目白中学校が去ったあと。

 1926年(大正15)の夏、近衛邸の敷地に建っていた目白中学校Click!が、下落合から練馬へと移転した直後の写真が残っている。移転から1年半ののち、1928年(昭和3)が明けた冬に撮られた写真だ。数日前に降雪があったらしく、手前の中学校跡地には雪が残り、目白通り北側に並ぶ商店の屋根にも、ところどころに雪が残っている。
 この写真は、目白中学校の第一校舎Click!が建っていたすぐ南、1,500坪のグラウンドの北寄りのあたりから目白通りへ向けて撮影されたものだ。右端に写る大きな樹木は、目白聖公会の敷地内にあったものかもしれない。中学校の正面にあった商店街の様子が、鮮明にとらえられている。まず、画面の右手には、目白中学校の正門前にあった「朝香洋品店」。おそらく、目白中学校の制服も扱っていたと思われる。その左隣りが「漆物店」で、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」に「三ッ山」と記載されたお店。だから、正確には「三ッ山漆物店」だったのかもしれない。その左隣りが、近所の普請を引き受けていた「目白工務所」。中でも、もっとも目立つシャレた看板だった。
 「目白工務所」の西側には、細い路地が見えている。この路地を北へ入ると、雑司谷旭出(現・目白3丁目)にあった旧・戸田邸Click!(のちに徳川邸)の正門へと抜けることができた。その西側の角地は、のれんが出ているので食べ物屋だろう。看板が小さく、電柱が邪魔して読み取れないけれど、その左隣りは「古本○○書籍」と書かれているので古書店。その左に建っている3棟つづきの商店は、看板が比較的はっきりと読み取れる。右側が「理髪館」、真ん中が「福島屋」、左が中華料理の「來々軒」で、事情明細図ともピタリと一致する。さらに、その左手は魚屋「魚清」だろう。
 
 もう少し目白文化村Click!寄り、目白福音教会(目白平和幼稚園)や目白英語学校の前、目白通りの北側一帯をとらえた写真を、以前ここでご紹介Click!したことがある。このあたりの目白通りは、すでに商店がぎっしりと建ち並び、商店のある通り沿いには街路樹さえ存在しないことがわかる。また、商店の庇が道路側へと張り出し、さらに上の写真では道路にはみ出してさまざまなサインディスプレイ類(道路看板)が置かれているのが見て取れる。当時は目白通りの幅が狭く、ダット乗合自動車Click!はこれらの看板を避けながら、のんびりと走行していたのだろう。もちろん、現代的な道路交通法など存在しない時代だから、少しでも看板やショウウィンドウを目立たせようと、道路側へせり出すように設置していたと思われる。
 写真でひときわ目を惹くのは、商店あるいは住宅密集地に近いところに建っていた電柱だ。佐伯の「下落合風景」Click!に登場する電柱の横木は、まだ住宅がそれほど密集していない下落合の西部が多いせいか、たいがい1~3本と少ない。ところが、目白駅に近いこの一帯は、その横木の本数がものすごいことになっている。手前、目白通りの南側は横木が3本と少ないものの、北側はなんと9本も渡してある。その重みで電柱が倒れないよう、電柱と同じ太さの支柱でささえられているのが捉えられている。
 
 大正期からつづいていたと思われる、写真に写るこれらの商店にとって、目白中学校の移転は売り上げに大きく響いたかもしれない。特に、教職員や学生たちをあてにしていた、洋品店や食べ物屋はがっかりしただろう。一部の商店は、目白中学とともに練馬へ引っ越した記録も残っている。

■写真上:1928年(昭和3)に撮影された、目白中学校の跡地から目白通りを望んだ光景。
●地図は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」と撮影ポイント。写真に撮られた看板の商店が、「事情明細図」にもほぼそのまま記載されている。は、1918年(大正7)に設立された目白聖公会の聖堂。ただし、この聖堂は上の写真の翌年、1929年(昭和4)に建設された。
■写真下:当時の目白通りの風情がよくわかる、拡大した商店看板や電柱などの様子。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    またまたtakagakiさん、nice!をありがとうございました。<(_ _)>
    2007年04月24日 00:08
  • 風呂好き

    珍しい写真を興味深く拝見致しました。小生は銭湯が好きなため、写真の中に、風呂の煙突を探してしまいました。妙なお尋ねで恐縮ですが、色地図左上の「…湯」の煙突は写っているのでしょうか。目白通り沿いの電柱、その裏手の通り沿いにあるらしい電柱、の他に、横木のない様に見える柱が2本あると見えます。(福島屋奥と、更に向って左の方です。)距離感・高さ感など、今一つ分からんのです。
    2007年05月05日 15:45
  • ChinchikoPapa

    風呂好きさん、こんにちは。
    「ときわ湯」の煙突は、左の画角スレスレに外れてしまっているようですね。以前にこちらでご紹介した、やはり昭和初期の写真には、「ときわ湯」の煙突がはっきりと写っています。下記のページの写真⑧が、「ときわ湯」あたりを目白通りと平行に、西側から撮影したものです。
    http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-03-25
    確かに、横木のなさそうな電柱も見えますね。通り沿いの本柱と、引き込みの支柱の違いもありそうです。また、モノクロ写真ですので、電柱が何色だったのかもわかりにくいですね。電源ケーブル柱と電信(電話線)柱とは、大正末から昭和初期にかけての一時期、色で区別されていたようですが、写真ではみんな同じような色合いに見えますね。
    2007年05月05日 17:56

この記事へのトラックバック

目白中学校と埴谷雄高。
Excerpt: 先日、TVを観ていたら学生たちはなぜ怒らないのか、みんな大人しすぎる・・・というようなことを言う評論家がいて、アジアにおける変革はどの国も学生運動からスタートしているのに、「日本の学生たちは、なぜ起ち..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2009-04-07 00:25

三岸好太郎と家庭購買組合。
Excerpt: 東京へやってきた三岸好太郎Click!は、大正期に絵を勉強しながらさまざまな仕事についている。その中で、もっとも長くつづけた勤めは、1923年(大正12)からはじめた家庭購買組合の仕事だった。家庭購買..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2013-07-06 00:02

媒体広告にみる「近衛町」開発の推移。(下)
Excerpt: さて、話は前後するけれど、近衛町の販売Click!がスタートしてから約2ヶ月後、1922年(大正11)6月17日に東京土地住宅は、今度は近衛町の北西に位置する林泉園Click!を中心とした、「近衛新町..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-06-02 00:00