坪単価68円50銭だった近衛邸の「開放」。

 下落合の広大な近衛邸敷地が、一般に売りに出されたのは1922年(大正11)のことだ、それ以前にも、近衛邸敷地の一部だった御留山を、相馬子爵邸用の敷地としてすでに売却していた。新たな敷地売却は、近衛家が所蔵していた刀剣をはじめとする文化財の、2回にわたる売立てClick!(オークション)から、3年ほどのちのことだった。
 このとき、すべての敷地が売りに出されたわけではなく、おもに目白崖線を含む南側一帯が宅地開発されている。東京土地住宅(株)の常務取締役・三宅勘一へ話を持ちこんだのは、ほかならない当主の近衛文麿Click!自身だった。東京土地住宅が宅地造成を完了し、「近衛町(このえまち)」と名づけて販売を開始したのは、1922年(大正11)の4月のことだ。だから、近衛家が売却したのは、ひょっとすると前年の1921年(大正10)中だったのかもしれない。ただし、実際に土地が売れてから近衛家へ売却金をわたすという形式で、東京土地住宅との間に契約がなされていたとすると、近衛邸敷地の売却は段階的に進んだということになる。
 1922年(大正11)4月11日に発刊された「東京日日新聞」に、近衛町の販売が開始されたニュースが大きく取り上げられている。見出しには「開放」と書かれているが、明治末から大正期にかけ、東京府下では住宅難が深刻で、広大な敷地を占有する華族やおカネ持ちたちへの批判が集中していた時期だ。その批判を受け、広大な敷地の一部あるいは全部を一般の住宅用に提供することを、当時の時事用語では「開放」と呼んでいた。

  
近衛公が宅地を有料で開放する
壓迫された有識無産階級へ目白に生るゝ「近衛町」
 華冑界の新人近衛文麿公は府下目白の邸宅約二万坪を一般市民の住宅地緩和の為開放する事となりその方法||一切を||東京土地住宅株式会社常務取締役の三宅勘一氏に依頼した。それについて三宅氏は「私は一営利会社に関係してゐるので羊頭狗肉の仕事をするだらうと思はれるかも知れぬが公を説いてこゝまで漕ぎつけたからには多少の信念をもつてやる||考えで||す、まづ私は同所を近衛町と命名して一つの文化郷を建設すべく一坪原価五十四円五十銭で譲り受けましたが道路、下水等の設備でほゞ一坪六十八円五十銭位であらゆる階級に分譲する筈です、最もその一部分は十ヶ年位の月賦でなるべく壓迫された有識無産階級を||主眼と||して譲るつもりです、同地は学習院の向かふ側で隣地はたいがい坪当たり百十万円(ママ)の値です」と語つた。
  
 記事の中で、坪あたり「110万円」なんて値が出てくるけれど、ありえない。同年、もっとも高かった日本橋でさえ1,200円/坪だから、「110円」の誤植だろう。1922年(大正11)の地価を見ると、目白駅周辺は新宿の駅前とほぼ同じ地価Click!だったことがわかる。
 「有識無産階級」というのも妙な表現だが、要するに高学歴で将来性はあるけれど、不動産(土地家屋)を持っていない市民へ優先的に販売しますよ・・・ということなのだろう。じゃあ「無識無産階級」、たとえば下町のたたき上げ大工や左官、あまた江戸職人たちが手間賃を必死で貯めて(ありえそうもないが)、近衛町へ住みたいといってもダメだったのかい?・・・と、やや反感をおぼえるのだけれど、確かに当時の職人や労働者たちが手に入れられる住宅地では、そもそもなかった。
 もともと110円/坪ぐらいはする土地を、東京土地住宅は半分ほどの価格で近衛家から譲り受けたと、記者のインタビューで公表している。そこへ道路を整備し、下水道を敷設して(上水は井戸水Click!が前提)、68円50銭で販売すると宣言した。この価格は、同じ時期に販売されていた目白文化村Click!の第一文化村の10円/坪に比べたら、べらぼうに高い。目白文化村の人気が沸騰し、翌1923年(大正12)に販売される第二文化村の、50~70円/坪に匹敵する価格だ。
 
 新聞には、東京土地住宅が整備した道路網を記した、下落合の近衛町敷地の全体図が掲載されている。いまの道筋とまったく変わっていないが、いまだ林泉園の湧水地から流れ出た渓流が、谷間を崖線のある南へと流れているのが描きこまれている。
 東京土地住宅による近衛町の造成・販売宣言から、わずか3年後の1925年(大正14)、同社は経営に行きづまり近衛町の分譲事業のほとんどを、ライバルの箱根土地へ譲渡Click!してしまうことになる。広大な近衛邸敷地の南側を開発したのは東京土地住宅だが、大正末に売却された目白中学校Click!を含む北側の敷地を開発し、また南側の敷地分譲を継続したのは、すでに国分寺と立川の中間に“国-立”駅を建設して鉄道省に寄付し、本社屋も目白文化村から国立へと移転をしていた箱根土地だった。

■写真上:目白通りの上から眺めた、下落合の近衛町方面の街並み。
■写真中:1922年(大正11)4月11日「東京日日新聞」に掲載された、近衛邸敷地「開放」の記事。
■写真下は、開発直後の近衛町の全体図。は、現在の近衛町界隈(南側)。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    Krauseさん、わざわざnice!をありがとうございました。
    2007年08月09日 11:00
  • ChinchikoPapa

    いつも過分な評価をいただき、ありがとうございます。>takagakiさん
    2007年08月09日 11:01
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2014年09月06日 19:39
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
    2014年09月06日 19:40

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