大正末の下落合は地価狂乱バブル。

 昭和初期の空中写真を眺めていると、周囲は住宅だらけなのにある箇所だけポツンポツンと、妙な空地を見かける。別に畑のようには見えず、単なる原っぱのようだ。たとえば、目白文化村の第一/第二文化村は、販売を終えるとほどなく家々が建ち並んでいるが、第三文化村は敷地完売後もなかなか家が建たず、1936年(昭和11)現在の空中写真でさえ空地だらけなのがわかる。これは、土地を購入したら家を建てる資金がなくなってしまった・・・からではない。土地投機が目的の、不在地主による近郊住宅地の買い漁りの結果だ。
 当時の新聞や雑誌を読んでいると、80年代のバブルに勝るとも劣らない、土地投機の一大狂乱ブームのまっただ中にあったのがわかる。関東大震災Click!により、東京の下町Click!に住んでいた多くの人々は、より安全な東京市近郊の宅地を求めて続々と移住していった。府営住宅Click!や目白文化村はもちろん、何度かご紹介したけれど、わずか1年半の間に谷間が住宅で埋まってしまった諏訪谷Click!のように、大震災に懲りた東京市民の郊外移住への欲求は強烈だったようだ。それを見こんだカネ持ちたちが、次々と東京市外の土地を買い漁っていく。
 当時の主婦向け雑誌でさえ、土地への投機を奨めて体験談まで掲載していた。1925年(大正14)に発行された『主婦之友』3月号には、「一年に十八割の利益を得た私の経験もあります」と、女性への土地投機をあおっている。
  
 東京市内の土地は、一等安いところでも一坪七八十円は必ずします。日本橋、神田、浅草などの高いところになりますと、一坪千円以上で売買されてをります。交叉点近くの角店になる土地なぞは、一坪二三千円出しても売手がありません。それでゐて、値段は天井知らずに騰つて行くのですから驚いてしまひます。ですから、市内の土地は、五六年で倍になると見て間違いはありません。(中略) 郊外の土地はどうかと言ひますと、現在稲を植ゑてある田地でも、豆や大根を作つてある畑でも、間もなく市内同様に建物ができるのでありますから、畑一反歩東京近在では、一万円から二万円はします。一里から二里くらゐ東京から離れたところでも、一反歩七八千円はするだらうと思ひます。即ち坪三十円以上になります。一坪二三十円もする畑を買つて、これに大根や豆を作つて何の利益もないでせうが、それでも皆喜んで買つて楽しんでをります。
                              (吉益松風「土地投資による財産増殖法」より)
  

 ちなみに、大正期の地価上昇推移を見てみよう。いずれも坪単価だが、いかにすさまじい値上がりだったかがわかる。10年で地価が4倍になっている街も、決してめずらしくはなかった。この表には、下落合は登場していないけれど、近いところで中野町をみると10年でなんと7倍の地価になっている。池袋でも4.4倍の値上がりだ。


 1929年(昭和4)5月14日の「東京朝日新聞」に、箱根土地が住宅地販売の広告を出している。当時の箱根土地が、新宿のことを「山手銀座」と表現しているのがおかしい。そして、こんなボディコピーを添えている。
  
 市内で最も便利な将来最も地価のあがる新宿・・・
 幾坪でも分譲 日曜夜間何時でも御案内します。
  
 明らかに、土地投機家を意識したコピー表現だ。なんとも困ったことに、箱根土地の予想は的中し、その後(特に戦後)、新宿の地価はとんでもないことになった。固定資産税や相続税も急上昇し、いまやその問題が街並みや風情を「破壊」するまでになってしまった。昔から住んでいる方々は知らないうちに、現金がないのになぜか「おカネ持ち」・・・にされてしまった。
 またしても、地価が上昇しているという。下町のコミュニティを根こそぎにした東京オリンピックバブルや、下落合の落ち着いた街並みが崩れていった80年代バブルのことを思い出すと、いまそこに住んでいる投機家ではない、そしてその街が好きで住みつづけたい人間にしてみれば、地価の高騰は二度とゴメンこうむりたいのだ。

■写真上:いつまでも家が建たない空地は、いわゆる“塩漬け地”なのだろうか。
■写真下:いずれも、「東京朝日新聞」の箱根土地広告。上は1929年(昭和4)5月14日号、下は1931年(昭和6)4月29日号。東京市外・品川御殿山の同社による分譲広告はめずらしい。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    nice!をありがとうございました、takagakiさん。
    2007年07月11日 19:24

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