箱根土地本社からの眺めだと思ったら。

 箱根土地(株)が1923年(大正12)に配った、新宿歴史博物館に保存されている文化村分譲地絵はがき。わたしが漠然と、箱根土地本社Click!の2階からの眺めだと思っていた、人着(人工着色)をほどこしたモノクロ写真だ。でも、本社からの眺めにしては道筋や家々の配置がまったく異なることも、ずいぶん前から気づいていたが、そのままうっちゃらかしにしてきた。それが、ある方のご指摘から、どの場所からどこの家々を撮影した「カラー写真」なのかが、一気に判明した。
 ポイントは、まったく違う角度からの写真が残る第一文化村の大きなW-1邸だ。N邸Click!と並んでいるように見える東側から写したW-1邸Click!と、南側の道路端から撮影されたW-1邸Click!の写真、そしてその間取りから、この「カラー写真」の風景を見通すことができた。もちろん、右端に写っているのが、手前のライト風のK-1邸よりも建坪では大きなW-1邸だ。もうひとつ、Y子さんが設計したS-2邸Click!のデザインがはっきりしたことで、この風景の撮影角度がわかった。
 両邸の周囲には当時、帝国ホテルや自由学園の落成などで一大ブームとなっていた、ライト風デザインの建築でいっぱいだ。北側の庭にたくさんの洗濯物が干してあるK-1邸Click!は、もともと門も母屋もライト風の邸宅なのだけれど、その他の建築は個人邸かどうかは微妙だ。左端に見えているのは、目白文化村の共有施設である「倶楽部」Click!。箱根土地本社の庭園「不動園」Click!と車庫は、その向こう側にある。ただし、この写真が撮影された時期には、いまだ本社は建築中だったかもしれない。「倶楽部」の右隣りにある建物はK-3邸・・・のはずなのだが、K-3家は武家屋敷を移築して建てたという伝承があるので、おそらくこのライト風建築は箱根土地のモデルハウスだと思われる。同様に、写真のほぼ中央に見えているK-2邸のライト風邸宅も、同社のモデルハウスの可能性がきわめて高い。なぜなら、K-2邸を建築中と思われる姿が偶然、別写真の遠景にもとらえられているからだ。その屋根を見ると、かたちがまったく異なっているのがわかる。

 第二文化村のモデルハウスの位置は、南端のテニスコートClick!の向かいにあったことが記録に残っている。ところが、1922年(大正11)の販売時に建設されたはずの第一文化村モデルハウスの位置が、いままでははっきりしなかった。なぜなら、宅地が売れてしまえば、モデルハウスはすぐに解体されて別の敷地へと移転してしまうからだ。でも、この写真にとらえられたK-3邸敷地に建つ邸宅、およびK-2邸敷地の建物こそが、そのモデルハウスのように思える。また、写真の左端に写る「倶楽部」も、敷地が売りに出されたあと、ほどなく解体されている。

 手前に見えている谷間は、当初わたしは箱根土地本社の庭だろうとボンヤリ思っていたが、そうではない。第一文化村の弁天池があった、前谷戸の姿だ。しかも、この谷間の東側はいまだ埋め立てられておらず、北側のテニスコートを含む11戸の敷地は、まったく造成されていない状態だ。これは箱根土地が、第一文化村の売れ行きをにらみながら、前谷戸の埋め立て計画を進めていった証拠ともいえる写真だ。弁天社も、現在の谷戸上にまだ移されていない。右下のこんもりした木立ちが、当初は谷底の弁天池の端にあった弁天社Click!の森だ。第一文化村を横断するメインの三間通りは、まだ幅員がとても狭く造成中のように見える。
 この写真の撮影ポイントは、前谷戸の反対側、北東面の尾根筋あたりだ。しかもかなり高い視点なので、当時、すでに建設されていた第二府営住宅Click!の2階あるいは屋根上へカメラを持ちこむか、あるいはカメラマンを樹上にあげてシャッターを切ったのかもしれない。
 
 さて、撮影ポイントと画角が判明すれば、ここに写されている家々はほとんどすべて、どなたの邸宅だったのかがわかる。手前のK-1邸は、北側から撮られた姿がたいへんめずらしい。1階の東側にあったサンルームが、はっきりととらえられている。その左に写るK-2邸(モデルハウス?)との間に、のちの文化村秋艸堂のA邸Click!はまだ建っておらず、サンポーチで有名な1階建てN邸の北西面がチラリと見えている。また、K-2邸の左側には、1階のデザインが自由学園明日館のような風情のS-1邸、さらに左には、妹のY子さんにすべて設計をまかせた早大教授のS-2邸のおしゃれな建物がある。その左手のK-3邸敷地に建っているライト風建築は、ほぼ間違いなく箱根土地のモデルハウスと思われ、さらに左手に建つ文化村「倶楽部」へとつづく。
 奥に並ぶ建物を見ていこう。右端は巨大なW-1邸、その左側は少し奥まっているのでF邸ないしはD邸のように見えるが、左隣りのW-2邸の可能性もある。なぜなら、N邸を撮影した写真の裏手に、この建物の切妻らしい屋根がとらえられているからだ。距離感からいって、N邸の裏側のようにも見えるが、建物の大きさから道を1本隔てたD邸敷地あるいはF邸敷地の位置に建っていたのかもしれない。実際、N邸の裏とみられるW-2邸の敷地には、赤い屋根のコンパクトな1階建ての建物が見えている。左手のI邸の付属建築でないとすれば、この赤い屋根の家はW-2邸の敷地に建っているのであり、くだんの2階建ての邸宅は道路をはさんだ向こう側、D邸敷地かF邸敷地に建っているということだ。さらに、S-2邸とK-3邸の向こう側みえる大きな屋根の2棟。右手は第一文化村でも指折りの巨大な西洋館のO邸、少し左奥の屋根は、地割り図では建物の存在が確認できないが、I邸あるいはT邸あたりの敷地に建っていると思われる。
 
 
 
 
 
 ただ、不思議な光景も見える。「倶楽部」の手前にある、1階建ての平屋はなんなのだろうか? 箱根土地が建てた、目白文化村の販売事務所だろうか? それとも、レンガ造りの本社ビルが完成するまでの仮社屋だろうか? また、K-1邸とK-2邸に挟まれたところに見えるいくつかの屋根も、不思議な存在だ。N邸とI邸の右側に見える、赤い屋根の平屋がいまいちわからない。I邸の付属建築か、W-2邸の敷地の建物か、はっきりしないのだ。また、その右手の銅板葺きのような屋根も不明だ。K-1邸の応接室ウィングのようにも見えるけれど、K-1邸とは屋根の高さが合わない。では、向かいのE邸の敷地の建物かというと、そこはずいぶんあとまで空き地のままだったはずなのだ。
 ひょっとすると、できるだけ多くの家々が建てられているように見せるため、一部に合成加工がなされているのかもしれない。不明な建物は、それとも建築資材の倉庫あるいは建築事務所だろうか。さらには、人着作業で彩色を間違えている箇所がありはしないだろうか? ところどころ、記録には存在しないはずの不思議な建物、あるいは邸のデザインがのちの記録とは一致しない建築が見えているのだ。

■写真上:1923年(大正12)に配布された、箱根土地の目白文化村分譲絵はがき。
■写真中上は、第一文化村に建ち並ぶ各邸。は、埋め立て造成前の前谷戸。その後、東側の谷間が渓流の暗渠化とともに埋め立てられ、西側の谷底から三方へ階段が通うことになる。
■写真中下は、大正末の「目白文化村地割図」。ただし、第三文化村と第四文化村は記載されていない。は、1936年(昭和13)にみる撮影画角。すでに各邸とも改築や増築、建て替えが盛んに行われているので、1923年(大正13)現在の家々のフォルムとはだいぶ異なってきている。
■写真下:絵はがきに見える各邸の拡大写真と、別角度からの他の写真類。
絵はがきの撮影ポイントから、同じ画角による眺めの現状。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    いつも、ご評価いただき恐縮です。ありがとうございます。>takagakiさん
    2007年08月02日 00:32
  • 谷間のユリ

    流石ですね!papaさんの分析力にはいつも感心いたします。
    大正時代にこんな風景の中(まるで外国です)江戸時代築の平家で育った父は、どんな気持ちでいたのか…。私の幼い頃は自分の家だけ!古いので、うちはもしかして貧乏なのではないかと勝手に思って、子どもながらに贅沢を言わず質素倹約に努めていました(^^;)
    こんなハイカラな家にお住いだった二ュウカマーのみなさんは、生活様式も物の考え方も近所付合いも、下落合村原住民とは随分と違ったことでしょう。絵葉書には下町と違う新しい東京の住宅街の幕開けの花々しさと豊かさを感じます。
    本当に焼けてしまった家々が多くて残念ですね。
    2007年08月03日 00:21
  • ChinchikoPapa

    江戸期から下落合にお住まいだった、谷間のユリさんのご一家も驚かれたでしょうが、この写真を撮影したあたりの府営住宅へ、大正の初めに新しく自宅(当時の一般的な日本家屋)を建設して引っ越してきた東京市民たちは、目の前の風景がにわかに信じられなかったんじゃないかと思います。おそらく、「なんじゃこりゃ!?」状態だったのではないかと。(^^;
    当時、目白文化村(アメリカ風)とほぼ同時期にスタートした洗足の「田園都市」型文化村(イギリス風)を除けば、こんな住宅街は東京のどこを探しても見あたらなかった時代ですよね。周囲の住民のみなさんが、いかに驚愕したかが想像できます。しかも、スカートをはいた女性が付近を散歩するだけで、近隣のウワサになっていたという記録もありますから、家々の意匠のみならず、生活習慣や風俗なども最先端をいっていたのでしょう。
    でも、当時は突飛で奇抜で、ありえない光景のように映っていた目白文化村の住宅街や生活習慣・風俗なども、わずか数十年で、まったくあたりまえの一般的な生活様式になっていきますので、そういう意味では現在へとつながる日本人の住まい・生活・暮らしの原点がここにあった・・・ということが言えそうです。
    空襲で大半が焼けてしまったのが、ほんとうに残念ですね。もし残っていたら、大正期の近代建築(住宅)の街丸ごと博物館にできたでしょうに。nice!をありがとうございました。<(__)>
    2007年08月03日 11:45
  • エム

    何度も見直して、ようやくどこからどこを撮影したものなのか
    わかりました。
    最初はこんな風景だったんですね・・・。
    神社が崖下にあったことだけは記憶していますが、それさえも
    今は夢の中の風景のようにおぼろになっております。
    2007年08月07日 11:50
  • ChinchikoPapa

    エムさん、こんにちは。わざわざコメントをありがとうございます。(^^
    先日、エムさんの第一文化村へ出かけ、この絵はがきの写真が撮られたポイントからほぼ同じ方角を向いて撮影してきました。撮影視点の高低はありますけれど、それにしても、とても同じ場所とは思えません。東京市外の田園都市ではなく、都心新宿の住宅街となってしまいました。
    かなり高い位置から撮影しないと、もはや弁天池の谷間はまったく見えないですね。記事末に、同じ撮影ポイントからの眺めを掲載してみました。
    2007年08月07日 14:39

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