大正時代の「マンガ家」たち。

 

 明治から大正時代にかけて、漫画家とよばれる人々は政治や世相の風刺表現などを中心に、もちろん存在していた。でも、ここでいう「マンガ家」とは彼らのことではない。洋画家である中村彝、曾宮一念、岸田劉生の3人のことだ。この3人、美術関連の書籍や資料ではあまり出てこないけれど、実はマンガが大好きだったのだ。
 曾宮一念Click!が、自作マンガを中村彝のアトリエへ見せにきていたことは、周囲の人たちによる証言でもチラチラとうかがえる。彼の描くマンガは、おもに友人知人の滑稽な似顔絵が多かった。彝アトリエでふたりは、知人たちの似顔絵を見せあったり、あるいはその場で描いては笑っていたのだろう。一念マンガは、今日でいう似顔絵の線画といったもので、いたってシンプルなものだった。対象となる人物の特徴をよくつかみ、ポイントとなる部分をかなり強調して描くやり方だ。
 彝の死後も、自宅で退屈すると彝アトリエへとやってきては、そこで帝展めざして制作をしている「中村会」Click!の若い画家たちにマンガを見せては笑わせ、仕事の邪魔をしていた。二科の曾宮としては、帝展のアカデミックな表現へ無批判に埋没するな・・・という、若い画家の卵たちへの想いも、どこかにあったのかもしれない。
  
  
 それに対して、中村彝Click!はいたって真面目でリアルなマンガを描いている。曾宮にそそのかされて、さかんに友人知人の似顔絵マンガを描いていたようだけれど、描いているうちにマンガではなく、いつの間にか写実になってしまう。現実にとらわれない自由で感覚的な描線でいいのに、描いているうちに知らず知らずデッサンになってしまうのだ。人物の特徴をすばやくとらえ、「写実」ではなく「感覚」で描くことが彝にはむずかしかったようだ。マンガの表現力や技量では、曾宮一念の腕前のほうが何枚も上手だった。
 曾宮は、彝とマンガを描いて談笑したあと、「これ、記念にもらってくよ」とでもいって、彝のマンガ作品を持ち帰っていたのだろう。何枚かの彝マンガが曾宮の手元に残ることとなり、いまでもそれらを目にすることができる。
  
 マンガのきわめつけは、なんといっても岸田劉生Click!だろう。彝や一念があくまでも似顔絵マンガのレベルなのに対し、劉生のマンガはいくつものコマ割りがつづく本格的なもので、現在のストーリーマンガとまったく同じ手法だ。「れい子はふうせんのやうなおはなを出してそれにお父様からいただいた絵の具で色をつけてふうせんにしてつきました。あんまりつよくついたのでこわれました」・・・などというシュールな展開のものや、教訓マンガあるいはしつけマンガのようなものまで見られる。ひとコマひとコマ、水彩できれいに着色された作品も残っている。
 また、劉生マンガには、よく「馬鹿ちゃん」が登場する。「馬鹿ちゃん」とは、もちろん娘の麗子のこと。たとえば、実話にもとづくこんなストーリーになっている。
  
 あるところに馬鹿がありました。その馬鹿が手拭や何かのきれをからだにつけて竹竿をくびにかけ、あたまに御客様が御玄関にぬいでおいた手袋をのせて御父様のいらっしゃる御二階へ来てみせました。それから御父様のステッキを持ち出して頭へ手袋をのせたままおんもへ飛び出し・・・(中略)
 そこで「馬鹿ちゃんや馬鹿ちゃんや」とよんで「ステッキはどこへやった」と聞きました。馬鹿ちゃんはへんな風をしたまま涙を出してさがしましたが分りません。御父様ハ御道にすてあった御客様の手袋をひろってしかりました。つるがとうとうステッキをさがし出しました。お隣の御門の処へ二つともかけてあったのです。馬鹿ちゃんは御父様に叱られてそれでもステッキが出たのでうれしいのとかなしいのとでなきわらひをしましたとサ。その馬鹿ちゃんといふのは相州鵠沼海岸松本別荘岸田麗子といふものです。 (劉生マンガ「あるところに馬鹿がありました」より)
  

  
 暴力をも辞さない、カンシャク持ちの劉生Click!が「バッカ、バッカ!」と叱ると、どこか幼児虐待のような印象を受けるのだけれど、これがぜんぜん違うのだ。父親に叱られて麗子が「ビェ~~ン」と泣くところで、マンガはENDとなる。でも、麗子のイタズラや失敗も、度外れていてすごい。お客様が脱いだ手袋や父親のステッキを持ち出して、“おんも”へそのままピューッと遊びにいく。すると、「馬鹿ちゃん」はみんなどこかへ落っことしてきてしまうのだ。お客と父親が外出しようとすると、家族総出で“おんも”を探しまわらなければならない。
 二度とイタズラや失敗をしないよう、劉生は仕事そっちのけでせっせと「馬鹿ちゃん」マンガを描いて、娘に与えていたようだ。マンガに登場する麗子は、すぐに「ビェ~~ン」と大粒の涙を出して泣く。そのコマだけ見ると、カンシャク持ちの父親だから子供はたいへんだ・・・などと思いきや、実は、麗子はとんでもなく手に負えないイタズラっ子だったのだ。
 演劇に対して「軽演劇」という言葉があったのと同様に、画家に対しては「図案家」(デザイナー)あるいは「漫画家」(イラストレーター)という、表現者として一段低くみるような風潮が強かった当時、この3人の洋画家たちがせっせとマンガを描いていたのは、いまでもあまり知られていない。

■写真上は、8歳の麗子自身による『岸田麗子八才』マンガ。は、ちょうど「馬鹿ちゃん」マンガが量産されはじめるころと思われる、2歳7ヶ月ごろのかわいい盛りの麗子。
■写真中上:曾宮一念マンガの登場人物たち。左上より右下へ、黒田清輝、長谷部英一、藤島武二、賀来清三郎、森田亀之助、最後はなぜか出入りの弁当屋のおやじ。
■写真中下:中村彝マンガの登場人物たち。どこか控えめで、ためらいがちな描線は、曾宮に付き合いながらも、「オレ、こんなことをやってる場合じゃないんだけどな」とでも想っていたのだろうか。
■写真下:岸田劉生マンガの登場人物は、「馬鹿ちゃん」とその父親ばかり。は、「れい子はふうせんのやうなおはなを出して」より。は、「あるところに馬鹿がありました」などより。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    takagakiさん、過分のご評価を連日ありがとうございます。<(__)>
    2007年07月05日 23:13
  • sig

    こんばんは。
    あの麗子像の麗子ちゃんと岸田劉生にこんなエピソードがあったとは。
    うちには昔、おやじが好きだったのか、岡本一平のB3位の大きさの漫画の色紙(印刷)が10枚ほど、大型のたとうに入って蔵にしまってあったのですが、子供の頃それを見て、昔の漫画はつまらない、と思った思い出があります。風刺などというものが分からないし、書かれた時代背景も知りませんでしたから。
    2008年07月16日 00:24
  • ChinchikoPapa

    sigさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
    岡本一平は、いまや世界に冠たる日本マンガの元祖のひとりのような人ですので、ものすごく貴重な作品資料ですね。東京美術学校では、確か藤島武二門下だったでしょうか。風刺漫画ということは、朝日新聞社時代の作品なのでしょうね。蔵の中の“お宝”は、いまでもsigさんのお手元にあるのでしょうか。
    2008年07月16日 11:04
  • sig

    今晩は。
    岡本一平の画集、今でも田舎の実家にあるかどうか・・・。
    なにしろ、家を建替えたり、この前の中越地震では、あればおそらく土蔵にしまっておいたと思うのですが、それが壊れてしまって、結局全部取り壊したりしていますから。
    印刷ですが、多分限定版だと思います。折があれば聞いてみたいと思います。
    2008年07月16日 16:36
  • ChinchikoPapa

    ご丁寧に、リプライをありがとうございます。
    実は、岡本一平は明日の記事に、下落合がらみで登場する予定でしたので、ちょっとビックリしました。マンガ家としての彼ではなく、作詞家としての岡本一平について下落合に関わりがありましたので、それについて書いた記事だったりします。^^;
    2008年07月16日 20:04
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2009年11月21日 15:38
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>パールさん
    2009年12月18日 00:38
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
    2011年02月04日 23:50
  • ChinchikoPapa

    ずいぶん昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。>じみぃさん
    2012年09月13日 18:51

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