佐伯のデスマスクはとれなかった。

 

 1928年(昭和3)8月16日の午前11時ごろ、佐伯祐三がパリ郊外のセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院で衰弱死したとき、当時パリへ留学していた山田新一は、友人の彫刻家・日名子実三をともなって病院に駆けつけた。日名子を誘ったのは、佐伯のデスマスクをとるためだった。だが、日名子は佐伯の死顔を怖れて遺体に近づけず、結局デスマスクをとることができなかった。いまから79年前の、8月の出来事だ。
 山田新一の『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版/1980年)から、その様子を引用してみよう。
  
 僕も割合早く通知を受けて、佐伯の遺体が安置されている霊安室にかけつけた。デスマスクを採ってもらおうと思って、当時僕と同じアトリエの一階上に住んでいた、彫刻家の日名子実三を煩わして同行した。しかし日名子は、痩せ果てて、ほとんど骸骨と変わらない佐伯の死顔――その凄まじい形相を見て、これはとてもデスマスクを採れるものじゃない、といって先に帰ってしまった。したがって、佐伯の死顔は、木下勝治郎が撮った写真があるばかりである。 (同書「第二次渡仏時代」より)
  
 そのとき、木下勝治郎が撮影した佐伯の写真が残っているけれど、入院以来、飲食物をいっさい受けつけずにブドウ糖などの栄養注射だけですごしていたせいか、顔はげっそりとこけ、確かに頭蓋骨が浮き出たような容貌をしている。でも、日名子が怖れるほどではないように思えるが・・・。中村彝Click!の死顔のほうが、わたしはよほど凄惨な印象を受けるのだ。
佐伯祐三19280816.jpg 
 山田新一との最後の面会時、佐伯の意識ははっきりしていて、とても精神錯乱しているようには思えない反応をしている。認識力も記憶力もしっかりとし、正常な反応となんら変わらない。これがのちのちまで、佐伯の「狂人」説に疑問符を投げかけるファクターのひとつとなった。精神を病んだ人間が、相手を認識し記憶をたぐって「正気」にもどることは、基本的にありえないとされるからだ。佐伯との最後のやり取りを、山田は著作の中に記録している。
  
 その日、佐伯は僕の顔を見て泣きだした。彼の堅く閉じられてかすかに顫える両眼から、涙がとめどなく流れた。そしてベッドの上に痩せきった身体を横たえ、静かに手を延して僕達に握手した。そしてきれぎれに
 「山田君・・・・・・えらいお世話になったわ・・・・・・すまなんだ・・・・・・」
 「・・・・・・鴨緑江の舟遊び良かったな・・・・・・もしも国へ帰れたら、あの風景を、そして弁髪の逞しい男をマッ黒になって・・・・・・描きたかった・・・・・・」 (同書)
  
 佐伯は、1922年(大正11)ごろに、下落合のアトリエで“ライフマスク”を作っている。これが長い間、デスマスクと勘違いされてきたようだ。佐伯が、ライフマスクを制作するときの様子を記録した、面白い資料が残っている。やはり、山田新一の証言のひとつだが、それを思い出しながらインタビューに答えているのは、宮崎市内の画廊経営・青木脩だ。三又たかし(喬)の書いた、『ある塔の物語~甦る日名子実三の世界~』(観光みやざき編集局/2002年)から引用してみよう。
 
  
 パリ時代のことを書いた山田先生の本の中で、先生と日名子が一緒にデスマスクを採りに行くくだりがありますが、佐伯のデスマスクは採れなかったわけです。現在残っているといわれるデスマスクは、生前、佐伯自身が作った「ライフマスク」というものです。
 山田先生は、間違いがあると、絶対に正して、これはこういうことだから覚えておきなさいよ、と私によく言われていました。その一つがデスマスクのことです。その時私が、それでも佐伯祐三のデスマスクはあるじゃないですか、と言うと、先生はそれは違うんだよ、あれは佐伯が生前、妻の米子のいる前でライフマスクを採ったものだ。石膏を洗面器の中に入れて、パッと顔を突っこんだ。それを見ていた米子は、時間が長いのでもう石膏が固まって死んだんじゃないかと思い、背中をたたいたりして大騒動したらしい。 (同書「洋画家山田新一が日名子実三を推薦した」より)
  
 石膏を張った洗面器に顔を突っこんだまま、動かなくなってしまった佐伯を前に、パニックになってしまった米子夫人の様子がうかがえておかしい。第1次の渡仏前、そして関東大震災Click!直前の、のどかな時間が流れていた下落合の新築アトリエでの光景だ。

■写真上は、佐伯アトリエの採光窓のある北西コーナー。は、1926年(大正15)の秋、二科への特別出展のときに、押しかけた新聞記者が撮影したとみられる同じコーナーあたり。
■写真中は、1928年(昭和3)8月16日に、友人の木下勝治郎によって撮影された霊安室の佐伯。は、日名子実三を連れて病院に駆けつけた山田新一。
■写真下は、1922年(大正11)ごろに下落合のアトリエで制作されたライフマスク。は、佐伯の“ビーナスはん”だった、結婚前と思われる池田米子のポートレート。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    takagakiさん、ありがとうございます。
    2007年08月11日 17:24
  • K.yamada

    佐伯さんいいお顔されていますね。

    もう最期の事を予知してあえて自分でライフマスクを作ったあたり、流石芸術家のする事だと今更ながら思いました。著名だった日名子氏は佐伯の癖のある性格を知らなかった故 ただ怖かっただけでしょう。
    貴重な資料をありがとうございました。佐伯のアトリエまたは新宿区の施設で展覧会が出来るといいですね。
    2007年08月13日 11:39
  • ChinchikoPapa

    yamadaさん、コメントをありがとうございます。
    お父様が佐伯と歩んだ、お若いころの写真がどうしても見つからなくて、『ある塔の物語~甦る日名子実三の世界~』掲載のものをお借りしました。
    お父様とのやり取りを読んでいますと、佐伯が精神錯乱しているとはまったく思えません。問いかけに対して、きわめて正常な反応をし、受け答えをしています。いったい、第2次滞仏のとき彼になにが起きたのか、いろいろな説が錯綜してますけれど、どこまでも謎のままですね。
    yamada様も「仲間たち展」へのアプローチ、ぜひ推進されてください。(^^
    2007年08月13日 14:50
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、みなさんnice!をありがとうございました。
     >一真さん
     >sigさん
     >アヨアン・イゴカーさん
     >kurakichiさん
    2014年08月22日 18:56
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、わざわざnice!をありがとうございました。>さらまわしさん
    2014年08月22日 18:57

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