大正時代の洋画界と今村繁三。

 明治末から大正時代の洋画界と、今村繁三Click!の関係はきわめて深い。同時代の洋画家で、今村の援助を受けなかった画家のほうがめずらしいとさえ思うぐらいだ。画家にとっては、いや一部の小説家や音楽家にとってもありがたい存在だったようだ。その多くは、人を介しての支援だったため、匿名の篤志家というだけで、今村から援助を受けているのを知らない画家も大勢いたらしい。
 今村が公然と支援しつづけた中村彝にしても、中村春二Click!を通じてであり、彝アトリエへは何度か訪問したことがあるようだが、彝へ直接援助の物資やおカネを渡すような無粋なことは、初期を除いてはほとんどしなかったと思われる。今村は、岩崎小弥太や住友家にも貧乏な芸術家たちを支援するよう、盛んに働きかけている。今村の謙虚な姿勢は、表に立った多くの支援者たちに援助元のことを口止めしていることでもうかがわれるが、満谷国四郎を小使いさんClick!にしてしまった以外、彼のパトロン然とした姿はあまり見えてこない。
 今村繁三は、なぜこれほど洋画家たちの支援にこだわりつづけたのだろうか? そのうちに、名が売れた画家の作品を売却して利益を上げる、気の長い投機家のようなイメージで彼を見ていたこともあった。でも、まったく違うようなのだ。画家の支援に熱心だった成蹊学園の創立者たち、すなわち今村をはじめ中村春二や岩崎小弥太は、3人とも東京師範学校付属中学校の同窓生だった。いまでも同校の卒業生名簿で、この3人の名前を至近で見ることができる。この中学時代に、今村は画家にでもなりたかったのだろうか? 彼は自身でも、死ぬまで絵筆を握りつづけていた。

 おそらく自分の見果てぬ夢を、数多くの若い画家たちに託して匿名で支援しつづけたのだろう。また、有名ではあっても生活の成り立たない画家たちには、公然と多くの援助をしつづけた。のちに今村は、「当時の青年画家が、こんにちの大家になつたのは自分が多少の世話をしたからではなく、みな前途有望な人たちだつたから当然のことだ」と語っている。今村の性格が、よく表れた言葉だ。それにしても、のちに伸びる画家たちをちゃんと見抜いていたあたりは、今村が多分に絵画に対する鑑賞眼を備えていたからに違いない。のちに、「今村賞」という名の絵画賞が光風会によって設けられると、今村は「賞金を倍にするから、自分の名前を賞から外してくれ」と、事務局へ依頼しているエピソードは有名だ。
 画家の伝記を読むと、わたしはときどき不満に思えることがある。彼らの生きた時代の空気が、まったく語られていない本があるからだ。作品のみの批評、作風・表現法の変遷とその思想のみが語られるだけで、かんじんの画家たちが暮らした時代の背景や息吹きがまったく感じられない伝記本も数多い。文章が専門ではない、美術家や美術評論家と呼ばれる人たちによって書かれているのだから、しかたがないのかもしれないのだが・・・。中村春二の息子である舞踏研究家の中村秋一は、1942年(昭和17)の『新美術』(旧・みづゑ)9月号でこんなことを書いている。
  
 これまでの美術史に対して私が抱く不満は、主としてそれが社会との結び付きを欠き、美術の背景としての生活なり、社会なりの動きに対してはなはだ無関心だからである。一つの芸術作品が生れるといふことは、優れた芸術家の刻苦勉励によること、もちろんではあるけれども、その作家を生み育てた時代なり、生活なり――さらに具体的にいつて私生活なり、友人なり、後援者といつた側に触れることによつて、その作家の全貌が肇めて(ママ)われわれのまへに現前するものではなからうか。
 かうした、一見芸術作品とは何の関係もなさゝうな、或は全く無関係とも見えるいろいろな関連が、実はその作品を生むに至つた「条件」になつてゐる場合の多くを、われわれは優れた画家の生活のなかに見るのである。大げさに云ふならば、その作品を創つた画家の世界観とでもいふべきものを知る。 (中村秋一「大正期の画家~中村彝のこと~」より)
  ●
 
 今村が支援した画家たちは、すべて洋画家ばかりで日本画家はひとりも存在しないといわれている。若いころ、彼が志したのは洋画家だったのだろうと推測できる事象だ。今村銀行の事業が傾きはじめても、画家たちへの援助をやめなかった彼は、自身でも数多くの絵を描いている。でも、晩年に描いていた作品は、洋画ではなくみな日本画だったというのも面白い話だ。きっと、下落合の聖母坂下へ隠居してからも、絵は描きつづけていたのだろう。

■写真上:成蹊学園の中村春二とともに、今村繁三も何度か訪れた中村彝アトリエ。今村が、支援している画家のアトリエを訪れるのはめずらしく、中村彝は特別な存在だったのだろう。
■写真中:東京師範学校付属中学校の卒業生名簿で、成蹊学園の創立者の名が並んでいる。
■写真下は、中村彝が晩年に写真を見ながら描いた、成蹊大学に現存する『中村春二像』(1924年・大正13/部分)。は、中村彝を死ぬまで支援しつづけた今村繁三。

この記事へのコメント

  • 紹興五年

    早くから近親をなくした中村彝が、後ろ盾となった今村繁三や中村春二といった人々に出した手紙には、病身を押して、その気持ちに応えたいとする一途さが滲みでていますね。彝の余命のことなど意に介さず期待しつづける今村たちにも、あの時代に生きた人ならではの気概があるようです。
    記事を拝読しつつあれこれ考えるのですが、確かに、画家の暮らしぶりや、その時代の息吹に想いを馳せることで、はじめて現前してくる観点があると思います。エロシェンコがモデルになりに通った彝アトリエも、下落合に在ることによって、わたくしたちに、文字通りの「現前」を遥かに越えた想像力をもたらすのだと思います。
    あの世からの手紙が届くものなら、彝は、彝の亡くなったあとも画室を守り続けた方々や新宿区(予定)に、熱い感謝の言葉を書き綴ることでしょう。
    2007年02月11日 16:29
  • ChinchikoPapa

    きょうも、実は昼から先ほどまで、彝アトリエの保存の件で打ち合わせをつづけてまして(^^;、きょうは3連チャンの彝アトリエ・デーでした。
    新宿区が保存へ前向きなのは間違いないと思うのですが、おカネがない・・・という状況でして、さてどうしたものかという打ち合わせです。早々、いつまでも所有者の方に待っていただくわけにもいきませんし、さて、新宿区さんは具体的にどう考えていらっしゃるのか、たいへん気になるところです。
    きょうの打ち合わせでは、中村彝のアトリエに関しては、新宿区も豊島区も文京区もない・・・という認識の方が多く、むしろ国レベルのテーマだと言われる方さえ多いのに勇気づけられました。
    嬉しかったのが、豊島区に在住する画家の方々や、都内の建築家・建築史家の方々が、「なんとか保存したい」というご意見の多かったことですね。このところ、土日も仕事でふさがって自由に身動きのとれないわたしには、とても元気をもらえた1日となりました。
    2007年02月12日 00:34
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2014年07月17日 16:48
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
    2014年07月17日 16:49
  • 前澤 義行

    落合さま 今村清之助繁三 宮城道雄 と繋がる 画家 「島村洋二郎
    生誕100年の集い」が、神楽坂宮城道雄記念館で。会期5月20日、21日開催予定。先日、中村彝アトリエ記念館 新宿歴史博物館 中村屋サロン美術館に協力連携要請。 14日は練馬区立美術館館長にお会いする予定。 今回の企画 主催:集い実行委員会 共催:南信州交流実行委員会 後援:(財)宮城道雄記念館 長野県下伊那郡高森町 是非ご協力ください。 南信州交流実行委員会(前澤) 携帯電話 090-8515-9920
    2016年04月12日 14:14

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