上高田の光徳院は巨刹だった。

 

 先日、中野の上高田にある光徳院へ出かけてきた。もちろん、佐伯祐三の「絵馬堂」Click!(1926年・大正15)探しだ。旧・下落合(現・中井2丁目)の西端、妙正寺川がほぼ直角に近く北上する、「バッケが原」Click!と呼ばれた一帯の北側に位置する寺院だ。
 この付近では、妙正寺川のすぐ東岸で、佐伯は1926年(大正15)に「洗濯物のある風景」Click!と、同年の冬にその雪景色Click!を二度にわたって描いている。だから、妙正寺川をわたってすぐにも行き着ける光徳院も、「絵馬堂」を描いたポイントとして可能性が高いと、以前から考えていた。「洗濯物のある風景」描画ポイントのある南側からも、また哲学堂のある北側からも、光徳院へは案外わかりにくい道筋だった。さっそく、光徳院の門をくぐってみる。そして、右手の建物に目をやったとたんに、思わずドキッとしてしまった。「絵馬堂」にとてもよく似たデザインの堂が、そこにさりげなく建っていたからだ。
 地面から床上までの高さは少し足りないものの、屋根のかたちは「絵馬堂」に酷似した意匠だ。光徳院のこの堂屋根は瓦葺きだけれど、大正期には桧皮葺きないしは茅葺きだったかもしれない。佐伯の「絵馬堂」に描かれた屋根は、どう見ても瓦葺きには見えないのだ。両脇への屋根の張り出しは少し足りないものの、なによりも屋根上の中央に載っている立て物は、佐伯の「絵馬堂」のものとウリふたつだった。光徳院は、地図上や空中写真で想像していたイメージとは異なり、予想を超えるとても大きなお寺だった。本堂は巨大で、向かって左手には五重塔までが建立されている。下落合の付近、哲学堂の南側に五重塔があるとは、わたしはいままで不明にも知らなかった。団地やマンションが建っていなければ、この五重塔はずいぶん遠くからでも眺められるだろう。
 
 さて、これほど大規模でメジャーなお寺で、佐伯はスケッチをするだろうか? 佐伯の性格からして、なんとなく違和感をおぼえる。さっそく、方丈を訪ねてお話を聞いてみた。それによれば、大正当時のことを知る方は、もはや寺にはひとりも残っていないとのこと。でも、寺域に絵馬堂があったことは、かつて一度もなかったと思う・・・とのお話だった。くだんのよく似た堂は、もともとそこに存在した堂を改装したものでも建て直したものでもなく、平成に入ってからまったく新たに建立したものだとのこと。またしても、「絵馬堂」存在の可能性や手がかりが、プッツリと切れてしまった。
 残るのは、佐伯が通ったという伝承のある中野にあった治療院近くの、高徳寺が未訪なのだが・・・。また、大磯の寺社はどうだろうか? 高麗寺や高来神社など、もう一度当たる必要はないだろうか? でも、第2次渡仏直前のあわただしい時期に、大磯でわざわざ作品を仕上げているだろうか?・・・そんなことを考えながら、「絵馬堂」が存在しなかった光徳院をあとにした。
 
 なんだか、佐伯の「絵馬堂」探しに関しては、話を盛りあげるだけ盛りあげといて、結局、伝説の“巨大生物エマードン”の正体がわからずに、いつも中途半端のまま尻すぼみで終わってしまう、川口隊長あるいは藤岡隊長シリーズのようになってきてしまった。「ついに伝説の絵馬堂を発見! 暗闇に沈む謎の下落合に、その巨大なうごめく正体を見た!」とかいうタイトルだけは、せいぜい付けないよう気をつけたい。

■写真上:旧・下落合とは妙正寺川をはさんで隣接した、光徳院の本堂と五重塔。
■写真中は、1936年(昭和11)の空中写真に見る、「洗濯物のある風景」と光徳院との位置関係。妙正寺川をはさんで、10分とは離れていない距離だ。は、光徳院の山門。
■写真下は、佐伯祐三「絵馬堂」(1926年・大正15)。は、光徳院内にある堂のひとつ。

この記事へのコメント

  • ナカムラ

    全く見当違いなのかもしれませんが絵馬堂というと寺院もさることながら八幡神社にも数多く建立されているものという気がします。いつなのか調べないと失念しておりますが、上落合の月見岡八幡は村山知義の三角アトリエの前からナップ本部前へと移転になっているものと思いますが・・・。たとえば今はなき八幡様の・・はありえないでしょうか。石造の設備は旧社から新社に移設したそうですが、絵馬堂はどうだったのでしょうか。全くの木造に見えるので移転されなかった堂という可能性は・・・・。すみません、感想のみで何の資料確認もしておりませんが。
    2007年06月15日 11:00
  • ChinchikoPapa

    はい、わたしも最初は神社を疑いました。それが、調べていきますと「絵馬堂」というのはあとから付けられたタイトルで、当初の佐伯がつけたものは単に「堂」となっていたようなのです。お「堂」というと、神社よりは寺院のニュアンスが少し強くなりますね。
    それから、あるお寺でうかがったところによりますと、屋根のてっぺんに乗っているのはどうやら宝珠らしく、屋根の張り出しや反りからして、真言系の寺院の堂のひとつではないか・・・というご指摘を受けました。そして、このような堂に結ばれるのは絵馬とは限らず、いろいろなものが願掛けでくくりつけられるとのことです。「絵馬堂」というのが後追いのタイトルであり、画面を見ますと確かに絵馬ばかりではなく、いろいろなものが結ばれているように見えますので、やはり寺院系の堂ではないかな・・・と想像しています。
    でも、下落合から葛ヶ谷、上高田、果ては東中野まで、寺院をしらみつぶしに当たっているのですが、「あっ、これ、うち」というお寺にはめぐり会えていません。(^^;
    おっしゃるとおり、神社も捜索の射程に入れたほうがいいかもしれないですね。これで、下落合の氷川明神へ改めてうかがい「あっ、これ、うち」と言われてしまったらどうしましょう。(爆!)
    2007年06月15日 17:45

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「かしの木のある家」だと思うが・・・。
Excerpt:  この佐伯の『下落合風景』は、1926年(大正12)9月24日に描かれた、おそらく「かしの木のある家(風景)」だと思うのだが、描画場所がどこだか特定できない。もう1年近くも、空中写真や地図とにらめっ..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-06-15 00:01

『絵馬堂』探しはまだまだつづく。
Excerpt:  相変わらず、佐伯祐三が1926年(大正15)ごろに描いたとみられる『絵馬堂』Click!を探しつづけている。この作品のタイトル、実は仕上げられてから間もない時期には、単に『堂』という題名だったよう..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2007-07-30 00:05

壇一雄と「ワゴン」と首つり長屋。
Excerpt: 壇一雄が上落合に引っ越してきたのは、モチーフとしての“落合”を描きたかったからなのかもしれない。ボヘミアン的な洋画家になりたかったらしい彼は、1932年(昭和7)に入学した帝大へはほとんど顔を出さず、..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2008-10-01 00:06

「かしの木のある家」だと思うが・・・。
Excerpt: この佐伯の『下落合風景』は、1926年(大正12)9月24日に描かれた、おそらく「かしの木のある家(風景)」だと思うのだが、描画場所がどこだか特定できない。もう1年近くも、空中写真や地図とにらめっこし..
Weblog: Chinchiko Papalog
Tracked: 2011-11-04 19:16

質屋の看板が目ざわりだった一ノ坂。
Excerpt: 下落合4丁目1982番地(現・中井2丁目)に住んだ矢田津世子Click!は、関東大震災Click!ののち1925年(大正14)から1927年(昭和2)にかけ、身体の具合がよくない役人の父親が静養できる..
Weblog: 落合道人 Ochiai-Dojin
Tracked: 2016-01-22 00:01