「東亜同文書院大学」展へ出かけた。

 近衛篤麿の号である“霞山(かざん)”の名称を冠した、東亜同文会Click!の後継団体「霞山会」の新ビルが完成した。もともとは、1928年(昭和3)に建設されたモダンなデザインの建物だったのだけれど、東京オリンピック(1964年)の直前に解体されている。そのあとにできた旧ビルも壊され、霞ヶ関コモンゲート(霞ヶ関3丁目)として建て直された。霞山会館は、その西館の最上部に入っている。ビルのオープニングとともに開かれた、愛知大学Click!の「東亜同文書院大学」展示会へ出かけてきた。午前中のオープン直後にもかかわらず、たくさんの方々が見学にきていた。
 まず、展示を見ていて驚いたのは、明治期に日中貿易を推進していた岸田吟香が、東亜同文会の設立時に深く関わっていたことだ。岸田吟香は、明治の早い時期から有名な銀座の目薬屋さんで、もちろんこのサイトでも頻繁に登場している岸田劉生Click!の父親だ。岸田は医薬品を販売するだけでなく、日中貿易の振興と「日中提携論」を提唱して、日清貿易研究所などを通じ東亜同文書院の設立へ積極的に参画したようだ。
 
 もうひとつ、現物を見てびっくりしたのは、上海の東亜同文書院Click!の学生たちが企画した「大旅行」のレポート。以前、資料で読んで知ってはいたが、実際に拝見するのは初めてだった。「大旅行」とは、日本人留学生がテーマを決め、それにもとづいて中国全土で取材調査を行う「研究旅行」のようなものだ。軍閥が割拠していた当時の中国では、当然ながら命がけの旅行となる。その膨大なレポートの一端を拝見したとき、その緻密な調査と研究に舌を巻いてしまった。旅行記などというレベルではなく、当時の中国を詳細に知ることができるデータベースそのものだ。中国へ侵略をつづけた陸軍が、これら資料の貴重性に目をつけ流用したこともあったらしいが、今日から見れば中国現代史のかけがえのない一次資料となっている。
 
 出口近くで近衛篤麿と文麿の書幅を観てから、資料販売コーナーで愛知大学が出版した書籍類をめくっていたら、急にわたしの名前が呼ばれた。驚いて横を見やると、わたしが呼ばれているのではなく、展示会にみえた方へわたしの名前をお話されているようだった。一瞬、同姓同名かと思ったけれど、東京同文書院Click!という名称が出たので間違いないと思い、「はい、それはわたしです」と申し出たら、にわかにワーッと盛り上がってしまった。このサイトにもおみえになった、愛知大学の成瀬さよ子様とかたい握手。
 成瀬様とお話されていた相手の方は、お父様が東京同文書院=目白中学校Click!で国文の教師をされていた方のお嬢さんだったのだ。下落合の東京同文書院=目白中学校の跡地には、記念碑もなにも残っていないので、どのあたりにあったのか調べてもおわかりにならず、この展示会でなにかわかるかもしれない・・・とおみえになったらしい。そこで、成瀬様はわたしのサイトをご紹介くださっていたというしだいだった。わたしは、ブログの名称をお教えしたところで、さっそく笑われてしまった。どなたも、Chinchikoナントカいういかがわしい名前のサイトに、東京同文書院や東亜同文書院のことが掲載されてるなんて、夢にも思われない。(爆!) でも、下落合は「杏奴」Click!発祥のこのネーム、わたしはけっこう気に入ってるんですけどね。(^^;
 
 成瀬様より、ご自身が編纂された『東亜同文書院関係目録』(愛知大学・2004年)をいただいた。東亜同文会や、上海の東亜同文書院に関連する書籍や資料類をまとめられた、たいへんな労作だ。現存する主要な資料のほとんどが、網羅されているといってもいいだろう。今後、このテーマについて調べるときに、ぜひ参考にさせていただこうと思う。成瀬様、ありがとうございました。

■写真上:旧・霞山会館の跡地にオープンした、37階建ての霞ヶ関コモンゲート西館。左手に見えているビルが、“超高層のあけぼの”で有名な霞ヶ関ビル。
■写真中上は、東亜同文会の設立に関わった岸田吟香。は、上海にあった東亜同文書院。
■写真中下は、「東亜同文書院大学」展示会に設けられた、東亜同文会の創立者・近衛篤麿コーナー。は、1963年(昭和38)ごろに姿を消したモダンな旧・霞山会館。
■写真下は、成瀬様の『東亜同文書院関係目録』。は、近衛篤麿(左)と文麿(右)の書幅。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    Krauseさん、いつもご評価いただきありがとうございます。
    2007年11月04日 17:46
  • ChinchikoPapa

    一真さん、ごていねいにありがとうございました。
    2007年11月04日 17:47
  • ChinchikoPapa

    Qちゃんさん、いつもお読みいただきありがとうございます。
    2007年11月04日 17:47
  • ChinchikoPapa

    Takagakiさん、重ねがさねnice!をいただき恐縮です。
    2007年11月04日 17:47
  • ChinchikoPapa

    関連記事にいくつかのnice!をいただき、ありがとうございます。>アヨアン・イゴカーさん
    2009年01月24日 21:32

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