中村彝に酷評された岸田劉生。

 

 岸田劉生が、おそらく下落合の中村彝アトリエClick!を訪ねてから3年後の1919年(大正8)、彝は劉生へ容赦のない酷評を浴びせている。新潟の柏崎にいた、友人の洲崎義郎あての手紙だ。彝は、あまり他の画家たちを強く批判をせず、比較的に温厚で謙虚な性格のように見えているが、劉生をコキおろす筆鋒は痛烈きわまりない。同じ草土社の木村荘八Click!にいたっては、ボロクソに書かれている。ひょっとすると、どこかでヨーロッパの最新表現に傾倒していくばかりの彝に対する、劉生の批判を誰かから耳にしていたせいなのかもしれない。
 1919年(大正8)12月14日の、洲崎義郎への書簡から引用してみよう。ちなみに、この手紙は『芸術の無限感』Click! (岩波書店)では同年2月14日とされているが、消印の読み違えで12月14日が正しい日付のようだ。
  
 十七日まで草土社が三会堂にあります。尤もそれ等は態々見にいらつしやる程の価値はありません。場中で僅かに見るべき岸田君の如きも、自然の各相と特質とを再現するのに全然その方法を誤つて居る。画面が硬く、寒く、貧しくなるその原因がどこにあるか。それについての反省と努力とが全然かけて居るとしか思へません。木村荘八その他に至つては、全く熱も生命もない形式的な神秘的耽美に過ぎません。林檎一個が持つて居るあの偉大なる「マッス」や、異常なる輝きに関しては、彼等の画面は何の感激も驚異をも語つて居ない。実在がもつ偉大性に対してかくまで冷淡無感激である彼等が、僅に物の配列や、先人的色彩概念によつて画面に宗教的崇厳を暗示しようとしても、それは無理です。 (大正8年12月14日「洲崎義郎宛書簡」より)
  
 この文章は彝の死後、『芸術の無限感』に所収されて1926年(大正15)に出版されているので、おそらく劉生は、京都から引っ越したばかりの鎌倉は材木座にかまえた晩年のアトリエで、間違いなく目にしていただろう。
 彝から見れば、当時の劉生作品は旧態然たる保守的かつ進歩のない表現に見え、劉生からすれば彝の作品はヨーロッパで流行している画家たちのコピー、単なるエピゴーネンとしか映らなかったのかもしれない。この左右両極に位置するようなふたりが、やがて“ならでは”のオリジナリティを獲得し、独自の未踏の表現領域へと踏みこんでいったのは面白い。
 中村彝が草土社展をコキおろしていたころ、岸田劉生は1917年(大正6)2月より療養のために、東京から藤沢の鵠沼海岸へと転地していた。そのことは彝も知っていただろうから、どこかでその痛烈な批判がめぐりめぐって劉生の耳に入ったとしても、「この、ばっか野郎! なぐってしまう!」と下落合のアトリエへすぐに怒鳴りこまれる心配は、ひとまずはなかっただろう。以降、ふたりは二度と相まみえることはなかった。
 
 1943年(昭和18)に、中村秋一Click!によって公開された未発表の手紙の中で、中村彝は次のように書いている。『新美術』(旧・みづゑ)6月号の、「中村彝の手紙(一)」から引用してみよう。
  
 だんだん日本にも外国のいゝ絵が入つて来ました。夢より外には見る事の出来なかつた、モネーやピサロが今村さまへ来、ゴツホやセザンヌが細川さんへ来た相です。この頃ではねて居てもそれらの人々が近所に居る様な気がして、何となく、うれしい。早くよくなつて会ひに行きたい。
                               (大正10年1月31日「中村春二宛書簡」より)
  
 この中で、「今村さま」と書かれているのはもちろん今村繁三Click!のこと。また、「細川さん」と書かれているのは、目白駅をはさんで下落合とは反対側にあった、細川侯爵家(現・新江戸川公園)のことだと思われる。
 彝が終生、ヨーロッパの絵画に目を向けつづけていたのに対して、劉生は藤沢時代から日本画の表現世界へと急速に傾斜していく。鵠沼海岸で関東大震災の揺れと津波を経験したあと、岸田一家は横須賀港から海軍の特務艦に乗り、名古屋から京都へと旅立っていった。

■写真上は、1919年(大正8)に撮影された下落合の中村彝。アトリエの中に、カルピスの包み紙のような水玉模様のテーブルクロスが見えている。は、藤沢の鵠沼海岸で同じころに撮影された岸田一家。彝が年々痩せ衰えていくのに対し、劉生は年を追うごとにブクブク肥っていった。
■写真下は、中村彝『風景』(1919~20年・大正8~9ごろ)。彝アトリエの北側、雪景色のメーヤー館を描いたもの。は、岸田劉生『窓外夏景』(1921年・大正10)。関東大震災で半壊する、鵠沼にあった“松本別荘”の2階アトリエから、東海道線の走る北側の窓外を描いたもの。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    わたしのブログを読んでくださる方から、中村彝『風景』(1919~20年・大正8~9ごろ)のカラー画像を見つけてくださりお送りいただきましたので、さっそく記事中のモノクロ画像と差し替えました。彝アトリエから間近の雪景色を描いたもので、傾きかけた陽に映える美しいメーヤー館です。
    2007年02月13日 10:32
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2014年07月08日 22:49
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
    2014年07月08日 22:50

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