だが存在していたものか。
その後の取材で、高田馬場仮駅は山手線土手の東側にももうひとつ設置されていることが判明した。地元の住民は、「高田馬場駅の三段跳び」Click!として記憶している。

■写真上は、現在の神田川北岸の高田馬場仮駅があったあたり。は、仮設線路が通っていた清水川橋の北側。いまでも線路跡らしい、斜めの区画や道筋を見ることができる。
■写真中:1929年(昭和4)に作成された「帝都復興東京市全図」。戸塚町と高田町を中心にしており、残念ながら下落合駅方面の左側が切れている。
■写真下は、1929年(昭和4)の「豊多摩郡落合町全図」。西武電鉄は現在と同様、すでに山手線のガードをくぐって描かれている。は、北へ蛇行していた旧・神田川のあとに造られた道路。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    takagakiさん、いつもお読みくださりありがとうございます。
    2007年11月27日 11:04
  • かもめ

    3連休に那須の板室温泉で膝の養生をしてきました。JR高速バスで東京=那須を往復です。
    行きは東京駅を出て、隅田川沿いを北上、久々に隅田川をじっくり眺めました。水上バスや屋形船が行き交い、さすがに大川、広々しています。何でも投げ込みたくなるわなぁ。 ^-^ヾ
    昔々は幹線道路だったわけですね。小さな川や広がる町並みの向こうに富士山がみえました。浮世絵みたいです。
    帰りは王子駅あたりから新宿に出ました。明治通りはこんなに狭かったんですね。みなビルの陰で、はっきりわかったのは花園神社くらいでした。
    地名も道筋も昔と変わっていますけど、東京はぎっしり詰めた、大きな箱庭みたいですね。
    2007年11月27日 12:01
  • Takamine

    お久しぶりにコメントさせて頂きます。
    ようやく、長年の私の疑問の核心に迫る調査が始まり(笑)、息を呑むようにして何度も記事を読み返しております。たいへん良く調査なされたようで、頭の下がる思いでおります。
    しかし、もはや何が正解でどういういきさつがあったのか、真相はまさに歴史に埋もれてしまいそうなトピックですね・・・。これだけ調べられた後でも、相変わらず謎の部分もありますし・・・。
    何はともあれ、本当にありがたい記事でした。これからも期待しております。
    2007年11月27日 16:22
  • ChinchikoPapa

    かもめさん、コメントをありがとうございます。
    板室温泉は、膝関節に効くのでしょうか。わたしは、高校時代にラグビーでタックルされて落ちた左膝が、いまだ厳冬になるとシクシク痛み出します。
    大川に富士山、いいですねえ。(^^ ユリカモメの群れも飛んでいたでしょうか。おそらく60年代あたりからのTVアナウンサーの常套句に、「都心からは富士山がなかなか見えなくなりましたが」・・・というのがありますけれど、最近、新宿からもやたら富士山の姿を目にします。机上で原稿を作るのではなく、ちゃんと外の現場で取材をして、事実を報道して欲しいものです。(^^;
    先日、こちらに掲載しました空中写真を眺めてますと、おっしゃる通りレゴブロックのおもちゃ箱をひっくり返した箱庭のようですね。ちょっと目障りな高めのレゴを、手をのばして取り除きたくなりますけれど。(笑)
    2007年11月27日 16:25
  • ChinchikoPapa

    Takamineさん、ご丁寧なコメントをありがとうございます。
    わたしも、調べれば調べるほど、ますますわけがわからなくなってきます。(笑) ひとつ言えることは、この不可解さというのは、正常あるがままに事実を重ねて記録していく、あるいは人々が目前の事実を素直に記憶していったものであれば、おそらくこれほどの乖離や齟齬は生じてこないだろうと思える点です。なんらかの、無理な作為や人為的な「化粧」が施されているからこそ、初めて生じる“混乱”のように思えるのですね。
    先年、建設工事中に731部隊の人体標本らしい人骨が見つかり、改めて注目を集めた戸山ヶ原の陸軍施設ですが、新宿のもうひとつの顔は「軍都」でもあったわけで、いったいどのような事実が隠されているものか、いまとなっては充分にたどり切れないもどかしさを感じますね。
    2007年11月27日 16:50
  • ChinchikoPapa

    komekitiさん、いつもお読みいただきありがとうございます。
    2007年11月27日 21:58
  • ChinchikoPapa

    一真さん、nice!をありがとうございました。
    2007年11月27日 21:59
  • ChinchikoPapa

    xml_xslさん、ご評価をいただきありがとうございます。
    2007年11月27日 21:59
  • かもめ

    膝や関節痛には良いですよ。
    板室温泉は昔々より「杖忘れの薬湯」といわれ、下野の里人が農閑期に療養するところです。今回のホテルも長期になるほど割引料金で、なかには1ヶ月も滞在される方がいらっしゃるそうな。クセはないですが、江戸っ子にはちとヌルいかもしれません。(笑)
    都鳥といえば、いざ言問はむ都鳥・・・の歌が思い浮かびますけど、寒風に身を丸めて岸に集う姿には、「尋ねきて問はば答へよ都鳥 隅田川原の露と消えぬと」の、梅若丸の哀れな姿のほうが似合うような気がします。
    浅草界隈にも師走の喧騒が訪れるころですね。言問団子が食べたいな。(食いしんぼのかもめ)
    2007年11月28日 14:34
  • ChinchikoPapa

    湯治場のようなホテルで、ちょっと惹かれてしまいますね。
    いまのところ、杖はつかずに済んでいますけれど(笑)、先日、下落合の坂道(特に傾斜角が急な「西坂」という道です)を駆け下りていたら、腰のあたりがギクッとして少し痛めてしまいました。明日、そのギクッとしたときの取材記事をアップする予定です。(^^; かなりの運動不足ですね。
    都鳥は、いまごろ大川沿いの清澄庭園や安田庭園あたりの陽だまり池に、たくさん群れているのでしょうね。カモたちに混じって、エサを横取りするユリカモメです。もっと寒くなりますと、神田川をさかのぼってきて、面影橋あたりまで群がやってきます。わたしはどちらかといいますと、写真を撮らずにパクついてしまいました、「長命寺」のほうが心残りで・・・。(笑)
    2007年11月28日 16:41
  • ChinchikoPapa

    そのほか、たくさんのnice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2009年06月14日 16:58

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