「正史」と地元の記憶とのはざまに。

 

 Webログをスタートしてから、24日で丸3年がたった。正直、われながらよくつづいていると思う。子供のころから、夏休みの日記だって1週間とつづいたためしはないのだ。いつだったか、「ローカリズムを突き詰めると、いつしかインターナショナリズムに転化する」・・・というテーマを、映画分野の表現法Click!にからめて書いたことがある。この伝でいけば、目白・落合地域に眠る物語を、ひとつひとつ発掘し連鎖させていくと、期せずして日本近代/現代史を中心とした「日本史」そのものになってしまう・・・ということに気がつくのだ。
 それは、より細かく分ければ政治史だったり、美術史だったり、あるいは経済史、思想史、文学史、演劇史、建築史、民俗/風俗史、生活史だったりするわけだけれど、その集大成あるいは抽象・捨象化の過程がいわゆる「歴史学」の一般化作業だとすれば、この地域をめぐる伝承や物語は「日本史」のプラットフォームであり、かけがえのないナマの一次情報としての基盤そのものといえるだろう。いや、それは目白・落合地域に限らず、わたしの日本橋でも大磯でも、また鎌倉でも、日本のあらゆる地方・地域に眠る物語を同様にドリルダウンして連鎖させれば、狭い「地域史」を超えた、教科書的ではない新たな「日本史」が姿を現わすかもしれない。
 先日、慶應大学からお招きClick!をうけたとき、西武新宿線に関わる面白いお話をうかがった。下落合には、西武電気鉄道が開通する以前の大正期から、線路はすでに敷かれ貨物線として利用されていた・・・という伝承が根強く残っている。ところが、「正史」では西武電鉄が開通するのは1927年(昭和2)4月で、それまでは下落合に線路は“存在しない”ことになっている。「公」の記述としては、千葉(津田沼)の陸軍鉄道第二連隊が「演習」用と称してきわめて短期間(約3ヶ月!)に線路を敷設したあと、西武鉄道へ払い下げられた・・・ということになっているようだ。しかし、すでに大正末には線路の敷設を終え、当初は軍用貨物の輸送線として運用されていたのではないか?・・・という、やはり疑義を研究会のメンバーの方からうかがった。
 
 西武電鉄の“終点”である、埼玉の川越あたりから物資を運搬するのが、西武電鉄開業前の線路の役割だったとすれば、大正末に貨物列車が走る下落合の目撃証言ばかりでなく、他のさまざまな記録や計画、証言などとも多くの点でツジツマが合ってくる。客車運行の駅が存在しない線路上で、住民たちが目撃した貨物列車は、実は陸軍の軍用貨物列車だった・・・ということになる。これらの貨物の行き先は、もちろん広大な戸山ヶ原に展開していた陸軍の巨大な施設群だったろう。
 このような仮説に立つと、他の証言や記録と符合することがいくつも出てくる。まず、当初は「志もおちあひ」が終点であり、高田馬場駅(当初の“仮駅”含む)には乗り入れていなかったという証言。大正末から軍用貨物線として使われていたとすれば、当然のことながらできるだけ衆目に触れにくい輸送を考慮しただろうから、山手線に近接して“終点”を設定するなど論外だ。また、当初予定された十三間道路(現・新目白通り)の建設計画の記録。なぜか、環5(明治通り)へと合流する放射状道路として計画されず、氷川明神前にあった下落合駅(当初の終点とされる終端位置)から急に南下して、早稲田通りへと合流してしまう不自然な点。なぜ神田川に架かる田島橋だけが、片側2車線ほどの大型橋へと新造・巨大化しているのか? 田島橋Click!の拡幅・鉄筋コンクリート化は、早ばやと大正末にはすでに完了していたという計画のすばやさだ。
 「終点」だったとされる下落合駅前へ陸軍の調達物資を下ろし、トラックで十三間道路から特別強固に拡幅・補強された田島橋を経て、省線の高田馬場駅のあたりから早稲田通りへと入れば、あとは戸山ヶ原のどこへ入りこむのも一直線でたやすい。では、陸軍が敷設したこの線路上を、軍用貨物列車はなにを運んでいたのだろうか? 東村山さらに川越から先にある“モノ”を想定すれば、おのずと答えは見えてくる。大正末から昭和初期にかけて、いっせいに建築がはじまった戸山ヶ原の圧倒的なコンクリート建築群Click!。秩父で生産された、膨大なセメントとその関連物資だ。
 
 国(内務省)が発行する1926年(大正15)前後の地図には、のちに西武電気鉄道となる線路は存在しないことになっている。そこには、東京電燈谷村線の高圧鉄塔のラインが描かれているだけだ。もちろん、戸山ヶ原全域の陸軍施設も詳しくは描かれておらず、おおざっぱな描画にすぎない。しかも、戸山ヶ原の「白地図」化と「文字なし」化は、1945年(昭和20)の敗戦までつづく。地図の専門家間でよくいわれる、いわゆる地図へ「化粧する」という作為編集だ。田島橋にも、同様の「化粧」が「公」の地図にはほどこされている。すでに田島橋は4車線ほどの幅をもつ巨大な橋梁と化していたのに、敗戦になるまで他の橋と同じ小橋として描きつづけられた。でも、地域に密着した地図、たとえば1926年(大正15)10月までに作成された「下落合事情明細図」には、停車場が存在しない線路と、鉄筋コンクリート製となった大きな田島橋が、すでにしっかりと描きこまれている。
 いや、一致しないのは鉄道や橋ばかりではない。国の地図に描きこまれた道路のかたちも、当時の実際の姿とは異なっていることがわかる。研究会で指摘されていたのは、二ノ坂上部の坂のかたちが土地台帳や、いわゆる地籍の“公図”とまるで一致していないことだ。佐伯祐三Click!が、のちに「遠望の岡?」Click!とみられる風景を描いた、アビラ村のまさにその描画ポイント。屈曲する道が、まるで直線道路のように「化粧」されてしまっている。
 国や「公」とこの地域との齟齬こそが、消されてしまい、なかったことにされてしまった史実ではないだろうか? 公的な発表ではゴマカせても、その現場にいて生活している地域住民の目まではゴマカすことはできない。いくら大本営が全国へ向け東京大空襲Click!は「盲爆」で、マスコミが損害は軽微だと発表しても、東京下町の住民の目には「バカをいうな!」と、目前の事実が見えていたのと同様のケースだったのではないか。当時の国が、そして軍がひた隠そうとする史実の一端が、地域史では期せずして浮かび上がってくる一例のように思える。慶應大学の研究会では、実に貴重な多くのことを学ばせていただいたと思う。
 
 先週、このサイトへのアクセス数が83万人を超えた。コメントをお寄せくださった方々から拝察するに、地元の目白・落合界隈の方ばかりでなく、また東京の(御城)下町Click!からの方ばかりでもなく、実際には日本各地からアクセスいただいているようだ。にわかに信じられない、めまいを起こしそうなアクセスカウントだけれど、3周年ということで、ここに改めてお読みいただいているみなさまへ、深くお礼申し上げるしだいです。<(__)>

■写真上は、当初の下落合駅があった氷川明神社前あたりの現状。この駅を、西の現在地へと移転する町内運動も起きた。は、大正末にはすでに拡幅・コンクリート製となっていた田島橋。
■写真中は、大正末の「早稲田・新井1/10,000地形図」。下落合の神田川・妙正寺川沿いに鉄道は描かれておらず、東京電燈の谷村線のみの記載が見える。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」。停車場が存在しない鉄道が、現在の西武新宿線の位置へすでに描かれている。
■写真下は、当初の下落合駅前から田島橋を経て、早稲田通りへと合流するように計画された十三間通りの、1933年(昭和8)時点での完成予想図。もちろん、下落合駅はすでに氷川前から西へと移動し、戦後の道路計画は山手線をくぐり明治通りへと合流するように変更される。の巨大なコンクリート構造物は、戸山ヶ原に建設され当時は「東洋一」とうたわれた陸軍の戸山ヶ原射撃場の全景。(戦後のB29による空中写真より) 早くから射撃場は存在したが、大正期になると周囲に住宅街が押し寄せて騒音苦情が出たため、昭和初期(1929年完成)に射撃場全体を巨大なコンクリートで覆った。戸山ヶ原では第一衛戌病院とともに、もっとも大量のセメントを必要とした構造物だろう。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    いつも、ご覧いただきありがとうございます。>Krauseさん
    2007年11月25日 21:56
  • ChinchikoPapa

    ご評価いただき、ありがとうございました。>一真さん
    2007年11月25日 21:57
  • ChinchikoPapa

    ある方から、完成直後の「近衛師団小銃射撃場」の写真(上)を、お送りいただきました。手前に立つ人間の大きさに比べ、いかに巨大なコンクリート建造物だったかがわかります。また、下の写真は、わたしの手元にあったもの。周囲の家々の大きさと比べても、その規模が想像できます。
    東京オリンピックのころまで、射撃場廃墟の一部は壊されずに残っていました。現在は、新宿区のコズミックセンター(旧・区立体育館)と早大の理工学部(旧・医学部予定地)、西早稲田中学校、財務局西大久保住宅、戸山公園、新宿北局などに敷地が分割されています。
    2007年11月26日 13:13
  • ChinchikoPapa

    いつもお読みいただき、ありがとうございます。>takagakiさん
    2007年11月26日 13:14
  • ChinchikoPapa

    またまたご評価いただき、ありがとうございます。>komekitiさん
    2007年11月26日 15:43
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
    2014年03月25日 17:06
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>さらまわしさん
    2020年09月19日 21:32

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