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目白中学校のキャンパス平面図。
Excerpt:
目白中学校のキャンパスの、詳細な様子を描いた平面図を入手した。戦災にも焼けずに残った、校内の様子を描いた貴重な資料だ。先の目白中学校アルバムClick!の記事で、写真の掲載をお許しいただいた保坂治..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-04-19 12:58
目白中学校が去ったあと。
Excerpt:
1926年(大正15)の夏、近衛邸の敷地に建っていた目白中学校Click!が、下落合から練馬へと移転した直後の写真が残っている。移転から1年半ののち、1928年(昭和3)が明けた冬に撮られた写真だ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-04-23 11:08
東亜同文書院の尾崎秀実とゾルゲ。
Excerpt:
近衛篤麿や犬養毅らが興した東亜同文会Click!は、中国人やベトナム人の留学生を受け入れるため、下落合の近衛邸敷地に東京同文書院Click!を建設した。のちに、留学生の数が減ると、校舎は目白中学校..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-05-02 00:00
近衛邸に『七里ヶ浜の哀歌』は響いたか?
Excerpt:
子供のころ、親父の仕事の関係から湘南海岸Click!で暮らしていたときのこと、音楽の授業で教科書に載っていない、地元の歌を数多く教わった。学校ばかりでなく、なにかの集まりや子供会のような催しでも、..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-05-04 00:28
御船千鶴子が目白にやってきた。
Excerpt:
1910年(明治43)9月9日、ある女性が新橋駅へと降り立った。熊本から京都を経由してようやく東京へ着いた彼女は、旧藩主の細川家からの招待を受けていた。招聘したのは、細川護立男爵夫妻だ。夫妻は4年..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-06-05 00:00
今度は校庭で投石合戦なのだ。
Excerpt:
目白中学校はなにかとケンカの多い学校で、もう好きになってしまう。当時は、夏目漱石の『坊ちゃん』ならずとも、中学生同士のケンカは多かったのだろう。目白通りで投石合戦Click!をした、東京同文書院の..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-07-14 00:00
坪単価68円50銭だった近衛邸の「開放」。
Excerpt:
下落合の広大な近衛邸敷地が、一般に売りに出されたのは1922年(大正11)のことだ、それ以前にも、近衛邸敷地の一部だった御留山を、相馬子爵邸用の敷地としてすでに売却していた。新たな敷地売却は、近衛..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-08-09 00:03
孫文が潜伏した長屋門屋敷。
Excerpt:
市谷加賀町の一画に、戦災にも焼けずに古い建物が残っているのを、以前にこちらでもご紹介Click!したことがあった。和館と洋館がともに残るエリアなのだが、その中で幕府の御殿医をつとめたといわれる、長..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-10-16 00:00
「東亜同文書院大学」展へ出かけた。
Excerpt:
近衛篤麿の号である“霞山(かざん)”の名称を冠した、東亜同文会Click!の後継団体「霞山会」の新ビルが完成した。もともとは、1928年(昭和3)に建設されたモダンなデザインの建物だったのだけれど..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-11-06 18:16
昭和初期の下落合ブームは?
Excerpt:
大正時代の下落合で大流行したゲームは、庭球(テニス)と野球(ベースボール)だった。テニスは、目白・下落合界隈のあちこちにコートが造られ、休みになると近所の人たちが集まってはラケットを振っていたよう..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-12-15 00:00
日本は「大嫌ひ」と近衛文麿は言った。
Excerpt: 近衛篤麿Click!が建設し、いまの近衛町に建っていた旧・近衛邸の敷地を売りに出して、目白通りも近い目白中学校Click!(東京同文書院Click!)の南側へ近衛新邸を建てて近衛家が転居するころ、篤麿..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2008-08-22 00:02
下落合を描いた画家たち・岸田劉生?
Excerpt: 1970年代半ば、「銀座百点」(銀座百店会)にエッセイを連載していた向田邦子Click!は、その中で岸田劉生Click!についてこんなことを書いている。 ● 岸田劉生晩年の作に「鵠沼風景」という日本..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2008-10-21 00:03
目白中学校と埴谷雄高。
Excerpt: 先日、TVを観ていたら学生たちはなぜ怒らないのか、みんな大人しすぎる・・・というようなことを言う評論家がいて、アジアにおける変革はどの国も学生運動からスタートしているのに、「日本の学生たちは、なぜ起ち..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2009-04-07 00:25
小雨が降りそぼる青山の夜は・・・。
Excerpt: 子供のころ、親父から新聞記事にもなった“事件”として聞かされた怪談があった。小雨が降りそぼる夜、青山墓地(霊園)から下谷(ときに池袋)までタクシーに乗った女が、目的地の家に着いたとたん消えてしまった・..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2009-04-14 00:01
下落合を描いた画家たち・埴谷雄高?
Excerpt: きょうは、聞いたことのない異色「画家」の登場だ。(爆!) 埴谷雄高Click!(般若豊)は、小学生のころから絵を描くのが好きだったようだ。父親が、当時は日本の植民地だった台湾の新竹庁へ赴任していた関係..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2009-09-09 00:04
御留山にあった弁天社のゆくえ。
Excerpt: 御留山のカルガモ坂(御留坂)をはさんだ東側、林泉園から下る渓流の谷底に形成された、弁天池の中ノ島に建立されていた弁天社(祠)について、行方不明になっていることを以前の記事Click!で書いた。少なくと..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2010-05-16 00:15
下落合に来たかった萬鉄五郎。
Excerpt: 大正の末ごろ、下落合のアトリエで仕事をしたかった洋画家に萬鉄五郎Click!がいる。岩手の土沢出身の萬は、早稲田中学に通いながら一時期、牛込区矢来町に住むなど新宿周辺のエリアには子供のころから馴染みが..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2010-06-24 00:01
「佐々木翠」をめぐるふたりの作家。
Excerpt: 下落合4丁目2108番地(のち2107番地/現・中井2丁目)に住んだ小説家・船山馨は、戦時中に女性編集者であり作家でもあった「佐々木翠」を妊娠させてしまい、親友の椎名麟三へ堕胎の相談をしている。戦争も..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2012-12-20 00:01
清水先生と金田一先生の雑司ヶ谷散歩。
Excerpt: 目白通り沿いの近衛新邸Click!の敷地内、下落合437~456番地に創立された目白中学校Click!(東京同文書院Click!)は、1913年(大正2)の春より校内誌『桂蔭』(非売品)の発行をはじめ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-04-26 00:01
目白文化村の造成を見ていた目白中学生。
Excerpt: ちょうど1921年(大正10)に、品川から下落合の落合府営住宅Click!へと引っ越し、翌1922年(大正11)からスタートする目白文化村Click!の宅地造成を目撃していた人物の手記が残っている。自..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-05-08 00:01
目白中学校の移転と練馬の宅地開発。
Excerpt: 1926年(大正15)の秋、下落合の目白中学校Click!は豊島氏の居城だった豊島城(現・豊島園)の西北側、豊島郡上練馬村2305番地(のち練馬高松町1丁目2305番地)へと移転している。なぜ、目白駅..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-11-10 00:02
学習院昭和寮の寮誌「昭和」。
Excerpt: 下落合406番地にある学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が、近衛町Click!南端のバッケの丘上にあたる帝室林野局敷地跡に建設されたのは、1928年(昭和3)のことだ。翌192..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2014-11-17 00:01
媒体広告にみる「近衛町」開発の推移。(下)
Excerpt: さて、話は前後するけれど、近衛町の販売Click!がスタートしてから約2ヶ月後、1922年(大正11)6月17日に東京土地住宅は、今度は近衛町の北西に位置する林泉園Click!を中心とした、「近衛新町..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-06-02 00:00
近衛町の藤田邸(本邸)を拝見する。
Excerpt: きょうは近衛町2号Click!、すなわち下落合417番地に建っていた藤田邸(本邸)をご紹介したい。正確には、近衛町2号という表現は適切ではなく、藤田本邸は1922年(大正11)に東京土地住宅が近衛町C..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2015-07-29 00:01
目白中学校の篠崎雄斎と龍膽寺雄。
Excerpt: 下落合437番地にあった目白中学校Click!には、篠崎雄斎という経理担当がいた。彼は下落合から1926年(大正15)に上練馬村2305番地へと移転Click!した目白中学校Click!へ勤めるかたわ..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2017-05-04 00:00
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
risu
こういった、歴史(記録)を残すことって大事だと思います。
昔の人は本当に良く記録を残していたと感じるときがあります。
これから未来の人たち、
私たちの今の歴史をどのように見れくれるのかが気になります。
ChinchikoPapa
資料があるときに記録しておかないと、あるいは証言者がいるうちに取材をしておかないと、どんどん埋もれていってしまいます。原稿を書いてまして、あと10年早くサイトを始めていたら・・・という場面に出くわすことがしばしばです。
ChinchikoPapa
伊豆井秀一
落合に多い教会。理由は文化的憧れとしてよいのでしょうか。
また、その「目白聖公会」(1929)の設計者坪井正太郎について調べております。
聖公会には情報はないそうですが、お教えいただけると大変助かります。
ChinchikoPapa
落合地域を含む目白崖線沿いは、明治期の華族や財閥、おカネ持ちたちの郊外別荘地帯であり、彼らの中にキリスト教へ興味を抱く人々が少なからずいたせいと、大正期に郊外住宅地として開けていく際には文化人や学者が多く居住したため、キリスト教とそれに付随する思想や学問に惹かれた人物たちも多く、教会が集まる素地がもともとあったのでしょうね。
もうひとつ、キリスト教徒たちがまとまって落合地域に居住してきた例もいくつかあり(たとえば群馬の沼田や桐生など)、そういう信徒たちが教会を誘致していったという側面もあるように思います。
このあたりの資料としては、新宿歴史博物館が発行している「新宿区の民俗(4)-落合地区編-」(1994年)に、小林忠雄の論文「台地開発とキリスト教文化」に詳しいかと思います。
なお、目白聖公会につきましては、設計監督・坪井正太郎で施工・矢沢軍治郎という以外、わたしも詳しくは知りません。もともとキリスト教には興味がないものですから、教会の詳しい経緯については、これまで調べたことがほとんどありません。