大震災の焼け跡から現われたもの。

 

 敗戦直後の1947年(昭和22)に撮影された、空襲による焼け跡の空中写真に大小さまざまなサークルの痕跡を見つけて、ずいぶん前にシリーズ記事Click!にしたことがある。その後も、さまざまな地域の空中写真を見るたびに、妙なサークルの形状や影が相変わらず気になっている。特に焼け跡の写真は、地表の建物や樹木などが焼けてしまい、地肌がそのまま露出しているので、なにか人工的な地形を発見するには、またとない資料だ。
 いまから80年ほど前に、同じ発想をした人がいた。いや、この言い方はまったく逆で、わたしが知らず知らずに、この人物の発想をトレースしていたことになる。この考古学者は、関東大震災で焼土と化してしまった、特に東京の下町界隈で焼け野原を眺めながら、建物に埋めつくされていた東京の古墳を調査するには千載一遇のチャンスだ・・・と考えた。考古学者で人類学者、民俗学者でもあった鳥居龍蔵だ。著作『上代の東京と其周囲』(磯部甲陽堂/1927年)から引用してみよう。
  
 今回の震災は実に大なる不幸にして悲しむべき極ではあるが、一方から見れば、此の高い犠牲が学問上大なる成果を与へたのである。即ち東京市に於て、これ迄人家が建て列なつて居つた為め、其の附近の見えなかつた地形・遺跡の能く見えるやうになつた場処がある。殊に下町の総てが焼失して、目に遮るものゝない関係上、沖積層一帯の平野は言ふに及ばず、東京湾までも見えるやうになり、遠い過去に帰つた状態となつて、殊に月の夜は物凄い光りが武蔵野を照す有様となつた。
                         (同書「震災と東京府下の先史・原始時代の遺跡」より)
  
 ふだんは、家々やビル、店舗にふさがれて調査することができなかった地面を、たんねんに歩きまわりながら、彼は古墳の痕跡を探っていく。中でも驚いたのは、江戸岬の先端あたりに位置する、本来の神田明神がおかれていた「将門塚」Click!だ。江戸期の文献では丸塚(丸山)、その後もずっと円墳と書かれることが多かった「将門塚」は、鳥居が震災直後に撮影した、旧大蔵省の建物が焼失したあとの写真では、どう見ても前方後円墳なのだ。しかも、わたしが想い描いていたよりもはるかに大きい。(冒頭写真) このあと、墳丘部だけが残され前方部が平地にならされたため、やはり円墳と間違えられることが多くなったものだろうか。
 
 
 また、主要な伽藍はかろうじて焼け残った、浅草寺の周囲に拡がる焼け跡からも、次々と円墳や前方後円墳と思われる遺跡が姿を現している。浅草寺にほど近い、弁財天が奉られた弁天山(弁天塚)も、コンパクトな前方後円墳らしいことが判明する。浅草寺も芝増上寺と同様、古墳群が密集した特別なエリアの真上に建てられた寺であることがわかる。また、浅草寺の北側にある待乳(真土)山も、山全体が巨大な前方後円墳であることが確認された。いまも昔も聖天宮は、大きな後円部の墳丘の上に建てられているのが、上空から眺めるとよくわかる。
 鳥居龍蔵が、江戸東京の寺社のほとんどが古墳遺跡の上に建っているのではないかと疑いだしたのは、ずいぶん以前からだったようだ。明治期、帝大の考古学者・坪井正五郎に随行して、武蔵野の古墳群を調査してまわったときから、なんらかの謂れのある“聖域”へ、後世になって寺社が建設されているのではないか・・・と気づいている。彼は江戸期の文献を片っぱしから調べ、寺社の謂れと古墳時代の遺跡を結びつけるヒントとなる、享保年間に編まれた『江戸砂子』(参照したのは後代の『新撰江戸砂子』)へ行きつくことになる。
 鳥居は、同書と東京の現在とを照らし合わせながら、江戸東京の低地から山手までが“古墳の巣”であり「古墳の都」であったことを、さまざまな発掘調査を通じて実証していく。芝丸山古墳Click!とは別に、増上寺境内にあった少なくとも10基を超える円墳群から多くの埴輪を発見し、昔は低地で入江だった下町の寺社や富士塚を調べては副葬品を見つけ、山手の渋谷界隈でも多くの墳丘を発見している。
  
 上野台にはもと古墳が群をなして、所謂荒墓の状態で存在して居つたのであらうが、一度寛永寺が此処に設けらるゝに就て土地を開拓したが為めに多くの古墳は取り去られ、更に之れが維新後第二の地ならしの為に古墳が取り去られたであらう。されど此処が寛永寺の出来なかつた以前に遡つて見ると上野台には無数の古墳が存在し今日の芝公園古墳群を見るが如き有様であつたと思ふ。
                               (同書「上代文化史上より見たる上野台」より)
  
 

 でも、残念ながら鳥居は神田川流域、特に「百八塚」の伝承が残る戸塚から高田、下落合、上落合にかけてまでは、発掘の手をのばさなかったようだ。彼の関心は、目白崖線沿いの「富塚」「戸塚」(早稲田)、「丸山」(下落合)、「大塚」(上落合)などの地名が残る神田川ではなく、より古墳のかたちがくっきりと残存している野川沿い、国分寺崖線の丸山古墳周辺へと向けられていく。
 鳥居龍蔵が、平野部の広大さを踏まえれば、ひょっとすると相対的に近畿圏よりもはるかに大規模かつ密度が濃い「古墳の都」を江戸東京に見いだし、さらに関東平野の南北を流れる各河川沿いに拡がる巨大な古墳群に目を向け始めてはいても、これらの遺跡が重要視され、ことさら注意が払われることはついぞなかった。当時、政府の文部省がこしらえあげた非科学的な史観とシンクロして、古墳の発掘研究は近畿地方が中心であり、東京と周辺に展開する古墳は寺社がおかれているものを除けば、そのほとんどが満足な調査もなされないまま消滅していく。
 その大間違いに気づくのは、戦前の史観の枠組みや影響にほとんど縛られない、戦後の若い研究者たちが第一線へと登場し、次々と戦前の「常識」を覆す重要な発見が相次ぐ時代まで、待たなければならなかった。

■写真上は、1927年(昭和2)に出版された鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』(磯部甲陽堂)。は、円墳ではなく前方後円墳とみられる、1923年(大正12)の関東大震災直後の「将門塚」古墳。
■写真中は、現在の待乳山(真土山)の空中写真と、関東大震災直後の様子。は、浅草寺に隣接した弁天山(弁天塚)の空中写真と大震災直後の様子で、小型の前方後円墳と思われる。
■写真下は浅草の弁天山古墳で、墳丘には弁天社が建っている。は大震災直後の上野摺鉢山古墳で、は現在の同墳。それほど大きくない前方後円墳だが、写真を3枚つなげても入らない。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    こちらも、わざわざnice!をありがとうございます。>なおきさん
    2007年07月16日 12:13
  • ChinchikoPapa

    takagakiさん、いつもありがとうございます。
    2007年07月18日 20:13
  • アヨアン・イゴカー

    面白い記事ですね。大手町も古墳だらけだったのでしょうか?
    2009年03月06日 01:03
  • ChinchikoPapa

    アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
    ある場所に、ひとつだけポツンと孤立して古墳が存在することは少なく、今日の「墓地」あるいは「墓域」の発想と同じように、死者の「領域」としてまとめて埋葬した区画・・・という発想が古代にもあったと思われますので、おそらく大手町にもほかに古墳があったのではないかと想像しています。
    大手町の焼け跡写真を調べると、「将門塚」のほかにも、ひょっとしたら「サークル」がいくつか発見できるかもしれないですね。
    2009年03月06日 13:24
  • ChinchikoPapa

    書き忘れてしまいました、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2009年03月06日 13:35
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kurakichiさん
    2015年04月26日 20:34
  • ChinchikoPapa

    ずいぶん以前の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>さらまわしさん
    2015年04月26日 20:35

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