下落合を描いた画家たち・大久保作次郎。(1)

 池袋の東京パンで焼かれた食パンを、1週間ほどで3斤棒1本も消費する、下落合540番地の大久保作次郎アトリエClick!では、弟子たちが邸内のあちこちで写生をしていた。大正期の大久保邸は、一種の画道場のような存在になっていたようだ。当時の記録を読むと、毎日5~10人ほどの弟子が通ってきていた。
 画家には、佐伯祐三のように自分が表現することでせいいっぱい、弟子などとっていられないタイプと、弟子をとっても将来プロをめざす画家のタマゴだけというタイプと、絵が好きな近所のアマチュア画家も集め画塾のようなサークルを開くタイプとがいる。これは、他のジャンルのクリエイターの場合でもいえることだ。大久保作次郎は、その様子から3つめのタイプだったのだろう。ちなみに、池田(佐伯)米子を弟子にしていた川合玉堂は、プロをめざす画家のタマゴしか入門を許さないタイプだったが、池田家のコネで特別に許されていたと、のちに米子自身が書いている。
 1922年(大正11)に発行された『主婦之友』11月号には、大久保邸の様子がこう記されている。
  
 大久保作次郎氏のお宅は、この頃一種の道場とでもいふ様な趣がある。広い画室には古風な大きな椅子やテーブルが据ゑられて、その間に女のお弟子が二組になつて、静物の習作に余念なく筆を運んでゐる。天上の高い壁には、氏のこれまでの作品が、小美術館とでもいふやうに一面に架け並べてある。画室の窓から見た庭は、さらに盛んなもので、そこにもこゝにもカンバスに対つてゐる人々の姿が見える。鶏舎のすぐわきの百日紅の下で描いてゐるのが渡辺百合子さん。その百合子さんをモデルにして高い窓のわきから描いてゐるのが牧野虎雄氏。その外、庭からヴェランダの方を描いてゐる梶原さんや、家の傍から庭の方を眺めて描いてゐる若い学生さんや、大変な繁昌である。
                              (同誌「帝展出品画製作の画室巡訪記」より)
  
 
 大久保作次郎が寄り添う写真の作品は、もちろん下落合にあった大久保邸の庭を描いたものだ。いかにも樹木がうっそうとした庭で、遠方には邸敷地の境界と思われる並木が描かれている。大久保はキャンバスをふたつ並べ、午前中はアトリエ内でモデルを相手に仕事をし、午後からは庭先の風景をモチーフに作品を仕上げていた。午前の光と午後の光とで、それぞれの作品を描き分け、毎日、少しずつ仕上げていく様子が記録されている。この仕事ぶりが、画家にとっては普通の姿であり、いつも記事にしている佐伯の描画スピードClick!こそが、むしろ異例なのだ。
 作品のタイトルは不明だが、大久保が午後の庭先を見て描いた一作だ。1922年(大正11)の夏らしく、関東大震災の1年前ということになる。佐伯祐三が、下落合にようやくアトリエを建て、ちょうど諏訪谷の曾宮一念Click!と知り合い、やはり近所の中村彝Click!に共感。レンブラント風の自画像やルノアール風の裸婦を、盛んに描いていたころだ。大久保邸の庭先には花々が咲き乱れ、いかにも広々とした印象を受ける。帝展へ出品する大久保は、取材記者にこんなことを語っている。
  
 御主人の大久保氏は、カンバスを二つ並べて、午前には揺籃の嬰児ちやんと夫人とをモデルにして部屋の中を、午後からはヴェランダの傍の窓をあけて、そこに据ゑられた白いテーブルを、足の高い椅子の上から見下ろして描いてゐられる。テーブルの上には、茶碗や林檎の皿がナイフとゝもにおかれて、藤棚をもれてくる外光の美しい光と色が、それに生き生きした生命を与へてゐる。
 「日が当るものですから、林檎がみなすぐにしなびてしまふんです。この方はもう七分通り出来てゐるのですが、午前に描いてゐる室内の方が間に合ふかどうかと案じてゐます。丁度描いてゐる最中に、国許に不幸が起つたりしましたので、予定がすつかり狂つてしまひました。」
 つゝましげに氏は語られた。 (同上)
  
 
 光をなによりも気にする、いかにも当時のアカデミックな「帝展派」の雰囲気が強く感じられる。大久保のまじめな作品からは、中村彝の激しさも、佐伯祐三の物狂おしさも、また金山平三Click!の洒脱さも感じられないけれど、画面からは当時の下落合の、のどかで美しい光があふれている。

■写真上:1922年(大正11)の夏に撮影された、アトリエの大久保作次郎。背後に見えている大きなキャンバス画面が、同年の秋に帝展へ出品される下落合の庭先を書いた風景画作品。
■写真中は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる大久保邸界隈。は、1936年(昭和11)の空中写真の同所。大久保邸の周囲は、特に緑の濃い様子がわかる。
■写真下は、1916年(大正5)に描かれた大久保作次郎『庭の木蔭』。下落合540番地へ転居してくる以前のように思われるが、これも下落合付近の庭を描いた作品かもしれない。は、北側の道路から旧・大久保邸あたりを撮影したもの。


下落合事情明細図.jpg
大久保作次郎邸1947.JPG

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    takagakiさん、nice!をありがとうございました。<(__)>
    2007年06月20日 11:05
  • ChinchikoPapa

    すごくレアな画像を入手しました。『主婦之友』の記者が訪れて、まさに目にした光景の現場写真と、その作品の画像をある方からお送りいただきました。1922年(大正11)の秋、大久保作次郎邸の庭で制作する、長崎に住んだ洋画家・牧野虎雄の姿。そして、百日紅の下で写生をする渡辺百合子をモチーフにした、同年の牧野虎雄『百日紅の下』です。記事末に、画像を2点追加しました。
    カラーの『百日紅の下』を見ますと、大久保邸の庭の風情がたいへんよくわかります。超貴重な写真と作品画像を、ありがとうございました。<(__)>
    2007年06月20日 12:22
  • ロックケーキ

    心臓がドキドキするほど驚いてしまいました。
    地図中に夫の祖父の家を発見したからです!
    大久保作次郎の家のすぐ近所だったとは!

    義母に聞いたところ、幼い頃、「思えば偉い方のお子さん方と遊んでいたのですね。大久保さんの姉妹とは大きな蓮池のあるお庭でよく遊びました。広い洋風のテラスには描きかけの絵があったり、葉っぱに触れてはいけないと言われていたことを覚えています。」とのこと。
    Chinchikoさんのお陰でこのような話が聞けて、私も下落合にますます愛着がわきました。ありがとうございます。

    ご存知かもしれませんが、同じく地図中にお名前が見える田辺尚男氏は邦楽評論家で、その息子さんも音楽評論家だそうですね。
    2008年11月26日 12:53
  • ChinchikoPapa

    ロックケーキさん、こちらにもコメントをありがとうございました。
    わたしも、ビックリしました。^^ お祖父様のご実家が大久保アトリエの近く、しかもお義母様は大久保邸の庭で遊ばれたとは・・・。枝葉に触れてはいけないというのは、大久保作次郎が庭の草木を作品のモチーフにしていたから・・・かもしれませんね。記事末に、もう少し広範囲の「下落合事情明細図」(1926年)を追加掲載しました。お義母様がよくご存じの、近所の家々が描かれてるかもしれません。
    田辺尚男という名前は、どこかで聞いたことがあると思っていましたら邦楽の評論をされてた方なのですね。改めて調べてみましたところ、わたしは民俗学の本かなにかでお見かけした名前だったように思います。
    2008年11月26日 15:01
  • ロックケーキ

    ご親切に地図のアップをありがとうございます。
    義母にもこちらのURLは伝えてありますので、見てくれると良いなと思っております。

    義母自身は覚えていないそうなのですが、大久保邸の池に落っこちたことがあるようです(^_^;)
    chinchikoさんのお陰で、楽しい会話が増えました。
    2008年11月26日 17:02
  • ChinchikoPapa

    もし、大久保邸の庭の写真が残っていれば、お義母様が落っこちた池の写っている確率が高そうですね。^^; 大久保作次郎『池に落ちた少女』なんて作品があったりしたら、すごいですね。(笑)
    大久保邸の界隈は空襲でも焼けていませんので、お義母様のご実家がそのまま写っている可能性が高いですね。記事末に、空中写真を追加しておきます。
    2008年11月26日 19:59
  • ロックケーキ

    空中写真のアップをありがとうございました。
    写っていました・・・数年前に取り壊して今はもうなくなってしまっている祖父の家が。

    それからすみません、田辺氏のお名前、漢字を間違えていました。
    正しくは田辺尚雄氏でした。大変失礼いたしました。

    私の義母の姉は安井曾太郎のお孫さんの家庭教師をしたことがあるそうです・・・お陰さまでなんだかいろんな話が出て参りました。

    chinchikoさんはすでにご存知かと思うのですが、「落合の昔を語る集い」文集『私たちの下落合』(平成18年8月1日発行)という文集をその伯母から借りて読んでいます。
    chinchikoさんのブログとリンクする内容も多く、その当時の様子を思い浮かべて楽しんでおります。
    2008年11月28日 18:49
  • ChinchikoPapa

    ロックケーキさん、コメントをありがとうございます。
    安井曾太郎のお孫さんのお話は、下落合の近衛町のアトリエ時代ですよね。当時のアトリエの写真を探しているのですが、なかなか見つかりません。ちょうど、岡田虎二郎邸の跡に、安井アトリエが建っています。
    『私たちの下落合』は、確かできたときにある方からすぐにいただき、たいへん楽しく拝読しました。こういう聞き書きの記録は、あとで調べものをする上でとても参考になりますね。いま、昔を知る方々の物語を、音声と動画で残そうという企画が進行しているようです。これも、下落合の貴重な1次資料になりますね。
    かなり昔の記憶を掘り起こして語っていただくわけですから、証言同士の齟齬や矛盾が出てくることが多いと思うのですが、それがなぜ食い違っていのかを調べていくと、思わぬ重要な(別の)テーマに行き当たることも少なくありません。つまり、記憶の差異や齟齬は、逆に、そこになにか物語が隠れているというケースが、これまでの経験からも多いんです。だから、矛盾や齟齬は無理に統一せず、そのままのかたちで記録することが、けっこう重要なテーマだと思うんですよ。
    2008年11月28日 23:53
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2009年08月04日 11:48
  • ミッチー

    こんばんわ
    画像検索からお邪魔しました

    実は最近、mixiの日記で安井曾太郎展のことを書きまして、曾太郎は私の母の大叔父にあたる人なのです
    そんな話をつらつら書いていたところ友人から、「私の旦那のお祖父さんは曾太郎と同じ年代の画家さんだよ」と云う話があがり、その画家さんのお名前が「大久保作次郎」さんであることが分かりました

    で、ちょこちょこと調べているうちにこちらにたどりついた次第です
    友人曰く、曾太郎が良く描くために宿泊していた九十九里の宿で筆をとっていたことがあったようです

    この記事のコメントなどから何やら縁があるのかなぁとか色々思って思わずコメントさせていただきました
    友人はあまり作次郎について知らないとのことでしたので、こちらのURLを伝えてあります
    2010年01月19日 02:10
  • ChinchikoPapa

    ミッチーさん、コメントをありがとうございます。
    安井會太郎画伯のご親戚の方は、こちらのサイトでは初めてのことです。ようこそ、おいでくださいました。^^
    このサイトではあちらこちらに、目白駅近くの山手線の線路沿い、そして下落合の「近衛町」にアトリエをかまえていた安井画伯は登場しています。近々、安井画伯へ師事していた、大正初期の小島善太郎の記事でも、当時の地図に記載された安井アトリエとともにご登場予定となっています。
    安井画伯については、かなりたくさん書いてきているのですが、いまだわたしの怠惰のせいで真正面から取り上げさせていただく記事を書いていません。<(__)> といいますのは、画伯がアトリエの周囲、すなわち「下落合風景」を描いていないかどうか、ずっと探してきていました。画伯の制作テーマや表現から、難しいのかな?・・・とも思いはじめていたのですが、ひとつひっかかっているテーマがあるのです。
    実は、東京美術学校の教授・森田亀之助が企画プロデュースした「湶晨会」という、日米開戦の年、昭和16年に結成された画会があるのですが、下落合に住む画家の4人を集めた会で、そこに安井画伯は参加されています。残りの3人とは、金山平三、牧野虎雄、曾宮一念ですが、昭和18年までに3回の展覧会が日本橋高島屋で開催されています。
    http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-07-06
    屋外で写生をしていると、「スパイ」を疑われるような制作が不自由になっていった時代、安井画伯がひょっとするとアトリエ周辺の「下落合風景」を描いていないかどうか、以前からずっと気がかりで探しておりました。「湶晨会」の第1回目の貴重な図録は、ある方からいただいて上記の記事でご紹介済みなのですが、残念ながら安井画伯は制作が間に合わず出品されていません。では、2回目そして3回目の作品はどうだったのか?・・・というのが、ここ数年来、ずっと心に引っかかっている課題となっていました。(つまらないお話かもしれず、すみません/汗)
    このところ、曾宮一念の著作をずっと読んでいるのですが、あちこちに安井画伯についての記述がみえますね。そして、房総の波太(なぷと)や布良(めら)などに写生に出かけると、青木繁や中村彝の話題とともに、安井画伯も登場しています。
    いきなり、わたしの勝手な思いを長々と書いてしまい、失礼いたしました。なんとか、地域と結びついた安井作品がないものかどうか、ずっと気がかりだったものですから・・・。^^;
    2010年01月19日 11:23
  • kita hiroko

    大久保作次郎さんの「ベルモード」という戦前の婦人帽子店風景の画をご存知でしょうか。
    昭和60年1985年「白根桃源美術館」にて4月3日~5月5日まで展示されました。
    ご存知の方があればお知らせください。
    2017年09月21日 14:21
  • AKM

    はじめまして作次郎の曾孫です。
    何気なく名前で検索してみたらこのページにたどり着き、曾祖父の絵や家など初めて見る情報に感動しております。コメント欄に祖母らしき女の子のエピソードも拝見しうれしくなりました。有難うございました。
    2021年04月27日 20:26
  • ChinchikoPapa

    AKMさん、コメントをありがとうございます。
    大久保作次郎画伯は、「下落合風景」も何点か描かれていますし、牧野虎雄をはじめ中村彝、金山平三たちとの交流や、戦後すぐの目白文化協会にも参加されていましたので、こちらでも何度となく記事に取り上げさせていただいています。
    検索欄に曽祖父さまの名前を入力されますと、たくさんの拙記事が引っかかるかと思います。よろしければご笑覧ください。
    2021年04月27日 22:11
  • AKM

    ありがとうございます。名前やゆかりのエピソードがたくさんで、本当に嬉しいです。
    祖母は曽祖父の最初の奥さんの娘でしたので実母とは早くに離れて寂しい思いをしたようですが、アトリエにはいつもお弟子さんが大勢いてにぎやかで、みなさんに遊んでもらって楽しかった、という話を生前の祖母から聞いておりました。作次郎は真面目な顔で冗談を言い、みんなを笑わせるようなひょうきんな人だったそうです。ほとんど見たことがなかった曾祖母(満喜子さん)の写真まで拝見できて、感慨深いです。
    他の記事も、ゆっくりじっくり拝見させていただきます。
    有難うございます。
    2021年04月27日 23:12
  • ChinchikoPapa

    AKMさん、ご丁寧にコメントをありがとうございます。
    曽祖父さまのアトリエが、ちょうど高田町や長崎町と下落合とを分ける境界線上にあったせいか、画伯は落合側の画家たちはもちろん、長崎側の画家たちとも親しく交流していて、さまざまなエピソードを残しています。
    また、画伯の画塾は笠原吉太郎や曾宮一念の画塾とともに、落合地域ではもっとも早い時期からのもので、もう少しこのブログを早めにスタートしていれば、実際に絵を習いに通った方々の証言も集まったのではないかと思うと、ちょっと残念です。そして、画伯が穏和で優しかったせいか、女学生の弟子がたくさん集まったことでも有名ですね。w
    2021年04月27日 23:21

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