目白通りにいた麗子。

  

 目白通り沿いにあったお宅の、タンスの引き出しの中に、ひっそりと麗子は眠っていた。タンスの引き出しを出して、幼女をそこへ寝かせていたわけではない。岸田劉生の「麗子像」の1枚が、人知れず眠っていたのだ。高名な画家による日本画を、数多く所蔵していたらしい持ち主によれば、「18歳の麗子」と記憶されているが、おそらくは16歳の「麗子像」の1枚だろうか? 「落合新聞」の竹田助雄Click!が書いた『御禁止山』(創樹社/1982年)には、そのときの情景が詳細に書きとめられている。少し長めだが、引用してみよう。
  
 杉山は岸田劉生「十八歳の麗子像」を秘蔵していた。公開を拒絶し誰にも見せないその一点は箪笥の中の衣類の下に模造紙にくるんで隠しこまれてあった。六号くらいのその麗子像を一度見せてもらったことがある。
 「ここに存ることを誰にも言わんでくれ」
 その意味が私にはいまだ解せない。
 「特別に見せよう」
 劉生の麗子像は当時書物で私が散見したのは数十点、それらの中に十六歳の麗子像は見知っていたが十八歳は初見であった。しかし私はそのとき劉生が昭和四年十二月二十日に歿していたことを忘れていたし、十六歳の麗子像は劉生が歿した昭和四年一月に描かれていたことも気付かなかった。だから十八歳の麗子像は存在しない。多分杉山は十六歳を数え年にかぞえていたのかもしれなかった。
 私が杉山に見せてもらったのは三十八年頃であったから、描かれてから三十四年経っている。箪笥の衣類を退けて丁寧に取り出し、模造紙をほどいて初めて見たときの麗子像は、描かれた時そのままに色彩鮮かで一点のかげりもなかった。その鮮かな色調は私を一驚させ、そして私のおどろきもつかの間、宝物を一寸だけ見せる稚気にもひとしく、彼はすぐに蔵いこんでしまう。
 「これ、新聞に書いてはまずいのかい」
 「まずい」
 麗子像は八歳がよいとか十六歳が一番佳いとか採りあげ方はまちまちである。だが杉山のいう十八歳の麗子も桃割を結うてみずみずしく華麗であった。そして杉山の秘蔵した麗子像が既に公開されていた十六歳であったかどうか、いまは記憶が定かでない。  (同書「御禁止山余録」より)
  
 麗子が18歳を迎えるのは1931年(昭和6)のこと、もちろん岸田劉生は生きてはいない。最後の麗子像は、1929年(昭和4)に描かれた2点の「麗子十六歳之像」ということになっている。だから、「十八歳の麗子像」などありえないのだけれど、竹田助雄が取材したこの話には妙なリアリティを感じてしまうのだ。「ひょっとすると・・・」と思ってしまうのは、町内が画家だらけだった下落合のお宅に眠っていた作品だからなのだ。現にホンモノの佐伯祐三の作品が、ひっそりと眠っていたお宅もある。岸田劉生作品が「ありえない」とは、決して言い切れないのだ。
 
 岸田劉生は、下落合に住むことはなかったが、もっとも近くに住んだ時期に新宿の角筈時代(1913年・大正2)と代々木時代(1914~1917年・大正3~6)がある。このとき、画家たちが集まりはじめていた目白・下落合界隈を一度も訪ねなかった・・・、という確証はどこにもない。友人の誰かを訪ね、下落合周辺を散策しているかもしれないのだ。ただし、代々木時代の麗子は生まれたばかりだから、「十六歳の麗子像」は描かれるわけがない。だから、下落合に知り合いができ、藤沢の鵠沼から京都、鎌倉の各時代を経ても、変わらずに付き合いがつづいていたとすれば、後年、作品の1枚を気軽に譲った可能性が残る。別に、譲った先が同業の画家とは限らない。画家の友人知人か、あるいは支援者のひとりが下落合にいたのかもしれない。
 晩年の岸田は、油絵表現からは距離をおき、京都で執着した日本画の世界へ目を向けていた。その中の習作の1点を、所望されて譲った・・・ということも考えられないだろうか。特にこの時代、彼はおカネにかなり困っていた様子が、残された日記からもうかがえる。会津八一Click!にも似て、“倣岸不遜”にみられがちな岸田の性格は、周囲からうとまれヒンシュクをかうことが多く、画家仲間からもやや孤立しがちな晩年をすごしたようだ。そんな周辺環境の中で、自分を尊敬し持ち上げてくれるファンや支援者に接したら、手元にある作品を思わず気軽に譲りたくなってしまう心情にもなったのではないか・・・と想像する。会津八一が晩年、わざわざ訪ねてきた人たちに対し、みずから進んで色紙に揮毫して渡していたのにも通じる、どこか寂しくいじらしい光景を思い浮かべてしまうのだ。
 
 岸田麗子は、『父 岸田劉生』(中央公論社)の中でこう綴っている。
  
「麗子十六歳之図」ははじめ顔がちょっと左を向いた図で描かれ、続けて今度は斜め右向きの像が出来た。両方とも浮世絵の大首式に縦長の十号の画布に帯の辺りまでを描いたもので、頭は桃われに結っている。はじめの方の絵は写実的で、二度目の方の絵は幾分理想化し、美しい像になっている。  (同書「鎌倉時代」より)
  
 当然のことながら、この2枚の「麗子十六歳之図」はぶっつけ本番で描かれたのではなく、岸田なら必ず習作が何点かともなっていたはずだ。
 目白通りにいた「麗子」は、すでに公表されている2作品のうちの1枚だろうか? それとも、それは第3の「麗子十六歳之像」であり、いまでもどこかを彷徨っているのだろうか? 数年前、カタログにはない「麗子像」が発見されたのも記憶に新しい。ひょっとしたら・・・と考えてしまうのは、わたしだけだろうか。

■写真上の2作品は、『少女の像(麗子十六歳之像)』(ともに1929年・昭和4)。は、代々木へ引っ越して麗子が生まれた年に描かれた『自画像』(1914年・大正3)。岸田と下落合との関わりについては、今度も追ってみたいテーマだ。
■写真中は、『野童女(麗子嬉笑図)』(1922年・大正11)。日本画や伝統工芸(特に金工や錺などの常套図案)ではおなじみの、明らかに「寒山拾得」をモチーフにし、デロリ(岸田用語=下町言葉でもある)とした不気味な麗子像。は、「麗子像」に囲まれた岸田麗子。
■写真下は、目白とも関わりが深い雑誌『白樺』の表紙に描かれた麗子像(部分)。は、ポピュラーな『二人麗子飾髪図(童女飾髪図)』(1922年・大正11/部分)。

この記事へのコメント

  • Nylaicanai

    教科書に載っている「麗子像」以外に、こんなにも描かれていたとはまったくもって知りませんでした。
    しかも、その1枚が落合にあるかもしれないとは。
    ちょっとミステリアス? だけど夢があって良いですね。
    2007年01月07日 08:32
  • はじめまして。杏奴さんのご紹介です。
    佐伯祐三描く杏奴さんの情景も見せていただきました。
    これからときどき訪問いたします、どうぞよろしく。
    2007年01月07日 12:47
  • ChinchikoPapa

    Nylaicanaiさん、コメントをありがとうございます。
    カタログに載っている「麗子像」以外にも、未完の作品も含めて数年おきに新たな絵が見つかっているようですので、個人蔵も含めますと相当な数にのぼるのではないかと思います。だから、目白通りの「麗子」もかなりリアリティがありそうなんですよね。
    2007年01月07日 18:53
  • ChinchikoPapa

    映子さん、はじめまして。
    先ほどカフェ杏奴へ寄ったのですが、さっそくハガキの作品をお譲りいただきました。「ほんとは僕も天使になりたい」シリーズ、とっても面白いですね。(^^ つい噴き出してしまいました。それから、切手や葉脈を貼りつけたシリーズも楽しく、原稿そっちのけでつい見入ってしまいました。
    こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。
    2007年01月07日 18:59
  • 谷間のユリ

    お久しぶりです。
    ちょっと体調崩してて、PCもご無沙汰でした。
    目白通りの麗子のお話は実際に知っていたので、懐かしくなりました。
    私が小さい時、目白の伯父の家のすぐそばに杉山さんのお宅(ユネスコ側そば少し西寄り)があり、そこのおじいさんが岸田劉生の絵画をいっぱい持ってるという話を昭和30年代後半に聞いた覚えがあります。
    情報通だった母が言っていたことは、そのおじいさん(うろ覚えですが杉山さんは目白通りでスポーツ用品店をやっていた筈です)と岸田劉生が知り合いだったとか。
    そのころ私は小学生で、目白通りをはさんで杉山さん宅の斜め向かいの絵画教室に通っていて絵に興味があったので、実際に生の岸田劉生の麗子像を見てみたいものだと思ったものでした。
    近所では有名な話だったみたいです。
    きっと、隠し持ってはいるものの持ってることをついうっかり自慢話で言ってしまったんでしょうか。(^_^;)
    私も子供心になんでこのような商店に麗子像があるのか不思議でした。
    杉山さんはもうとうに亡くなったのはし知っていますが、その後絵はどうなったのでしょうか…。
    代替わりして、日の目を見られると麗子像も嬉しいでしょうね。
    2007年01月13日 13:37
  • ChinchikoPapa

    谷間のユリさん、ご無沙汰です!(^^/
    とてつもなく、貴重な情報をありがとうございます。その杉山さんは、とても竹田助雄氏と親しかったようですので、「落合新聞」には書かないというオフレコの条件で、麗子像をソッと見せてくれたのだと思います。岸田劉生と杉山家が知人関係だとしますと、もうこれは間違いなくホンモノの麗子像ですね。おそらく、記憶違いから「18歳の麗子像」となったものでしょうが、これで「十六歳之麗子像」の3作目が存在するか、あるいはそれに近い年齢の麗子像が描かれている可能性がきわめて高いように思われます。
    岸田劉生を追っていまして、どうやら下落合へ来ているらしいことを突きとめました。新宿中村屋と下落合の双方、他ならない中村彝アトリエです。もし、当時から杉山家が下落合にあったとすれば、そのついでに寄っていたのかもしれませんね。
    劉生の麗子像を所有していることが公にわかってしまったら、相続などのときにとんでもない悲劇となってしまいかねませんので、ソッと箪笥の引き出しに仕舞われていたのでしょう。佐伯祐三の作品にも、そういうケースがごまんとあるように思います。もし、まだ「麗子」が目白通りにいるのなら、ぜひ観てみたいですね。(^^;
    厳寒がつづきますが、くれぐれもご自愛くださいね。ありがとうございました。さっそく明日にでも、このテーマでちょっと書いてみます。
    2007年01月13日 16:06
  • ChinchikoPapa

    ある方より、貴重な『少女の像(麗子十六歳之像)』(1929年・昭和4)のカラー画像をお送りいただきましたので、■写真上の中央に掲載したモノクロ画像をカラーへ差し替えました。
    この作品が、そもそも「目白通りにいた麗子」なのか興味は尽きません。
    2007年04月12日 12:12
  • ChinchikoPapa

    昔の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2010年11月21日 22:29

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