彝ときいの大震災避難コース。

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 中村彝の書籍や資料を読んでいると、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!のときに、近くの「友人宅」あるいは鈴木良三Click!宅へ避難したという記述があちこちに見られる。震災でアトリエ東側の壁が崩落し、雨風が吹きこむようになってしまった画室は、わずかに傾きもしたようだ。彝と岡崎きいは、庭の芝生の上に持ち出した毛布を拡げて余震に備えていた。
 ふたりはその後、被害がほとんどなかった下落合800番地の鈴木良三宅へと、すぐに避難している。実は、鈴木が雑司ヶ谷の借家から下落合800番地へと引っ越してきたのは8月31日、つまり大震災の前日だったのだ。そのときの様子を、鈴木良三が1977年(昭和52)に著した『中村彝の周辺』(中央公論美術出版)から、少し長いが引用してみよう。
  
 私は曾宮と満谷の中間、下落合の八百番地に小さな家を借りて引越して来た。それが大震災の前日のことだった。それ迄は雑司ヶ谷の耳野卯三郎の居た家に住んでいたのだったが、九條たけ子の家主の建てた貸家が出来たというので引越したのであった。
 (中略)妙な風が地上を吹いている中を彝さんのところへ駈けつけて見ると、アトリエは大丈夫だったが、彝さんとおばさんは庭の芝生の上に毛布を敷いて避難していた。そのうち誰かがやって来て、とにかくアトリエでは危ないというので、私の家に一時移って貰うことにして、あとは鶴田や河野に任せ、毛布だけ持っておばさんと三人で歩き出した。私が彝さんを背負うといっても、「いや大丈夫だ」といってとうとう一キロばかりの間を歩いて私のところへたどり着いた。しかしあまり疲れた様子は無かったので安心した。曾宮は旅行中だったし、金平は目黒の方に住んでいたし、アトリエの方は鶴田と河野に任せる他なかった。なんでも壁が落ちて、描きかけの髑髏の静物の上に覆いかぶさり、アトリエも多少傾いたが大したことはなかったので、河野と若い画学生に修理をして貰って一週間ほどでアトリエに引揚げて行った。 (同書「彝さんと私」より)
  
 この文章に出ている「曾宮」とは曾宮一念Click!、「満谷」は満谷国四郎Click!、「鶴田」は鶴田吾郎Click!、「金平」は鈴木金平、そして「河野」とは、佐伯アトリエの隣りに住んでいた酒井億尋が故郷の佐渡から連れ帰った、元大工で画家志望の河野輝彦のことだ。下落合800番地とは、ちょうど現在の薬王院墓地の北西側、大正当時は薬王院の濃い森に隣接した区画だ。当時から、この区画には九条武子の家主が建てた、何軒かの家々がすでに存在していたのだろう。
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 1926年(大正15)現在の「下落合事情明細図」を見ると、800番地界隈の区画には15の住宅敷地が描かれ、9軒の住民名が記載されている。おそらく、鈴木良三の借家はこの中の1軒だろう。「事情明細図」にも鈴木という家が採録されているけれど、鈴木良三は関東大震災のあと故郷の水戸へ引き上げて医師になっているので、おそらく別人だと思われる。
 林泉園に面した下落合464番地のアトリエから、鈴木に連れられて800番地の彼の自宅へと移った、中村彝と岡崎きいの避難コースがおおよそうかがえる。3人は、彝アトリエをあとにすると、林泉園沿いの道を西へと向かい、すぐに七曲坂筋の道へと出た。この道は、江戸期には鼠山道とも呼ばれ、下落合でも最古の道のひとつだ。それを左折して、曲がりくねった道を七曲坂方面へとたどる。右手にはミツワ石鹸の三輪善太郎邸Click!が、左手には中華民国公使館官舎(現・落合中学校グラウンド)のある道だ。やがて、下落合を斜めに貫く“子安地蔵通り”と交わる。そのまま南へ進めば七曲坂へとさしかかるのだが、彝たちは右折して西へと少し歩いただろう。
 満谷国四郎アトリエClick!の手前をすぐに左折、現在の野鳥の森公園へと抜ける“オバケ坂”筋の道へと入り、ひとつめの角、すなわち九条武子邸Click!の角を右折すると、あとは下落合800番地の鈴木良三宅へは一直線だった。病身の彝の足取りは重かっただろうから、普通に歩けば6~7分ほどの道のりだけれど、倍以上はかかっただろう。鈴木は「一キロ」と書いているけれど、実際には直線距離で400mほど、道を歩いても600m強の距離しかない。このとき彝たちと歩いた時間的な記憶から、鈴木はかなり多めの距離感を感じていたのかもしれない。
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 鈴木良三宅で、彝ときいはなにをしてすごしていたのだろうか。大震災に関する情報の収集や、食料の調達はもちろんだろうが、避難中の日々の具体的な記録はほとんど残されていない。ただ、彝は熱がなかなか下がらず、体力的にはかなりつらい状態がずっとつづいていたようだ。鈴木宅で1週間ほどすごし、やがて余震が収まったころ、彝と岡崎きいはアトリエへともどり、崩れた壁のあとかたづけや補修にかかることになる。この作業は、もちろん病身の彝自身にはできなかったので、佐渡の大工だった河野輝彦や画学生たちによって行われた。
 とりあえずの応急処置によって、穴の空いた東側の壁はふさがれたけれど、1923年(大正12)内に本格的な増改築を含む大修理が行われ、アトリエの東側は小部屋や玄関が新たに追加されて、当初の建築姿から大きくさま変わりClick!することになる。

■写真上は、鈴木良三宅があった下落合800番地あたり。鈴木は大震災の前日、8月31日に下落合へ引っ越してきた。は、薬王院の森(現・墓地)筋の道から800番地あたりを眺めたところ。
■写真中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合800番地界隈。佐伯祐三が3年後に描く、「墓のある風景」Click!描画ポイントのすぐ北側にあたる。は、佐渡からやってきた元大工で画家志望の河野輝彦を描いた、1920年(大正9)1月制作の中村彝『男の顔』。
■写真下:「下落合事情明細図」(1926年)にみる、中村彝と岡崎きいがアトリエから鈴木良三宅へと避難したと思われる経路。ふつうに歩けば、6~7分ほどでたどれる距離だ。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    お読みいただきありがとうございます。>Krauseさん
    2007年10月23日 00:01
  • ChinchikoPapa

    一真さん、いつもありがとうございます。
    2007年10月23日 00:02
  • ChinchikoPapa

    takagakiさん、ご評価いただきありがとうございました。
    2007年10月23日 00:03
  • ChinchikoPapa

    ご評価いただき、いつもありがとうございます。>Qちゃんさん
    2007年10月23日 00:04
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2010年11月03日 13:54

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