長谷川利行ほど、伝説に彩られた洋画家はほかにいないだろう。もう、彼の存在そのものが伝説めいてさえいる。以前、1930年協会の外山卯三郎Click!が書く文章のわかりにくさについて触れたけれど、さらに輪をかけて頭が真っ白になってしまう文章を書くのが、伝説の“フーテンとしゆき”こと長谷川利行だ。長谷川は、新宿界隈にもやってきて数多くの作品を残しているけれど、画家たちが集合していた下落合へ足を踏み入れた形跡はない。
佐伯祐三がパリで死んだ翌年、1929年(昭和4)に発行された『アルト』2月号に文章を寄せている。特に追悼文というわけではなく、1930年協会の第4回展の特別陳列で、佐伯作品を鑑賞したあとに書かれたもののようだ。長谷川が佐伯の絵について論評した、数少ない貴重な文章なのだが・・・。短いので、全文引用してみよう。
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それは緊密でありまして、混同を避けしめるコースがあります。均衡は感激の外に表はす志向をもち合せませんから、カリテエは素朴の美で、相克の影響は純粋であればあるほど正気的のものから不変であるところのものを掴み出します。
内部構成の不撓さに、外観的な色、マツスの混合をば、いま一度、脳裡で、可能力で構成されて居ます。類推でない、諧調との距離へ、一つの階程をば、フユリズムの方向へ反発されて居ます。内部よりの速やかさであればあるほど、均衡からであればあるほど、そういった自己意志で、構成は組織を探索します。焦却せられんとします。精神的空間の覆は取除かれまして精神力の過大なる影響は雛向するところの、百点余の作品に就て収覧せねばなりません。
列序としまして、真面目不真面目といふことは、構成的形而下にありまして、創めて用ひられます重大なる使命的寛容であります。真面目さとは、表面内部動衡の生命消費高でなくて、構成芸術上復帰すべきものであります。
均衡のカンチテには、コンセプシヨンが置かれてあります。
(長谷川利行「佐伯祐三氏の作品を見る」より)
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二度と読む気が起きない文章を、わざわざ入力してしまった。(爆!) 外山卯三郎の大学出たての青い文章のほうが、なんとわかりやすくて平明に感じてしまえることだろう。もともと歌人でもあった長谷川利行は、文章の意味などはうっちゃっといて、その音や文字面のかたちに執着していたのではないか?・・・と思えるほどだ。文章を読み上げたとき、そこに響く音さえ(自分にとって)美しければ、あるいは文面を見たときに漢字かな混じりのかたちが(自分にとって)きれいであれば、文意など二の次だったような気がしないでもない。佐伯が生きていたら、「あのな~、長谷川はんなあ~、なにゆうてんのんかわからへんし。わしにもようわかるよう書いてや・・・」と言ったにちがいない。
彼は新宿にもやってきて、絵を描きまくっていった。作品が仕上がると、買い上げてくれるパトロンがいるときはいいのだが、いないときには友人知人を訪ね歩いては絵を押し売りして歩いた。絵を買ってくれるまで絶対に動かないのだから、商品としての作品があるとはいえ、当時さかんに下落合でも行われたリャクClick!に近い行為だったのだろう。30銭50銭で棄てるように置いていったそれらの作品が、戦後にきわめて高い評価を受けることになるなど、当時の人々は想像だにしえなかったにちがいない。長谷川が交番の巡査にまで、作品を押し売りしていた話は有名だ。彼の姿を見るや、警官は急いで物陰に隠れたのではないだろうか?
新宿時代の長谷川利行の容貌について、パトロンのひとりである高崎正男(天城俊彦)はこう表現している。高橋は、のちに武蔵野館の斜向かいで長谷川を売り出すための天城画廊を経営することになるが、画廊は数年でつぶれてしまう。ヨシダ・ヨシエが、匠秀夫編『異端の画家たち』(求龍堂・1983年)の中で取材した文章から引用してみよう。
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(長谷川は)身のたけ五尺五、六寸もある、巷のほこりを堆積した蓬々たる頭髪、生えるに任せた口髯は世苦の暗さを持ち、額の特別な広さの下に一見優しい眼の、しかし尖鋭に光る眼光を持った大男である。そして都会の下層生活者の持つ特異な赫黒い皮膚をしている。一言にして評ずれば、かの平福穂庵の描いた乞食図の再現であった。 (ヨシダ・ヨシエ「長谷川利行」より)
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長谷川は死ぬまで、ドヤ(簡易旅館)やボクチン(木賃)、アンパク(安泊)、ヤキ(木賃宿の略)などと呼ばれたところを転々とし、最後には行路病者(病気の浮浪者=行き倒れ)として板橋の東京市養育院第5病棟で、世間が紀元2600年の祝祭典に浮かれる1940年(昭和15)10月12日に息を引きとった。うちの父方の祖父母もそうだけれど、関東大震災で大きなショックを受けた彼にしてみれば、東京大空襲Click!を知らずに死んだのはかえって幸福だったのかもしれない。
息を引きとるまで、養育院を脱走して街へ出ようともがいていた彼を駆り立てていたものは、いったいなんだったのだろうか? 長谷川利行の生年は1891年(明治24)とされているが、養育院で死亡したときには享年50歳ぐらいと伝えられている。
■写真上:左は、長谷川利行『新宿武蔵野館附近』(1936年・昭和11)。右は、新宿を代表する映画館のひとつ新宿武蔵野館で、いまも映画館として存続している。
■写真中上:左は、20代の長谷川利行。右は、長谷川が彷徨した昭和初期の新宿通り。右側に伊勢丹(旧・ほていやデパート)、左側には1930年(昭和5)に開店した新宿三越が見える。
■写真中下:左は、『新宿風景』(1937年・昭和12)。右は、伊勢丹デパートの界隈。
■写真下:左は、『新宿風景』(制作年不詳)。右は、新宿三越。(人着の「大東京絵はがき」より)
この記事へのコメント
ものたがひ
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしも、利行は佐伯作品を気に入って、この文章を書いているのだと思います。おそらく、気に入らない絵のことなど、そもそも書かない=批判しない性格のような感じがしますね。あくまでも、意味不明なので“感じ”ですが・・・。(^^;
ChinchikoPapa
長谷川利行の『陸橋のみち』画像とともに、下記の記事へ追加いたしました。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2007-06-01
krause
komekiti
当時の東京の綺麗さに吃驚です。モノクロ写真に着彩を施した物なのでしょうが、当時の東京って想像以上に綺麗な町並みをもっていたんですね。
ちなみに、一番上に掲載されている画伯の論評は
僕には読解することが出来ません(´;ω;`)
いったいどういったことを仰っているのでしょうか?
ChinchikoPapa
実はまだ仕事中で、夕食前だったりします。(^^;
ChinchikoPapa
関東大震災から数年ののち、「震災復興記念絵はがき」のブームがあったようです。きっと、東京から地方へ発信する際、あるいは地方から東京へ来た人たちのお土産絵はがきとして、当時流行ったんでしょうね。
モノクロ写真に人着しているのですが、このころの人着技術はかなり高度になっていたのがわかります。明治期には、写真屋さんに人着職人を置いていたと聞きますけれど(光線画の小林清親も、もともとは人着職人でしたね)、昭和初期には人着技術だけのデザイン事務所が存在したのではないかと思います。目白文化村の人着絵はがきも、大正期にしては非常によくできています。
わたしも、長谷川利行の文章は、いったいなにが言いたいものかサッパリわかりません。(汗)
最後になりましたが、nice!をありがとうございました。
sig
長谷川利行の文章、Chinchikoさんでも分からないと聞いて、ホッとしました。(笑)
彼のように自分の生き方に確信を持ち(自身の絵に対する自信も含めて)、自分に正直に生きることを貫き通すことは、到底凡人には出来ません。やはり天才だったのではないでしょうか。
これほど個性の強い人物を映画にしたら、面白そうですね。彼を取り囲む文化人も絢爛豪華ですし。Chinchikoさん、いかがですか。
ChinchikoPapa
長谷川利行の画評は、まだまだほかにもあるのですが、かろうじてなんとなく意味が理解できないでもない・・・かな?・・・というものと、まったく意味不明のものとがありますね。「自己完結」した自身のコトバを駆使するせいか、「翻訳」が必要だと思うのですけれど、わたしはいまだ「翻訳文」を見たことがありません。(笑)
佐伯祐三もおかしくて謎だらけの人物ですが、長谷川利行はそれに輪をかけて、性格といい経歴といいわからないとこだらけです。展覧会の図録や画集の年譜が、なかなか作ることができなかったのもわかるような気がしますね。映画にしたら面白そうですが、sigさん、撮っていただけませんか?^^;
sig
ChinchikoPapa
堤真一の利行は、確かにヒゲを生やして絵を片手に、ずうずうしく人の家にあがりこんでは飲み食いしたあげく、絵を買ってくれるまでは絶対に帰らない・・・というイメージに、どこかピッタリくるような感じですね。そうすると、ひとまわり歳下で片想いの人妻、冷ややかで「うっちゃっと」かれてもなにかと甘えてしまう相手の藤川栄子は、さしずめ常盤貴子あたりでしょうか。^^
sig
この企画は売れそうですから、外に漏れないように二人だけの秘密にしておきましょう。
ChinchikoPapa
ついうっかりネットで書いてしまいそうですが、気をつけることにします。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa