箱根土地と東京土地住宅との記憶齟齬。

 

 以前、下落合の西部(現・中井2丁目)に位置する「アビラ(阿比羅)村」を開発したのは、東京土地住宅(株)であることを突き止めて記事Click!にしたことがある。金山平三Click!のアトリエをめぐって資料を収集しているとき、おそらく金山本人の言、あるいはらく夫人Click!の証言である記述にぶつかったのだ。飛松實の『金山平三』(日動出版・1975年)から、該当箇所を引用してみよう。
  
 前に引用した絵葉書に、「アビラの方の取得税ハ始(ママ)めての事故分かり兼ね候」(大正十二年二月六日付)とある。“アビラ”とはこの土地のことで、文面から推せば、入手時期は大正十一年末か十二年早々らしい。らくによれば結婚後四年ほど経ってからだったという。
 東京土地会社が開発整地した分譲地を、満谷国四郎、南薫造、金子保などと相前後して買入れた。坪三十五円で、最初百坪ほどのつもりだったが、将来のことを考え思い切って百五十坪を買い、その代金五千余円はらくの給料の貯金の大部分を充てた。
  
 金山が自身で名づけたとされる「アビラ村」だけれど、それにしては大規模な平面図が残っていたり、佐伯祐三が「アビラ村の道」Click!として認知するほど一般的に知られていたことからみて、地域開発名として使われていたネーミングではないか?・・・との疑問がわく。これは、マイケルさんが当初から持たれていた疑念でもあった。わたしは、「アビラ村」という名称は、最初は金山がそう言い出したのかもしれないが、それを東京土地住宅が採用したのではないか・・・と考えている。以下、そのあたりのテーマを追いかけてみたい。
 「アビラ村」を開発したのは東京土地住宅のはずなのだが、同地域にお住まいの方は、なぜか東京土地住宅ではなく、隣接する目白文化村を開発した箱根土地(株)が開発したと思われている方、あるいはマイケルさんが取材された某邸のように、実際に「箱根土地から敷地を購入した」と伝わるお宅もある。いったい、どちらがほんとうなのだろうか?
 これとまったく同じ現象が、実は下落合の東側=目白駅付近、特に「近衛町」や「近衛新町」と名づけられた、大正後半の宅地開発地域についても見られる。つまり、あるお宅では箱根土地から敷地を購入しており、「ディベロッパーは箱根土地」と思われている方もいれば、東京土地から敷地を買って、「開発したのは東京土地」と思われている方もいる。わたしは当初、お互いライバル同士の東京土地と箱根土地が、隣接するような区画を競い合いながら買収し、両社があちこちで入り組んだ複雑な宅地開発だったのだろう・・・と、漠然とながら想像していた。
 これは、「アビラ村」についても同様で、第一文化村の成功を目の当たりにした東京土地が、急いで文化村周辺の土地を買収して整地し、「アビラ(阿比羅)村」として売り出したのだろうと考えた。箱根土地も負けてはおらず、買収できる土地があればすぐに目をつけて小規模開発を繰り返していったのではないか、だから同じ「アビラ村」の中でも、箱根土地から敷地を購入したお宅もあるのだ・・・と、こちらも漠然と考えていた。ところが、事情はまったく異なっていたのだ。
 
 東京土地は、おそらく土地買収のために莫大な借り入れを銀行から起こしていたのだろう、1925年(大正14)になると経営が大きく傾くことになる。巨額の負債を抱えて事業が継続できず、ついに経営破綻にまで陥ってしまう。最終的には、同年に下落合地域の宅地開発・販売の多くを断念してしまうのだ。そして、これらの事業のあと始末を委託されたのが、第一文化村の脇に本社をかまえていた最大のライバル、箱根土地だった。海野勉による『No.8706「目白文化村」に関する総合的研究(2)』(住宅総合研究財団・1989年)から、その模様を引用してみよう。
  
 近衛邸の「開放」は箱根土地とはライバルの関係にあった東京土地住宅(株)の手によっておこなわれたが、東京土地住宅が経営危機に陥った大正14年(1925)以降は、箱根土地がその一部を肩代わりして分譲しており、ここにも箱根土地との一定の関係がみられる。
 したがって、箱根土地あるいは堤康次郎による「目白文化村」の建設とそれら象徴される落合の郊外住宅地化を検討するためには、以上のような府営住宅の建築や「近衛町」の形成についても、可能なかぎりその経緯や特徴をみておくことが必要となる。
                           (同資料「『目白文化村』周辺における宅地開発」より)
  
 だからこそ、地域開発をしたディベロッパーの名前あるいは敷地購入の会社名を、ある方は東京土地、またある方は箱根土地とされる、記憶の「混乱」または伝承の齟齬が生じたのだと考えられる。正確にいえば、1925年(大正14)以前に「アビラ村」と「近衛町」を開発して販売していたのは東京土地、それ以降は両地域とも箱根土地の仕事・・・ということになる。そして、東京土地が「近衛町」や、おそらく金山命名を拝借した「アビラ村」と名づけて売り出した地域に、それらの「混乱」や齟齬をベースとした、さらに“忘却”現象が生じることになる。
 早くから開発が始まっていた、目白駅近くの下落合では「近衛町」という名称は定着したけれど、目白文化村の建設を追いかけて始まった「アビラ村」は、その住宅地のネーミングさえ忘れ去られることになってしまった。同様に「近衛町」でも、箱根土地が事業を継承して売り出すころには、すでに定着し始めていた「近衛町」はそのまま継承されたものの、「霞ヶ丘」や「梅小路」「綾小路」といった区画名は、すべて忘れ去られることになったのではないか。
 箱根土地としては、競合他社がコンセプトを組み上げた街のネーミングなど、あえて尊重しようとは思わなかっただろう。事実、箱根土地は下落合における目白文化村の建設については大きくアピールしても、他の「近衛町」や「アビラ村」については実際に販売しているにもかかわらず、まったくといっていいほど触れていない。わたしも、箱根土地による「近衛町」販売の新聞記事Click!を見て、改めて調べ直してみたしだいだ。
 「アビラ村」をはじめ、「霞ヶ丘」や「綾小路」といった住宅地名は忘れ去られたが、唯一、近衛邸が建っていたから「近衛町」という名称は、地元の感覚ともマッチしてそのまま今日でもつかわれている。おそらく、地元の感覚とは乖離していた、金山じいちゃんClick!の思い入れのある「アビラ村」は、東京土地住宅が手を引くとともに、さっそく忘れ去られたのだろう。

■写真上:1945年(昭和20)の4月13日、5月25日の両空襲からもまぬがれた「アビラ村」の家々。大谷石の築垣は、1925年(大正14)以降の箱根土地による仕事かもしれない。
■写真下:いまも残る昔日の「近衛町」の美しい風情。ただし、このエリアは激しい空襲を受けており、当時の建築物は「目白文化村」や「アビラ村」に比べ、相対的に少なかった。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    またまたありがとうございます、takagakiさん。<(_ _)>
    2007年05月25日 15:21
  • Nylaicanai

    同時期のことではなく、前後してのことだったのですね。アビラ村における東京土地と箱根土地の関係は。

    しかし、毎度のことながら素晴らしい取材力!
    脱帽です(^^ゞ
    2007年05月25日 21:52
  • ChinchikoPapa

    わたしも、これは意外でした。
    箱根土地は、いまのコクドへとそのままつづいていますけれど、東京土地住宅の「いま」がどうしてもわかりませんでした。きっと、戦前から戦後にかけ合併されるか、あるいは吸収されるかを何度か繰り返し、沿革がかなり薄まってしまったのだろう・・・と勝手に想像してたんですね。
    ところが、そうではありませんでした。下落合を離れ、国立への本社移転の直前だった箱根土地は、東京土地から事業を押しつけられるようにして継承していますから、ライバルが消えるのはありがたかった反面、予定や段取りが狂ってかなり迷惑だったんじゃないかと・・・。だから、「目白文化村」にはこだわって最後まで力を入れても、「近衛町」と「アビラ村」はお得意な最先端の共同溝を設置するわけでもなく、売れたらさっさとサヨナラしているような感触があります。(笑)
    2007年05月25日 23:21
  • マイケル

    またまた素晴らしい研究をされましたね。。改めて敬意を表させて頂きます。(^o^)/ 続編がありそうで楽しみです。。
    2007年05月26日 23:24
  • ChinchikoPapa

    いいえ、過去の取材不足、ウラ取り不足が露呈してしまった感じです。
    以前に書いた記事の中で、「記述の齟齬」が出てしまっているかもしれません。(^_^;
    この様子ですと、東京土地住宅が開発・販売した地域でも、同社がいなくなってしまったあとは、のちに箱根土地が手を入れている・・・というようなケースもあるのかもしれません。そういうエリアだと、もっと伝承が混乱している可能性がありますね。
    2007年05月27日 11:08

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