「め組」が仲裁するケンカって・・・。

 

 以前、「め組」(町火消し)と加賀鳶(大名火消し)との柳原におけるケンカClick!については、芝居がらみで紹介したけれど、やたらケンカっぱやい「め組」がケンカ寸前の悶着へ、めずらしく仲裁に入ったエピソードが残っている。天保年間に起きた、神田明神の「常燈明事件」だ。
 常燈明というのは、船が夜間航行するときの目印にする灯台のことだ。九段上にあった灯台が有名だけれど、もともとは神田明神の東側参道にあったもの。明治以降、浮世絵や名所絵に描かれたので、九段坂の常燈明のほうが有名になってしまった。でも、江戸湾の眺めは、九段よりも明神台(神田明神の丘上)のほうが優れていた。現在からは想像もつかないけれど、明神の境内からは大川の河口から房総半島までが見渡せたのだ。江戸湾に出漁する漁師たちは、日が暮れると神田明神の灯台を目印に帰路を急いだ。
 享保年間に町奉行をつとめた大岡忠相は、江戸町内に当初「いろは」47組の消火隊(町火消し)を組織したが、いの一番につけた「い組」こそが、江戸のヘソであり、中核の総鎮守でもあった神田明神下の町内だ。だから、神田明神の「い組」は町火消しの中でも、飛びぬけてプライドが高い。以前にも、江戸の水道網と御留川・神田上水のところで書いたけれど、神田っ子と日本橋っ子が言い合いをすると、神田山の土砂や神田上水Click!のほかに神田っ子は「“い組”はどこにあったんだい?」・・・なんて、とっておきの切り札を出してくる。「またしても、あんたのおっしゃる通り。千代田の神田は江戸東京のおヘソ! ・・・日本橋は日本の中心だけどな」などと、ブツクサ負け惜しみをいいながら遊んでいるのだ。
 
 「い組」は火事の消火活動ばかりでなく、盛んに地域活動もしていて、神田明神の参道を整備したり、“基金”をつくっては明神台の急坂へ石段を設置したりしている。神田明神の東側、崖線沿いにつけられた境内へと登る石段も「い組」の仕事だ。時代もくだり天保年間のころ、この石段の上に江戸湾の漁師仲間(組合)が勝手に常燈明を建設しようとした。それまで漁師たちは、明神境内の大銀杏を目印にしていたのだが、夜間の出漁が増えるにつれて灯台の設置が課題となった。そこで、江戸湾からもっともよく見える明神台へ、常燈明を建てようと計画したのだ。
 でも、地元町内になんの断りもなく工事をはじめてしまったので、「い組」をはじめ明神下の町衆は当然怒りだした。しかも、終夜にわたり火を灯すことになるので防火の点からも問題視され、工事中止を受け入れない漁師仲間と町火消しとの間で、一触即発の状況となったようだ。ふつうなら、すぐにも大ゲンカになるはずなのだが、ここで意外なところから仲裁が入った。いつもなら、先頭を切って真っ先にケンカをしかけるはずの「め組」が、「い組」と漁師仲間との間に割って入ったのだ。いつもと勝手が違う「め組」の行動に、「い組」は面食らったに違いない。実は、「め組」は魚河岸仲間(魚屋組合)から泣きつかれて、しぶしぶケンカの仲裁に入ったのだ。もっともケンカっぱやい「め組」に仲裁を依頼するなど、魚河岸仲間のほうが一枚上手のようにも思える。こうして、神田明神の境内には、夜の江戸湾からも視認できる大きな灯台ができあがった。
 
 神田明神の常燈明は、明治に入って九段上の灯台に代わり役目を終えるが、灯台の設置されていた境内東側にある「い組」の階段は、いまでもその風情をよくとどめている。せっかくケンカができると思って手ぐすねを引いていたら、常燈明に火がともるのと同時に、「い組」の“いさみ”は不完全燃焼のまま終わってしまったようだ。

■写真上は、神田明神下から境内のある明神台へとつづく「い組」の石段。は、階段をのぼり切った神田明神境内の、常燈明が建設されたあたり。
■写真中は、階段上からの眺め。は、明神台のバッケ(崖)に通う階段。下落合の目白崖線なみに険しい傾斜だ。この斜面近くにも、やはりお約束の「オバケ坂」Click!が存在する。
■写真下は、現在も残る九段坂上の常燈明。当時は、専門の職人による鼓形石垣構造の最新式灯台だった。は、小林清親が描いた『九段坂五月夜』(1880年・明治13)。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    いつもnice!をありがとうございます、takagakiさん。
    2007年04月08日 14:35
  • かもめ

    おっ、なつかしい。神田明神から裏手になる蔵前橋通りに面したビルで短期間でしたが仕事をしてました。昼は階段上って、神田明神の境内にコンビニ弁当持参で休憩に。横手に銭形平次の石碑がありましたよね。参道入口にコウジ屋兼甘酒屋さん。境内の桜もきれいでした。
     あの高い石段にいわれがあったのは知りませんでした~。
    2007年04月09日 12:48
  • ChinchikoPapa

    一度、甘酒屋さんの地下を覗いてみたいのです。きっと、参道の地下には迷路のような麹穴が、縦横に走っているのではないかと想像しています。それが、どこかへ繋がってたりすると面白いですね。(^^
    銭形平次の記念碑とは反対側にあります、神田明神の記念館(資料展示館)では、とても地味ながらときどき面白い企画をやっていますね。下落合とも関わりの深い、将門相馬家の秘仏・妙見像を拝観したのも、この資料館でした。
    2007年04月09日 13:15

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