すぐに「なぐってやる!」の岸田劉生。

 

 第二文化村Click!南端にも住んでいた武者小路実篤の著作に、『思い出の人々』(講談社/1966年)がある。武者小路が『白樺』を通じて初めて岸田劉生Click!に会ったときから、すでに岸田は誰かに対して憤慨していた様子が記録されている。帝劇の観劇中にもかかわらず、ある音楽家に腹を立てて簿記棒(記帳するとき使用する60cmほどの太くて重たい線引き棒)を手に、「なぐってやる!」と探しまわっていたようだ。どうやら、「岸田は気がおかしい」と言われたことでキレたらしい。この「クモザル」とあだ名された音楽家が、その後、無事だったかどうかはさだかでない。
 岸田は生っ粋の江戸っ子だから、ケンカっぱやいのは仕方がないとしても、すぐに実力行使をするところが少々大人気ない。同郷で気が合ったと思われる、わたしの実家から200mほどの「第八いろは牛肉店」出身で洋画家・木村荘八Click!と連れだって、斎藤與里のフュウザン会へ「ぶっつぶしてやる!」と殴りこみに出かけたことさえあった。なにをそれほど激昂してしまうのか、岸田は瞬間湯沸かし器のような性格だった。事実、そのすぐあとにフュウザン会はつぶれている。
 岸田は、なぜか志賀直哉も気に入らなかったらしく、志賀がお辞儀をして挨拶しても無視していたようだ。その後、志賀のほうから岸田を避けるようになっていく。岸田が彼を嫌ったのは、「首狩り」と称する肖像画制作のときだ。岸田は新たに知人ができると、モデルになってくれとすぐに頼みこむクセがあり、周囲はそれを「岸田の首狩り」と呼んでいた。武者小路はもちろん、高村光太郎や斎藤與里(フュウザン会への殴りこみ前)も、岸田のモデルをさせられている。志賀にもモデルを依頼したところ、その制作現場でなにか岸田の気に触ることがあったのだ。ひょっとすると、志賀は岸田に殴られたのかもしれない。
 岸田劉生は、非常に偏屈で気むずかしい性格の反面、きわめてひょうきんな一面も持っている。まるで噺家なみのシャレや、とっさにアドリブで都々逸を口ずさめるなど、銀座の下町っ子ならではの洒脱な一面も備えていた。また、リアリティあふれる“ウ○コ”の模型をこしらえては、来客の履物の上やトイレの便器の横において、娘の麗子Click!とともにキャッキャと楽しんでいた。それを見つけたときの、客の困りはてた顔を見るのが無上に楽しかったようだ。モーツァルトと同様、岸田劉生を語るとき、“ウ○コ”をめぐる逸話の数々は、いまや彼の性格描写には欠かせない重要なエピソードのひとつとなっている。
 
 岸田は、自分が「これはイイ」という作品はとことん賞揚し、「ダメだ」と思う作品は徹底的にこきおろした。だから、春陽堂の審査員をつとめたとき、審査員同士で話し合ったり妥協したりすることができず、ほどなくクビになっている。唯一、尊敬の対象とみなしていた武者小路にも、「ロダンが好きな人は芸術がわからない」といってケンカを売った。武者小路は、ロダンの大ファンだったのだ。
  
 僕が画家だったら、岸田とは絶交することもありえたと思うが、さいわい僕は文士が本職だった。だから岸田には時に不満は感じたが絶交する必要はなかった。もっとも、僕は岸田の生きている時から絵をかき出していた。ある時岸田は僕にこういった。
 「もうこれだけ絵がかけるとやめられないだろうね」
 ところが岸田が死んだあと、椿(貞雄)が何かの時、岸田は、武者には絵はかけないといっていた、としゃべった。(中略)
 しかし、僕が画家として生活していたら、この岸田のことばは、笑って聞き流しができなかったかもしれぬ。岸田の弱点は、他人に要求できないほど、自分の絵を理解してもらわないと辛抱のできない性質を持っていたことだ、と思っている。それは岸田が若くって死んだからでもあるが、しかし、他人に理解されないことは芸術家の宿命であり、むしろそれは自慢にすべきことだと僕は思っているが、岸田にとってそれは気になりすぎた。 (同書「自分の背中を如実にかく」より)
  
 自分にはすべてが見通せているのに、なぜ他人はわかってくれないのか、自分には価値がわかるのに、どうして他人には優れた質が見抜けないのか・・・という岸田のイラ立ちは、芸術家にはありがちな感覚だと思う。でも、岸田の場合にはそれが度外れて強かった。自分が「ダメだ」と思う作品を褒める人間がいれば、きっとバカに見えて殴りたくなったに違いない。美の基準や美の価値観について、岸田は個々人の差異や嗜好を理解できず、決して認めなかった。
 「自分にも自分はわからない。他人からわかってもらうことなど、思う方がおかしい」という、クールで突き放した性格の武者小路だからこそ、岸田は死ぬまで交流をつづけられたのかもしれない。多くの知人たちが、岸田のことを単なる傲慢で「気がおかしい」人間だと思っているのを知るにつれ、彼は徐々に酒と女へのめりこんでいく。そのうち、よく気の合った親友の木村荘八からさえも見放されてしまった。
 「人は自分のことを、まったくわかってくれない」という子供じみた他者への“甘え”は、発作的なかんしゃくを頻繁に繰り返す家庭生活への“甘え”に、やがては酒色への“甘え”へと転化して、岸田の生命を大きく縮めてしまう結果になったようだ。

■写真上は、「首狩り」のまっ最中に描かれた岸田劉生『自画像』(1914年・大正3)。は、最後のアトリエが建っていた鎌倉の材木座から、由比ヶ浜、稲村ヶ崎にかけての海岸。
■写真下は、殴りこみの前に描かれた『斎藤與里氏像』(1913年・大正2)。は、『武者小路実篤氏像』(1914年・大正3)。武者小路は、岸田のモデルを二度つとめている。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    いつも、たくさんのnice!をありがとうございます。>kurakichiさん
    2009年10月23日 14:17

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