諏訪谷に繁った巨木のゆくえ。

 

 なんだか、植木屋さんブログのようなタイトルだけれど、この題名には重要な意味がある。もちろん、佐伯祐三の「下落合風景」Click!シリーズにおいてだ。上の左側の作品は、1930年協会の第2回展へ出品された絵だが、諏訪谷の谷戸の突きあたり、大六天あたりを描いたものだ。わたしのデジャビュClick!の作品として以前、こちらでもご紹介している。
 「制作メモ」Click!では、1926年(大正15)10月23日に描かれた「セメントの坪(ヘイ)」がこれに相当する。わたしは確かに、これとそっくりな風景を、30年ほど前の諏訪谷で目にしている。当時は、すでに「セメントの塀」は撤去され、大六天の鳥居は南側へと移動したあとだった。わたしが昔、実際に目にした記憶と、佐伯の描いた風景が限りなく一致しためずらしいした作品となった。
「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!が描かれた可能性が高い。
 この「下落合風景」は、もちろん曾宮一念邸の西側あたりの草原から、大六天のある東南東の方角を見て描いたもの。久七坂筋に建っている、中央右よりの日本家屋はそのままの姿で残っていて、いまでも画像を確認できる佐伯の「下落合風景」全作品を通じて、唯一現存するお宅となっている。「目白・下落合/歴史的な建物のある散歩道」マップClick!でも、吹き出しの注釈を入れさせていただいた、大正時代の典型的な日本家屋だ。
 
 ところが、この絵には不可思議な“謎”がある。大六天横の谷側にそびえていた巨木が、まったく描かれていないのだ。この大きな樹は、佐伯が別に描いた諏訪谷の風景、上掲右の「曽宮さんの前」Click!とわたしが判断している作品には、右端に街路灯とともに黒々とした枝葉がかろうじて描かれている。1936年(昭和11)の空中写真にもはっきりと写るこの巨木は、わたしが気づいたときには、すでに大きな伐り株を残すだけとなっていた。雷が落ちて幹が裂けたので、危険だからやむなく伐採したと、ご近所の方からうかがったことがある。大六天の西側下、諏訪谷の突き当たりに築かれた、古い大谷石による擁壁をくり抜くようにして伐り株は残っていた。築垣の様子からして、大谷石が積まれる以前から、巨木はそこに生えていたように思える。
その後、ご近所の方からケヤキの老大木は、1992年(平成4)の台風で大きな被害を受け、倒木が危険なのでやむをえず伐採したとのお話を複数うかがった。1992年といえば、わたしは巨木からわずか50mほどしか離れていない、聖母坂沿いに住んで11年めのころ。相変わらずボーッとしていたものか、わたしはいくら記憶の糸をたどっても老木の明確な記憶がない。幼いオスガキふたりに気をとられ、周囲の景色がよく見えていなかったのだろうか?
 でも、もう一方の「曽宮さんの前」Click!では、大六天側から諏訪谷へと下る坂道の突き当たりに、点灯されたばかりらしい街灯がクッキリと描かれ、それに寄り添うような位置に巨木が繁っているのがわかる。つまり、現在では伐り株さえ撤去され、大谷石の擁壁に空いた穴がコンクリートで埋められている巨木のあったはずの位置よりも、かなり坂下(南側)に近い位置に樹が描かれているのだ。これは、いったいどういうことか?
 
 もともとこの巨木は、諏訪谷の谷底に近い位置に生えていたのではないか。いまの地形でいうと、大六天西側の谷底へと下りる坂道の突きあたり辺に、この樹は繁っていたのではないか。だが、1925年(大正14)から翌年にかけ、諏訪谷の急速な宅地化にともない、この樹が開発の邪魔になったのだ。大六天の聖域にも近く、伐採してしまうにはあまりに“神木”に近いこの巨木を、道路や住宅敷地の邪魔にならない位置へと移植した・・・。この仮説には、実は曾宮一念が有力な“証拠”を残してくれている。1925年(大正14)9月に、第12回二科展へ出品されたと思われる、曾宮邸の庭先Click!を描いた作品だ。画面の左端に描かれた巨木は、南南東の画角からみて、かなり谷底に近い位置に繁っていることになる。
のちに、モノクロではわかりにくかったが曾宮一念『荒園』のカラー画像Click!から、巨木は諏訪谷の尾根上ないしは斜面に生えていたことが判明している。
 諏訪谷の宅地開発は、ちょうど佐伯が「セメントの坪(ヘイ)」や「曾宮さんの前」を描いているころに、竣工期を迎えることになる。曾宮一念が『冬日』(1925年・大正14)で描いた、旧・洗い場Click!は埋め立てられて南へ移動し、谷間には縁石が敷かれた宅地や道路が造られ、最後の仕上げとして大六天の鳥居下に谷底から巨木が移植されて、大谷石による擁壁が築かれた。佐伯は1926年(大正15)の秋、巨木が移植される直前に、曾宮邸の周囲からこれらの作品を描いたのだ。もし、佐伯が第2次滞仏から無事下落合にもどれていたら、移植を終えた巨木が「セメントの坪(ヘイ)」の作品風景を大きく変えてしまっていたことに、すぐにも気づいただろう。
 
 移植された巨木は枯死することもなく、昭和初期には青々とした枝葉を繁らせていた。そして、空襲にも焼けることなく、戦後も大六天の境内に涼やかな風情をもたらしていたのだろう。

■写真上は、1926年(大正15)10月23日の佐伯祐三『下落合風景』(「セメントの坪<ヘイ>」)。は、1926年(大正15)9月20日の同『下落合風景』(「曾宮さんの前」だと思う)。
■写真中上は、昭和に入ってからの巨木の位置。は、坂下側からみた巨木の北への移動。
■写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる巨木の位置。すでに、北側へ移動したあとだ。は、曾宮一念の作品(1926年・大正14)にみる、諏訪谷の南寄りに描かれた巨木。
■写真下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」。は、大谷石の擁壁に残る痕跡。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    takagakiさん、いつもありがとうございます。<(_ _)>
    2007年05月08日 19:40
  • sig

    こんばんは。
    巨木の記憶があいまいというお話。よく分かります。大木でも、それがあって当たり前の情景として毎日見ていると、意識の中に残らない・・・つまり、いつも通る街角に ある日高い建設の囲いが立ったとき、さて、ここは何があったところだろう、と思うことってありませんか。
    同様に、わが街の区画整理では、大木がいつの間にか伐採されたのに、案外地元の人が気づかず、私が話すと「ああ、そういえば…」という具合です。
    いずれにしても、大木を移植するなど、邪魔なら何でもかんでも伐採してしまう今のご時世ではあまり考えられないことで、その木が移植後も元気で大家の絵画の背景を勉めているというのはいい話ですね。
    2008年09月03日 23:21
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントをありがとうございます。
    > さて、ここは何があったところだろう、と思うことってありませんか。
    もう、しょっちゅうですね。(笑) 特に繁華な通りの商店街では、お店の開いたり閉じたりが年じゅうありますので、そこが以前なんの店だったのか、よほどのファンか、なにか強い印象が残らない限り憶えていられません。記憶力がだいぶ落ちてる・・・とガッカリしてたのですが、周囲のみなさんも同様なので少し安心しています。
    木々の移植は、専門の樹木医によれば季節やタイミングがあり、かなりの神経をつかう難しい作業だそうです。先年、“たぬきの森”をめぐって、大クスノキと大ケヤキの移植が行なわれたのですが、時期外れにもかかわらず移植を強行したため、ケヤキのほうが1本枯死してしまいました。
    もうひとつ、個人邸に生えていた大カキの木を、こちらは細心の注意を払って近くの公園へ移植したのですが、残念ながらここ数年芽が出ないようですね。
    2008年09月04日 12:08

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