キット、♪ぼくは悲しい受験生~。

 

 めずらしく、本郷界隈を歩いてみる。子供のころ、親父もあまり連れ歩いてくれなかった一帯だ。それには、複雑な思いが澱のように沈んでいたのかもしれない。親父は、ほんとうは帝大の文科が志望だったのだ。ところが、1943年(昭和18)には、すでに文系の学生は学徒動員で徴兵されることがわかっていた。だから、戦争ギライで軍隊ギライ、その言動から警察に引っぱられたClick!こともある親父は、帝大の文科をあきらめて泣く泣く理系に「転進」している。
 それまでは、文系の勉強に力を入れてきたのだろうから、理系を受験するのは並たいていの苦労ではなかったかもしれない。運よく合格はしたものの、親父の本棚には理系の本は数えるほどしかなく、ほとんどが文系の書籍で占められていた。これは、死ぬまで変わらなかった。唯一、仕事を辞める一時期、普及しだしたホストコンピュータのFortranやCOBOLの言語解説書が増えたぐらいだろう。頭の中は根っからの文系で、戦争さえなければ赤門をくぐって、文学や歴史学の研究をずっとしていたかったに違いない。
 子供のころ、上野や不忍池あたりには頻繁に連れて行ってくれたが、本郷へ出かけたのは、わたしの憶えている限り一度しかない。それも、いまとなってはおぼろげな情景、すでに場所も道もどこだか確認できない記憶だ。きっと、好きな文科へ進学できなかったのが、あとあとまでトラウマになるほど、戦争をはさんでしまった受験生の親父には、よっぽど口惜しかったのだろう。そういう事情から、本郷や根津を歩いても、わたしは初めて訪れたのも同然で、他の(御城)下町Click!とは異なり、既視感もなければ懐かしさも湧いてこない。ましてや、小学生のころから10歳以上年の離れた、当の東大生を含むお兄ちゃんやお姉ちゃんたちから、“日本の4大権威”についてなにかと吹き込まれていたわたしは、もっとも縁が薄い学校として東京大学をとらえていた。
 それでも、若いころは仕事の都合で、東大の先生と打ち合わせをしたり、あるいはお話をうかがったりするので、何度か構内を歩いていたはずなのだが、夕方や夜間だったせいもありはっきりとは思い出せない。ぜひ一度、ゆっくりキャンパスを散歩してみよう・・・と思い立って出かけたら、なんと運悪くセンター試験のまっ最中で構内に入ることができなかった。やっぱり、ここは縁の薄い学校なのだろうか。大磯の安田善次郎が建てた安田講堂を、間近で見てみたかったのに・・・。前田家Click!の、旧・加賀藩上屋敷の赤門だけを写真に収めた。

 この門前を舞台に繰り広げられた芝居に、河竹黙阿弥の『盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)』(通称「加賀鳶」)がある。同じく「め組」や「お祭佐七」Click!とともに、火消しをテーマにした3大芝居のひとつ。いまでは、3つの芝居のうち“差別用語”だらけの本作は、昔に比べると上演されることが少なくなってしまった。わたしの知る限り、4年前の舞台が最後だ。徳川幕府(600万~700万石)を除けば、もっとも高い石高を誇っていた加賀藩(102万石)は、自前の大名火消しを持っていた。その鳶頭の梅吉と、盲長屋に住む按摩(あんま)・道玄の物語があやなして進行するのが、この黙阿弥芝居のストーリー。
 この作品は、本郷付近の名所をたどるような面白さがあり、舞台設定に本郷の加賀上屋敷周辺はもちろん、湯島天神、御茶ノ水、菊坂、本郷通町、竹町、水道橋、日蔭町と、まるでお奨め散歩コースを織りこんだような狂言まわしとなっている。按摩・道玄は、五代目・尾上菊五郎の当たり役だけれど、赤門前の捕り物シーンはつとに有名だ。歌舞伎にはめずらしく、この幕全体がアドリブ芝居という見せどころ。つまり、観るたびに舞台が毎回違うというのが「加賀鳶」の大きな魅力であり、ほかの芝居とは異なるダイナミズムでもあった。そして、観客をいかに笑わせるかが役者の腕の見せどころ・・・というわけだ。
 赤門の両袖を見ながら歩いていたら、いきなり若い女性からチョコレートをもらってしまった。「Kit Kat」の受験生バージョンで、「キット、サクラサクよ」Click!チョコレート。そうだった、東大の合格電報の電文が「サクラサク」だったのも、いつかどこかで聞いたことがある。センター試験へ訪れた受験生たちに、無料で配っているようだ。その昔、やはりわたしが物心つくころ、東大前に「キャラメルママ」が出現して、全学バリスト中の学生たちにキャラメルを配り、自重をうながしていたニュースをかすかに憶えている。「力及ばすして倒るることを辞さない」バリスト学生に配るのがキャラメルで、「力尽くさずして挫けることを拒否」する受験生にはチョコレート・・・とでもいうのだろうか。このプロモーション、「キャラメルママ」を思い出した誰かの企画にちがいない。
 
 赤門前でキャラメルならぬ、桜風味のチョコレートをもらったわたしは、受験生の父親とでも思われたのだろうか。それとも、浪人数十年の受験生?(爆!) 

■写真上は、入れなかった旧・加賀藩の赤門。両袖門は10万石以上の大名にのみ許され、赤いのは徳川家から娘が輿入れしているからだ。下落合の相馬邸にあった黒門Click!は片袖で、徳川家との婚姻関係がなかったので黒く塗られていた。は、1950年(昭和25)前後の赤門。
■写真中:『盲長屋梅加賀鳶』の赤門前、アドリブ捕り物シーン。道玄は六代目・尾上菊五郎。
■写真下:本郷界隈は空襲の被害をまぬがれたせいか、古い建築があちこちに残っている。

この記事へのコメント

  • seiji

    こんにちは、ハジメマシテ。
    FORTRANネタでTBさせて頂きます!
    2007年03月23日 12:48
  • ChinchikoPapa

    seijiさん、TBをありがとうございました。
    さっそくこちらからも・・・。
    2007年03月23日 12:54
  • ChinchikoPapa

    いつも多くのnice!を、ありがとうございます。>kurakichiさん
    2009年07月16日 15:44

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